佐藤優「わが獄中読書記」

池田信夫氏のブログを読んでいるとしばしば宇野弘蔵の名前が挙がる。
池田氏は2年前、佐藤優の「わが獄中読書記」(『東洋経済』2006年8/12・19合併特大号)を引き合いに出し、宇野を紹介したことがある。

小生は興味をそそられ、その「読書記」を読んでみた。そして佐藤が宇野弘蔵の著作について言及したのは次のような文脈であることがわかった。

まず、ケインズ型からハイエク型への時代の転換について考えてみた。アメリカ発の新自由主義の内在的論理を把握するためには、国際経済の解説書よりもマルクス経済学の理論書が役に立った。特に宇野弘蔵の『恐慌論』(宇野弘蔵著作集第5巻』岩波書店)が面白かった。(『東洋経済』2006年8/12・19合併特大号)

つまり新自由主義の論理をつかむためには、国際経済の本を読むより宇野弘蔵の書いた『恐慌論』の方が役に立つぞというわけだ。
また、上の発言に続けてハーバーマスにも言及している。晩期資本主義つまり我々が生きる今の社会について、いわゆるフランクフルト左翼の指導的理論家ハーバーマスが見せた次の鋭い指摘に、佐藤氏はある疑問が氷塊したと述べている。ではその疑問とは何かと言えば、教育水準が高く、情報へのアクセスも保証されている日本において、なぜ小泉氏や田中真紀子氏の吐く乱暴な言説が影響力を持つに至ったのかということだ。「読書記」にはハーバーマスの著書から次の箇所が引用されていた。

たとえば内容的にはまだ明確にされていない決定権力に対する同調態度の動機は、この権力が正統的な行動規範に合致して行使されるであろうという期待である。順応気構えの≪究極の≫動機は、疑わしい場合には自分が議論によって納得されるであろうという確信である。


『晩期資本主義における正統化の諸問題』69ページ

この記述を読んで感銘を受けたという佐藤氏の優れた読解力はこのさい脇に置く。率直に言って、これはかなり解りにくい訳文である。日本語としても不自然だ。たとえば「順応気構え」とはなんであろうか?訳者(細谷貞雄)をして斯くも珍妙な訳文を生み出さしめるハーバーマスの原文がどんな具合なのか、小生はむしろそっちの方に興味を掻き立てられたので調べてみたところ、以下の通りであった。

:das Motiv für die Bereitschaft zur Konformität gegenüber einer inhaltlich noch unbestimmten Entscheidungsgewalt ist die Erwartung, daβ diese übereinstimmend mit legitimen Handlungsnormen ausgeübt wird. »Letztes« Motiv der Folgebereitschaft ist die Überzeugung, daβ ich mich im Zweifelsfall diskursiv überzeugen lassen kann.


"Legitimationsprobleme im Spätkapitalismus" p.64


原文をよく読むと、問題の「順応気構え」は "Folgebereitschaft" という単語に対する訳語であることが見て取れる。これは17文字から成るずいぶん長い単語に思えるが実は "Folge" と "bereitschaft" に分離可能である。"Folge" は英語で言う "follow"、つまり「従う」こと。"bereitschaft" は英語で言う "readiness" つまり「気構え」。なんのことはない。ここから読み取れるのは次の単純な事実である。「順応気構え」とはすなわち「従おうとする気構え」ということだ。「順応」と「気構え」を無理やり引っ付けたりするから珍妙な日本語になってしまうのだ。
ところで上記とは別の話だが、ドイツ語原文と細谷の日本語訳を比べてみて誤訳ではないかと疑われる点に気がついた。第二文の「議論によって」がそれだ。ドイツ語の原文を見てみると "diskursiv" という語がある。この単語は英語で言う "discursively" であり、「まとまりなく」とか「漫然と」を意味する。ところがこの意味の言葉は、細谷訳の日本語文のどこを探しても見当たらない。代わりに「議論によって」という出処不明の文言が紛れ込んでいる。これは憶測だが、細谷はもしかすると "diskursiv" を "diskussiv" と読み違えたのではあるまいか。そう考えるとしっくり来るのだ。真相は訳者のみ知るところであるが、いずれにしても細谷訳には原文に存在するはずの "diskursiv" の意味が抜けていることだけはハッキリとしている。まことに原文にあたってみることは重要である。
ちなみに、当該箇所の英文(Thomas McCarthy 訳)は以下の通りである。

The motive for readiness to conform to a decisionmaking power still indeterminate in content is the expectation that this power will be exercised in accord with legitimate norms of action. The ultimate motive for readiness to follow is the citizen's conviction that he could be discursively convinced in case of doubt.


"Legitimation Crisis" p.43(Chapter 2)


同誌に掲載された「わが獄中読書記・愛読30冊リスト」を引用しておく。

  1. 宇野弘蔵『恐慌論』(『宇野弘蔵著作集〈第5巻〉恐慌論』1974, 岩波書店
  2. 宇野弘蔵『経済原論I』(『宇野弘蔵著作集〈第1巻〉経済原論』1973, 岩波書店
  3. 柄谷行人<戦前>の思考講談社学術文庫
  4. ゲルナーイスラム社会 (文化人類学叢書)紀伊國屋書店
  5. ゲルナー民族とナショナリズム
  6. 櫻部建ほか『存在の分析「アビダルマ」―仏教の思想〈2〉』角川文庫ソフィア
  7. 聖書―新共同訳
  8. スミス『ネイションとエスニシティ―歴史社会学的考察
  9. 新編日本古典文学全集 (54) 太平記 (1)小学館
    新編日本古典文学全集 (55) 太平記 (2)小学館
    新編日本古典文学全集 (55) 太平記 (3)小学館
    新編日本古典文学全集 (55) 太平記 (4)小学館
  10. 高崎直道ほか『唯識思想 (講座・大乗仏教)』春秋社
  11. 多川俊映はじめての唯識』春秋社
  12. 竹村牧男『唯識の構造』春秋社
  13. チャペック『山椒魚戦争岩波文庫
  14. テュヒレキリスト教史〈5〉信仰分裂の時代平凡社ライブラリー
  15. ノウルズほか『キリスト教史〈3〉中世キリスト教の成立平凡社ライブラリー
  16. ノウルズほか『キリスト教史〈4〉中世キリスト教の発展平凡社ライブラリー
  17. 廣松渉『近代の超克』(『廣松渉著作集〈第14巻〉近代の超克』)
  18. 廣松渉『存在と意味1、2』
    (『廣松渉著作集〈第15巻〉存在と意味 第1巻』、
    廣松渉著作集〈第16巻〉存在と意味 第2巻』)
  19. ハーバーマス公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究
  20. ハーバーマス
    コミュニケイション的行為の理論 上
    コミュニケイション的行為の理論 中
    コミュニケイション的行為の理論 下
  21. ハーバーマス
    哲学的・政治的プロフィール―現代ヨーロッパの哲学者たち 上
    哲学的・政治的プロフィール―現代ヨーロッパの哲学者たち 下
  22. ハーバーマス認識と関心
  23. ハーバーマス晩期資本主義における正統化の諸問題 (1979年) (岩波現代選書〈29〉)』(Legitimationsprobleme Im Spatkapitalismus)
  24. ハーバーマス理論と実践―社会哲学論集
  25. 藤本隆志『ウィトゲンシュタイン (講談社学術文庫 (1323))
  26. ヘーゲル
    精神現象学上 (平凡社ライブラリー)
    精神現象学下 (平凡社ライブラリー)
  27. ヘーゲル
    歴史哲学講義 (上) (岩波文庫)
    歴史哲学講義〈下〉 (岩波文庫)
  28. マルコ・ポーロ
    東方見聞録1 (平凡社ライブラリー)
    東方見聞録2 (平凡社ライブラリー)
  29. モルトマン『三位一体と神の国』(J.モルトマン組織神学論叢 (1) (組織神学論叢 1))
  30. モルトマン『創造における神』(J.モルトマン組織神学論叢 (2) (組織神学論叢 2))