佐藤賢一の文章力
かのフランス革命を描く、佐藤賢一の意欲作『革命のライオン (小説フランス革命 1)』を読んでいる。そして、まだ最初の数ページしか眼を通していないにもかかわらず早くも佐藤の文章力に疑念が湧いてきた。
「が、」の誤用
宮殿の威容には割合すぐに馴れてしまう。が、ヴェルサイユという土地の正体は、鬱蒼たるまでに広大な森林だった。(p.007)
この「が、」は使い方を間違えているしパラグラフを読みにくくしている。というのも、「が、」は逆接の接続詞であり、本来この接続詞の前後には意味の逆転が存在するはずであるが、佐藤の文では意味の逆転がないために、読み手は「が、」の後に続く文を読み終えたとき、なぜこのパラグラフに「が、」が必要だったんだろう、と考え込んでしまうからだ。
ところが、である。
煉瓦を積み上げ、左右に大きく翼を拡げ、木々を倒して、幾何学模様の庭園を整え、沼地の灌漑工事の仕上げに運河を通しと、ヴェルサイユ宮殿の建設はそれとして、確かに歴史に刻まれるに値する巨大事業だった。ところが、である。(p.007)
「ところが、である。」とは何だろうか?そんな文の形が許されるのだろうか?しかも、それをパラグラフの最後に置く神経はどこから来るのだろうか?全くもって意味が不明である。本当にこの人は作家なのだろうか?
文意の不明確さ
ろくろく木漏れ日も射さない森の暗さは、山国スイスに生まれた人間をして、なお得体の知れない不安に駆り立てるものだった。フランスという国の底知れなさを、それとなく警告するようでもあったというのは、雅にも軽々しい楽曲が絶えるかわりに、そこでは覚えがないくらいの静寂が、絶対の支配者だった。(p.008)
「雅にも軽々しい楽曲が絶えるかわりに、そこでは覚えがないくらいの静寂が、絶対の支配者だった。」の意味がよくわからない。「軽々しい楽曲が絶える」とは何の描写だろうか?「覚えがないくらいの静寂」とは何だろうか?この「覚えがない」は「身に覚えがない」の省略形のつもりだろうか?「絶対の支配者」とは何だろうか?
- 作者: 佐藤賢一
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