集中講義!アメリカ現代思想 - リベラリズムの冒険 - 仲正昌樹
集中講義! アメリカ現代思想 リベラリズムの冒険 (NHKブックス)
- 作者: 仲正昌樹
- 出版社/メーカー: NHK出版
- 発売日: 2008/09/25
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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序 アメリカ発、思想のグローバリゼーション
アメリカの思想の一般的イメージ
- p.11 A. トクヴィル
『アメリカの民主政治(上)』(講談社学術文庫)
『アメリカの民主政治(中)』
『アメリカの民主政治(下)』
第一の経路
第二の経路
- p.22 飯田隆 (編集)『哲学の歴史〈第11巻〉論理・数学・言語 20世紀2』
第一講 「自由の敵」を許容できるか
全体主義への誘惑
- p.38 エーリッヒ・フロム『自由からの逃走 新版』
- p.38 フリードリヒ・A. ハイエク『隷従への道―全体主義と自由』
「自由ゆえの孤独」をいかに克服するか
人間が社会を支配し、経済機構を人間の幸福の目的に従属させるときにのみ、また人間が積極的に社会過程に参加するときにのみ、人間は現在かれを絶望----孤独と無力感----にかりてているものを克服することができる。人間がこんにち苦しんでいるのは、貧困よりも、むしろかれが大きな機械の歯車、自動人形になってしまったという事実、かれの生活が空虚になりその意味を失ってしまったという事実である。(……)デモクラシーは、人間精神のなしうる、一つの最強の信念、生命と心理とまた個人的自我の積極的な自発的な実現としての自由にたいする信念を、ひとびとにしみこませることができるときにのみ、ニヒリズムの力に打ち勝つことができるであろう。(日高六郎訳『自由からの逃走(新版)』、東京創元社、一九六五年、三〇二頁)
アーレントの「自由」擁護論
- p.45 ハナ・アーレント『全体主義の起原 1 ――反ユダヤ主義』
自由と複数性
- p.47 濱真一郎『バーリンの自由論―多元論的リベラリズムの系譜』
公的領域と私的領域
- p.48 ハンナ・アレント『人間の条件 (ちくま学芸文庫)』
- p.49 ユルゲン・ハーバーマス『公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究』
リバティーとフリーダム
- p.55 ハンナ・アレント『革命について (ちくま学芸文庫)』
自由の二つの伝統
- p.59 F.A.ハイエク『自由の条件I ハイエク全集 1-5 【新版】』
ハイエクの設計主義批判
第二講 自由と平等を両立せよ!----「正義論」の衝撃
ウーマンリブの登場
- p.69 Betty Friedan, Anna Quindlen『The Feminine Mystique』
- p.69 ベティ・フリーダン『新しい女性の創造』
アメリカ的な「リベラル」とは何か
- p.72 J.K.ガルブレイス『ゆたかな社会 決定版 (岩波現代文庫)』
マクルーゼとミルズ----「リベラル」への挑戦
- p.78 H.マルクーゼ『エロス的文明 (1958年)』
- p.78 H.マルクーゼ『一次元的人間 (1974年) (Bibliotheca sine titulo)』
- p.78 C.ライト・ミルズ『ホワイト・カラー―中流階級の生活探究 (現代社会科学叢書)』
- p.79 C.W.ミルズ『パワー・エリート 上 (UP選書 28)』
- p.79 ライト・ミルズ『社会学的想像力 (1965年)』
規範倫理学とメタ倫理学
- p.84 川本隆史『ロールズ―正義の原理 (現代思想の冒険者たち)』
- p.84 G.E.ムーア『倫理学 (1977年) (りぶらりあ選書)』
第三講 リバタリアニズムとコミュニタリアニズム----リベラルをめぐる三つ巴
「反省的均衡」とは何か
- p.113 ロナルド・ドゥウォーキン「正義と権利」(『シカゴ・ロー・レビュー』一九七三)
全ての基本は「平等への権利」
- p.120 ロナルド・ドゥウォーキン「資源の平等」(一九八一)
リバタリアンのリベラル批判
- p.121 アイン・ランド『肩をすくめるアトラス』
「最小国家」の役割
- p.122 ロバート・ノージック『アナーキー・国家・ユートピア―国家の正当性とその限界』
「守護国家」と「生産国家」
- p.126 J.M.ブキャナン『自由の限界―人間と制度の経済学 (1977年)』
アナルコ・キャピタリズムの発想
- p.128 デイヴィド・フリードマン『自由のためのメカニズム―アナルコ・キャピタリズムへの道案内』
国家は犯罪者集団である!
- p.130 マリー・ロスバード『自由の倫理学―リバタリアニズムの理論体系』
「共通善」の喪失
- p.134 アラスデア・マッキンタイア『美徳なき時代』
「負荷なき自己」批判
- p.136 M.J.サンデル『自由主義と正義の限界』
ウォルツァーの多元論的前提
- p.140 マイケル・ウォルツァー『正義の領分─多元性と平等の擁護─』
多文化主義的コミュニタリアニズム
- p.144 R.N.ベラー『徳川時代の宗教 (岩波文庫)』
第四講 共同体かアイデンティティか
ネオコンから宗教右派まで
- p.151 佐々木毅『現代アメリカの保守主義 (同時代ライブラリー)』
主流派の危機意識
- p.155 萩原能久『ポスト・ウォー・シティズンシップの思想的基盤 (叢書 21COE‐CCC 多文化世界における市民意義の動態)』(田上雅徳「救済・霊・預言----現代アメリカにおける福音派と政治」)
保守派による「リベラルな専制」批判
- p.156 ロバート・ニスベット「新しい専制主義」(一九七五)
- p.158 Robert A. Nisbet, Brad Lowell Stone『Conservatism: Dream and Reality (Library of Conservative Thought)』
「伝統的教養」擁護論
- p.158 アラン・ブルーム『アメリカン・マインドの終焉―文化と教育の危機』
「保守主義」vs.「差異の政治」
- p.163 松尾知明『アメリカ多文化教育の再構築』
- p.163 アーサー・M.,Jr.シュレージンガー『アメリカの分裂―多元文化社会についての所見』
第五講 ポストモダンとの遭遇---リベラルは価値中立から脱却できるか
ポストモダン左派の隆盛
- p.167 ジャック・デリダ『グラマトロジーについて 上』
- p.168 エドワード・W.サイード『オリエンタリズム 上 (平凡社ライブラリー)』
フーコーをめぐる論争
- p.172 ミシェル・フーコー『監獄の誕生 ― 監視と処罰』
- p.172 ミシェル・フーコー『知への意志 (性の歴史)』
闘争か承認か---コノリーとテイラー
- p.173 ウィリアム・E.コノリー『アイデンティティ\差異―他者性の政治』
- p.174 チャールズ・テイラー『「ほんもの」という倫理―近代とその不安』
アメリカン人であるとはどういうことか
- p.177 Will Kymlicka『Liberalism Community, and Culture (Clarendon Paperbacks)』
- p.177 ウィル・キムリッカ『多文化時代の市民権―マイノリティの権利と自由主義』
- p.177 松元雅和『リベラルな多文化主義 (叢書21COE‐CCC多文化世界における市民意識の動態)』
- p.179 J.S.ミル『自由論 (岩波文庫)』
- p.179 ケイト・ミレット『性の政治学』
ポルノグラフィをめぐるすれ違い
- p.183 若林翼『フェミニストの法―二元的ジェンダー構造への挑戦』
- p.183 キャサリン・A.マッキノン『セクシャル・ハラスメント・オブ・ワーキング・ウィメン』
私的領域における「正義」
- p.185 Susan Moller Okin『Justice, Gender, and the Family』
ポストモダン受容の背景
- p.190 浅田彰『構造と力―記号論を超えて』
- p.194 浅田彰『逃走論―スキゾ・キッズの冒険 (ちくま文庫)』
- p.195『諸君!』
- p.195『正論』
- p.195 ベネディクト・アンダーソン『定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険2期4)』
日本のポストモダン左派は、「国民国家」---と、その構成員としての「日本人」のアイデンティティ---の虚構性を批判的に論ずる文脈で、比較政治学者でコーネル大学教授のベネディクト・アンダーソン(一九三六- )の『想像の共同体』(一九八三、日本語訳一九八七)をしきりと参照するが、植民地統治下にあって「一つの国民」としてのアイデンティティが構築されてきたインドネシアなどの第三世界諸国をモデルにするアンダーソンの研究を、(沖縄とアイヌ居住地を除いて)近代化以前から国土とその住民の大部分が国としての一定のまとまりを持っていた日本に当てはめることには無理がある。
第六講 政治的リベラリズムへの戦略転換----流動化する「自由」
ローティの挑戦
- p.199 哲学と自然の鏡
彼をアメリカの哲学界で有名にした『哲学と自然の鏡』(一九七九)では、デカルト以降の近代の認識論的哲学が、人間の「心」(=主体)をまるで「自然」(=客体)を正しく映す「鏡」であるかのようにイメージし、その「鏡」をいかに正確に再現するかにのみ専念してきたと指摘され、そうした基本的発想自体が不毛だと批判されている。「心」は、「鏡」のように世界を正確に映し出すわけではないからである。主体の内面から「言語」へと焦点をシフトした現代の言語哲学も、「言語」を世界の正しい姿(=真理)を映し出す「鏡」として扱っている点で、認識論的哲学と基本的に同じ図式に依拠している。ローティは、「鏡」としての「心」あるいは「言語」を知識の絶対的な源泉と見なし、その「鏡」の反射のメカニズムを探究することで、全ての知を基礎付けようとする哲学の態度を「基礎付け主義 foundationalism」と呼び、これに固執することを不毛と見なす。 ローティは、哲学者相互の会話としての「哲学」という営みには、共同で真理を探究し、異論の余地のない最終的真理に到達することを目的とする「認識論 epistemology」的なタイプのものと、会話者同士の合意を目指しながらも、意見の不一致もさらなる対話のための生産的な刺激と見なす「解釈学 hermeneutics」的なタイプのものがあると指摘する。 前者の哲学観は「知」を「基礎付ける」者としての職業的な哲学者を特権化する傾向があるのに対して、後者は「知」をめぐる会話の文脈を広げ、多様化させていく傾向がある。人間の「知」は、各人の置かれている社会的な立場、歴史や文化などの偶然的な要素によって規定されている部分が大きい。"同じもの"に対する見方が立場によって異なってくるので、どういう文脈で成されている「会話」かに関係なく、誰にとっても常に通用する"真理"を求めても仕方ない。ローティに言わせれば、お互いの依拠する文脈を理解し合いながら、視野を広げていく「解釈学」的な会話の方が生産的である。
重なり合う合意
- p.201 正義論
リベラル・アイロニストの特性
「文化左翼」批判
コミュニケーション的理性と公共的理性
- p.215 事実性と妥当性(上)― 法と民主的法治国家の討議理論にかんする研究
- p.216『The Journal of Philosophy, Volume 92, Issue 3(Mar., 1995), 109-131.』("Reconciliation through the Public Use of Reason:Remarks on Rawls' Political Liberalism.")
- p.216 岩波講座 憲法〈3〉ネーションと市民
民主主義の問い直し----ラディカル・デモクラシー
第七講 <帝国>の自由----「歴史の終焉」と「九・一一」
自由民主主義の勝利?
- p.225 歴史の終わり〈上〉歴史の「終点」に立つ最後の人間
- p.225『ナショナル・インタレスト』の一九八九年夏季号 (Summer 1989, The National Interest)
「西欧の限界」
- p.227『フォーリン・アフェアーズ』一九九三年夏季号(Foreign Affairs, Summer 1993)
- p.228 文明の衝突
「衝突」をいかに回避するか
- p.229 ジハード対マックワールド―市民社会の夢は終わったのか
- p.230 “私たち”の場所―消費社会から市民社会をとりもどす
「万民の法」----"グローバルな正義論"の試み
- p.232 国際秩序と正義
正義論の導入
- p.236 正しい戦争と不正な戦争
<帝国>とは何か
リベラル左派の右転回
- p.247 孤独なボウリング―米国コミュニティの崩壊と再生
第八講 リベラリズムから何を汲み取るべきか
センの「潜在能力」アプローチ
- p.257 クオリティー・オブ・ライフ―豊かさの本質とは
思想業界を圧倒する「アメリカの影」
- p.259『現代思想』
- p.259『Vol.』
- p.259『Ratio』
- p.259『世界』
- p.259 アメリカの影―戦後再見 (講談社学術文庫)