集中講義!アメリカ現代思想 - リベラリズムの冒険 - 仲正昌樹

集中講義! アメリカ現代思想 リベラリズムの冒険 (NHKブックス)

集中講義! アメリカ現代思想 リベラリズムの冒険 (NHKブックス)

第一講 「自由の敵」を許容できるか

全体主義への誘惑
「自由ゆえの孤独」をいかに克服するか
 人間が社会を支配し、経済機構を人間の幸福の目的に従属させるときにのみ、また人間が積極的に社会過程に参加するときにのみ、人間は現在かれを絶望----孤独と無力感----にかりてているものを克服することができる。人間がこんにち苦しんでいるのは、貧困よりも、むしろかれが大きな機械の歯車、自動人形になってしまったという事実、かれの生活が空虚になりその意味を失ってしまったという事実である。(……)デモクラシーは、人間精神のなしうる、一つの最強の信念、生命と心理とまた個人的自我の積極的な自発的な実現としての自由にたいする信念を、ひとびとにしみこませることができるときにのみ、ニヒリズムの力に打ち勝つことができるであろう。(日高六郎訳『自由からの逃走(新版)』、東京創元社、一九六五年、三〇二頁)
自由と複数性
リバティーとフリーダム

第二講 自由と平等を両立せよ!----「正義論」の衝撃

黒人の権利拡張への反発
ウーマンリブの登場
アメリカ的な「リベラル」とは何か
マクルーゼとミルズ----「リベラル」への挑戦
アメリカの「正義感覚」を再定義する
ロールズ的な「正義」の射程
  • p.89 ジョン・ロールズ「配分における正義」(一九六七)
「市民的不服従」正当化の論理

第三講 リバタリアニズムコミュニタリアニズム----リベラルをめぐる三つ巴

功利主義からの反論
  • p.111 ケネス・アロー書評論文(『ジャーナル・オブ・フィロソフィー』七三年五月号)
  • p.112 ジョン・ハーサニンの論文(一九七五)
「反省的均衡」とは何か
  • p.113 ロナルド・ドゥウォーキン「正義と権利」(『シカゴ・ロー・レビュー』一九七三)
全ての基本は「平等への権利」
  • p.120 ロナルド・ドゥウォーキン「資源の平等」(一九八一)
「守護国家」と「生産国家」
国家は犯罪者集団である!
「共通善」の喪失
「負荷なき自己」批判
ウォルツァーの多元論的前提

第四講 共同体かアイデンティティ

主流派の危機意識
保守派による「リベラルな専制」批判
保守主義」vs.「差異の政治」

第五講 ポストモダンとの遭遇---リベラルは価値中立から脱却できるか

闘争か承認か---コノリーとテイラー
アメリカン人であるとはどういうことか
ポルノグラフィをめぐるすれ違い
私的領域における「正義」
ポストモダン受容の背景
日本のポストモダン左派は、「国民国家」---と、その構成員としての「日本人」のアイデンティティ---の虚構性を批判的に論ずる文脈で、比較政治学者でコーネル大学教授のベネディクト・アンダーソン(一九三六- )の『想像の共同体』(一九八三、日本語訳一九八七)をしきりと参照するが、植民地統治下にあって「一つの国民」としてのアイデンティティが構築されてきたインドネシアなどの第三世界諸国をモデルにするアンダーソンの研究を、(沖縄とアイヌ居住地を除いて)近代化以前から国土とその住民の大部分が国としての一定のまとまりを持っていた日本に当てはめることには無理がある。

第六講 政治的リベラリズムへの戦略転換----流動化する「自由」

ローティの挑戦
 彼をアメリカの哲学界で有名にした『哲学と自然の鏡』(一九七九)では、デカルト以降の近代の認識論的哲学が、人間の「心」(=主体)をまるで「自然」(=客体)を正しく映す「鏡」であるかのようにイメージし、その「鏡」をいかに正確に再現するかにのみ専念してきたと指摘され、そうした基本的発想自体が不毛だと批判されている。「心」は、「鏡」のように世界を正確に映し出すわけではないからである。主体の内面から「言語」へと焦点をシフトした現代の言語哲学も、「言語」を世界の正しい姿(=真理)を映し出す「鏡」として扱っている点で、認識論的哲学と基本的に同じ図式に依拠している。ローティは、「鏡」としての「心」あるいは「言語」を知識の絶対的な源泉と見なし、その「鏡」の反射のメカニズムを探究することで、全ての知を基礎付けようとする哲学の態度を「基礎付け主義 foundationalism」と呼び、これに固執することを不毛と見なす。  ローティは、哲学者相互の会話としての「哲学」という営みには、共同で真理を探究し、異論の余地のない最終的真理に到達することを目的とする「認識論 epistemology」的なタイプのものと、会話者同士の合意を目指しながらも、意見の不一致もさらなる対話のための生産的な刺激と見なす「解釈学 hermeneutics」的なタイプのものがあると指摘する。  前者の哲学観は「知」を「基礎付ける」者としての職業的な哲学者を特権化する傾向があるのに対して、後者は「知」をめぐる会話の文脈を広げ、多様化させていく傾向がある。人間の「知」は、各人の置かれている社会的な立場、歴史や文化などの偶然的な要素によって規定されている部分が大きい。"同じもの"に対する見方が立場によって異なってくるので、どういう文脈で成されている「会話」かに関係なく、誰にとっても常に通用する"真理"を求めても仕方ない。ローティに言わせれば、お互いの依拠する文脈を理解し合いながら、視野を広げていく「解釈学」的な会話の方が生産的である。
重なり合う合意
コミュニケーション的理性と公共的理性
誤記)「フィロソフィー・オブ・ジャーナル」九二号(一九九五年三月)

第七講 <帝国>の自由----「歴史の終焉」と「九・一一」

自由民主主義の勝利?
「西欧の限界」
「万民の法」----"グローバルな正義論"の試み
正義論の導入