私の履歴書(鳥羽博道-12)

 ある日再び許し難い事が起こり、それを機に自分の手で理想の会社を作ろうと考えた。それは「厳しさの中にも和気蕩々」たる会社、社長含め社員同士真剣に働き、それにより互いに讃え合い認め合う、そこに和気蕩々たるなごやかな雰囲気のある会社を作りたかった。すさんだ人間関係を沢山みてきた反動かもしれない。
 そうは言うものの独立資金はゼロ。この様な状況で独立する事は無謀の上にも無謀な事であった。資本金は知人から借金をした。ドトールコーヒーはゼロからのスタートではなくマイナスからのスタートであった。
 一九六二年(昭和三十七年)、二十四歳の春にドトールコーヒーは誕生した。ブラジルで住んでいた地名「ドトール・ピント・フェライス通り85番地」にちなんで社名を決め、マークも考案した。ドトールとは英語でいうドクターだ。八畳一間の事務所を借り、中古の小さな焙煎機と、木製の中古の机と、やはり中古の軽四輪車、社員は私を入れ三人でドトール丸は船出した。
 幸い、あるコーヒー生豆の卸商の社長が、私の状況を理解し、何ら信用も無い私に九十日の手形で商品を卸してくれた。先行きの経営計画も無く商売を始め、あるのはただ一つ「厳しさの中にも和気蕩々」という理念だけだった。
 しかし、いくら高い理想を謳ったところで、いざ商売をやる段になると、信用も実績も全く無く、価格が安いわけでもない。門前払いは当たり前。当時日本の同業者は既に三百五十社近くもあったので、ドトールの様な後発の零細企業がそう簡単に市場に食い込める筈もなかった。
 しつこくセールスに行くと露に嫌な顔をされ、時に怒鳴られる事もあった。
 運良く買ってくれても、代金を回収するのにまた一苦労する有様。閉店時間を狙って足を運び、レジを閉めた瞬間に頭を下げてようやく代金を支払ってもらったり、店では経営者に会えず、経営者の自宅を調べ朝一番に集金に行った。
 商売はなかなか軌道に乗らず、毎朝、目を覚ますたびに、倒産という二文字が頭をよぎり、夜も眠りに就くことができず、自宅近くの神宮外苑を歩きながら心を鎮め、ある晩、はっと気がついた。
 「潰れる、潰れると思うから心が萎縮して思い切った仕事が出来ない。明日潰れてもいいと思えば何でもないじゃないか。今日一日、体の続く限り全力で働こう」
 開き直ると人間は強い。それからは文字通り今日一日、今日一日と体力の続く限りひたすら商売に全力で打ち込んでいった。
 そうすることで、お客様からは「若いのに必死になってやっているなあ」と思われたらしく、一軒また一軒とコーヒーを買ってくれ、知り合いの喫茶店を紹介してくれるようにもなり、お客様の輪が広がっていった。
 当時の車は暖房がなく、真冬の夜は凍える。寒さに震えながら、一日の間に横浜、千葉、群馬の得意先を配達して回った事もある。
 会社を設立して二年を過ぎたあたりから、どうやら収支が合うようになってきた。友人の紹介で恵比寿のドレスメーカーに勤めていた家内の寿子と知り合い結婚。翌年、長男の豊が誕生した。


---日本経済新聞2009年2月13日