私の履歴書(鳥羽博道-14)

 日本で飲食業のコンサルタントとしては一流とされていた方がいた。当社の社員が非常にその方にかわいがられており、その人がコンサルティングをする店のコーヒーの取引を紹介してくれた。中には成功しない店もあった。もっとも企業がサイドビジネスとしてやる分には失敗しても店を閉じるだけで済む。
 しかしある時、ご主人を亡くした一人の女性が、その保険金でその後の生計を立てたいと考え、そのコンサルタントの指導の下、東京・溜池で喫茶店を開業する事になった。私もオープン時に見に行った瞬間、これはうまくいかいなと感じた。案の定、その店はうまくいかず、いつしか資金も底を突き、その方はノイローゼに陥ってしまった。
 しかしコンサルタントは何も手を打たず、そればかりか、今でも高価だが、当時はそれこそ超高級の外車であった白いジャガーを乗り回し、自分の愛人に店をやらせていた。私はそれを知って大変義憤を感じ「この人は人の生き血を吸う吸血鬼だ」と思った。そのコンサルタントには十分なお礼をし「これからは得意先を紹介して頂かなくても結構です」と話した。
 私はこんな不幸な人ができていい筈はない、こういう不幸な人を作らない為の手本となる店を作ろうと考えた。
 また、これからの時代を考え、売り上げの限界が早く来る喫茶だけではなく、店頭でコーヒー豆も販売するコーヒー専門店。その時のコンセプトは「健康的で明るく、老若男女ともに親しめる店」とした。
 その当時の日本の喫茶店というと、家庭の主婦や高校生は入店できなかった。薄暗く、かなり不健康な店が多かった。名曲喫茶、ジャズ喫茶などのほか、同伴喫茶や美人喫茶といった風俗営業まがいの店もかなりあった。私は老いも若きも男女の差別無く入れる店を目指す事にした。
 その当時私は世田谷の弦巻に住んでおり、ある日、家内と三軒茶屋まで一緒に買い物に出かけた。常々どこかに貸店舗は無いかと考えていた為、十二坪の貸店舗が目にとまった。将来のレギュラーコーヒーの販売という事も考え、高級住宅街を控えた商店街という風に目標を定めていた事もあり、ここに一号店を開こうと決めた。
 自分の趣味に走らない、お客様の立場に立った店作りという事を念頭に置き、当時有力なデザイナーに設計を依頼した。その設計者は人気がある為、なかなか設計に取りかかってくれない。
 物件の家賃は支払っている為、もうこれ以上待てないと思い、品川にある事務所に夕方六時に行き、夜の十二時までじっと待った。ようやくこちらを向いて「そろそろやろうか」という事になり「鳥羽さん、どうしたらいい?」と聞かれた。時間もなく、それまで自分なりに考え抜いていた事もあり「図面を描いていたら遅くなります。スケッチだけを描いて下さい」と頼んだ。
 私の思う店作りを伝え、設計者は朝五時までかけて描き上げてくれた。そのまま新宿にある内装業者の所に行き。
 「このスケッチを早急に図面化してください。そして急いで見積もりを作って頂きたい」と申し入れた。結果的に自分の思い通りの素晴らしい店が出来た。


---日本経済新聞2009年2月15日