私の履歴書(鳥羽博道-15)

 一九七二年(昭和四十七年)、「健康的で明るく、老若男女ともに親しめる店」をコンセプトに掲げた「カフェコロラド」直営一号店が東京の三軒茶屋に開業した。「老若男女ともに親しめると言葉で言うと簡単そうだが、私はスプーン一つ、カップ一つまで、年配の方に合うか、若い人に合うかと、微に入り細に渡り、隙なく追求した。一つ一つのメニューも、老若男女に受け入れられるものでなければならなかった。コック見習や店長の経験、ブラジルでバールを利用していた事など、過去の経験の全てを、この店に注ぎ込んだ。
 会社創立から常にないない尽くしだった私には、コロラド開店の為の資金調達も楽ではなかった。ある大手商社のコーヒー担当者に、こういう思いで店をやりたいと情熱をもって語り、彼は私に共感してくれ、上司の了解を得て、私が切った十二万五千円の手形六十枚を引き受けてくれた。五年返済で、このうち百五十万円は金利分なので、差し引き(百万円を借りた事になる。その時、担当の女性から「こんな小額の手形を初めて貰いました」と言われた。
 こうしてようやく開店したコロラドだったが、なかなかお客さんは入ってくれなかった。悩む私を見た社員の一人から「社長は考え過ぎるからいけないんですよ」と言われた。この言葉は後々までずっと私の頭に刻み込まれた。
 店に魅力を持たせ、商品に魅力を持たせ、人によるサービスに魅力を持たせる事に最大限の努力をしつつ、三カ月を経過した頃、一気にお客様が入り始めた。
 今まではサラリーマンと学生が喫茶店のお客様となる対象であったが、「コロラド」は、先のコンセプト通り、年配の方も、若い方も、また家庭の主婦も子連れで訪れた。サラリーマンや学生も含め、ありとあらゆる方々が入ってくれた。それぞれのお客様の入る時間帯が違う為、当時、成功する喫茶店は一日にお客様が六回転すると言われていた中、コロラドでは何と十二回転もする様になった。
 店は大成功し、私は一冊の大学ノートに、その日の天気、飲み物、食べ物、コーヒ豆の挽き売りの売上高をそれぞれ記録し、トータルの売上高を書き込んでいった。 なぜ「コロラド」という名にしたのか。その頃、ブラジルで成功した日本人の大農園主が三人集まり、自分たちの作ったコーヒーを祖国の人々に飲んで貰いたいという思いから会社を作った。その社名が「コロラド輸出入会社」だったのだ。ブラジルで働いていた私はその心情が良く分かり、その方々の為にも、そのコーヒーを使った店を作り、その方々に貢献したいと思ったので、その思いを込めた店名だった。
 脱サラ華やかなりし時代であり、盛業店として業界誌に何度も紹介され、多くの人が見に来た。「自分もコロラドをやりたい」という人が相次ぎ現れ、コロラドは十年間かけ、ついに二百五十店まで増えた。多くのオーナーが「コロラドをやったおかげで家も買え、子供も大学に行かせ、ここまでやってこれました」と喜んでくれ、そうした声を聞くのが私にとっては一番嬉しい。
 出発点の「人の不幸を作らない」という思いが全てに貫かれている。この考え方は、以後、当社の重要なポリシーの一つとなった。


---日本経済新聞2009年2月16日