私の履歴書(鳥羽博道-24)

 日本企業の多くにとって一九九〇年代は「失われた十年」となった。しかしドトールコーヒーにとって逆に着々と成長を遂げた十年間だった。ドトールコーヒーショップ(DCS)が年々増えたという事だけではなく、一九九三年、コーヒー焙煎業界初の株式店頭公開を果たした。私にとっては唯一の勲章だと思っている。
 またこの頃DCSの拡大をしつつも、都内に三カ所、千葉、埼玉、神奈川に三カ所の営業所を持ち、五千店を超える喫茶店、レストランヘコーヒーの卸しを行っていた。
 この分野は、ますます価格競争が激しくなり、サービス合戦に明け暮れていた。各店に注文を聞き、伝票を発行し、品ぞろえをした上で自社の配送車を使い、一軒一軒配送するという極めて労働集約型の部門であった。
 これは将来、大変なお荷物になるという事を考え、思い切って決断し、都内の営業所を一つに集約し、宅配便での配送に切り替えた。コーヒーの品質が良かったのか、意外に得意先が無くならない事が分かり、次に千葉、埼玉、神奈川の営業所を営業本部として一つに集約した。余剰人員は全員フランチャイズその他の分野に配置転換をした。
 一時この分野をやめようかと考えたが、時代の変化で何か起こるか分からないと考え、残した事で、今になって、コンビニエンスストア、オフィスコーヒー、大手缶コーヒーメーカー、大型レストランチェーン等に積極的に販売し大変な成長分野となった。
 この頃、ある産業別労働組合から、当社に労組を作るべく大攻勢をかけられたが、「厳しさの中にも和気蕩々」という理念は何としても曲げられないという思いから、先方の労働組合最高責任者に一人で会いに行き、私の信念を数時間に渡って訴えた。結果、私を理解してくれ、組合結成のための攻勢をやめる事を約束してくれた。この時、信念の重要性を改めて感じた。
 またこの頃、三愛の渡辺新平社長が同じ産別労組に頼まれ、ドトール内にも労組を作り産別に入れるよう説得に見えた。再度私の信念を話すと納得され、その後、日本で最高の立地である銀座三愛ビルの一、二階に出店しないかと話を頂き、今は当社の旗艦店となっている。渡辺社長には今でも大変感謝している。
 チェーンの拡大が進むにつれ、私も含め、社員の意識改革のためにも芝浦から青山か渋谷に本社を移転しようと考えた。半年程で、これぞと思うビルに出会え、渋谷駅に近い九階建てのビルを買うことになった。孟子の母は息子の成長に合わせ三度転居したという「孟母三遷」という言葉が頭にあった。九六年スターバックス一号店が銀座松屋の裏に出店した。私たちとしては家賃が非常に高い場所なので、社内外の誰もが経営は難しいと考えていた。
 渋谷に本社を移転していた事が幸いし、ある時、東急デパートまで歩いて買い物に行くと、左側にスタバ、右側にドトールがあり、両店とも大変混んでいた。セルフでは一杯二百円が上限と思っていたが二百八十円で売れる事を教えてもらい、高い家賃に対応した「エクセルシオール」という業態を作る事が出来た。
 二〇〇〇年には東証一部に上場した。私は六十三歳だった。社長を退く時期について思いを巡らせ始めていた。


---日本経済新聞2009年2月25日