私の履歴書(鳥羽博道-26)

 六十五歳で社長を引退しようと考えていたが、それから遅れること三年。六十八歳になり、社長になってから四十四年の歳月が流れていた。社長としてやるべき事はすべてやったとの思いがあった。
 千葉県の船橋工場も生産の限界を迎え、天災と今後の成長を考え、兵庫県の東条インターに近い四千八百坪の土地に、建坪四千坪の第二工場を建設した。考え得る最先端の設備、清潔さ、美しさの工場とするため出来得る限りを尽くした。イタリアその他の海外機械メーカーが「世界各国と取引をしているが、こんな素晴らしい工場は見た事が無い」と称賛してくれ、私自身も、少しやり過ぎたかと思うほどであった。
 退任の年、売上高で業界二位、利益は一位となった。その上無借金で、資金余力も十分に残している。そろそろ潮時と考え、息子の鳥羽豊に社長を交代した。
 かねて後継者には、この会社を継続的に発展させていける人物を選ぼうと考えていた。息子は私以上に経営というものへのシビアさを持っており、また人望も厚く、社内の人々の支持を得ている事も感覚的につかんだ。その結果、何の不安も無く、息子を後継者に指名する事が出来た。
 以来、渋谷のドトール本社には二、三回、それぞれ一、二時間行っただけだ。社長を退任した以上、一切仕事に口を挟みたくないと考え、銀座並木通りに個人で百二十坪の土地を取得し、十階建てのビルを建設した。
 銀座で最も美しいビルを作りたいと思い、日本をはじめ、ヒントになるデザインを求めて世界の主要都市を見て回ったが、いざ探してみると、なかなかおもうようなものがない。
 そこで日本を代表する五人の設計者に依頼し、模型まで作って頂いたがなかなか納得がいかず、自分でデザインの原型を考え、日建設計の当時の三栖邦博社長の所へお伺いし「こんなデザインのビルを設計して頂けないか」とお願いに上がった。「自分でデザインを考え、設計を依頼に来られたのは鳥羽社長が初めてです」と言われた。
 またその地下には世界一の喫茶店を作りたいとの思いからニューヨーク、パリ、ロンドン、ローマをはじめ各国を見て回り、デザインの原型を考え、乃村工芸社さんに依頼し、それなりのものが出来て納得した。これで良しと思いつつも、一年後の今では、それ以上のものを作りたいと考えている。
 十階はプライベートのオフィスとし、九階は「救国サロン」を作った。
 かつて人に色紙を頼まれると「努力、忍耐、時」と書いてきた。正しい目標を掲げ、それに向かって努力し、思うようにならない時はじっと耐え、時至れば必ず成就するとの考えからだ。人生はまさしく「努力、忍耐、時」「努力、忍耐、時」の繰り返しではないかと思った。
 最近では「夢を見、夢を追い、夢を叶える」と書くようにしている。小さな夢を積み重ねながら、どうやらここまで来たとの思いから、そんな色紙を書くようになった。
 ここまで来てまだ一つ、叶えていない夢がある。それは「努力に応じ、国民等しく幸せに住める社会」の実現だ。この為に、一人の卓越した国家経営者の出現が是が非でも望まれる。「救国サロン」は、その目的を果たす為の人と人との交流の舞台として開いた。


---日本経済新聞2009年2月27日