空白の桶狭間 - 加藤 廣

空白の桶狭間

空白の桶狭間

2005年のデビュー作『信長の棺』が26万部売れ、出版から1年ほどしてついにテレビドラマ化されたこと(視聴率は17.8%を記録)で知られる加藤廣氏。結構なお歳をお召しだが、旺盛なその創作意欲はいまだ衰えることを知らぬようだ。

本作は著者第5作目の小説。

桶狭間の戦いといえば、わずか2,000の小勢である織田軍が、25,000を擁する大軍の今川軍を破ったと一般に伝えられる戦いだ。また一説に、信長は丘陵を駆け下って今川軍を奇襲したとも伝えられる。

ところが、本書では桶狭間の主役は信長ではなく木下藤吉郎(のちの秀吉)である。構想から実現まで、藤吉郎が桶狭間の戦いに向けて全ての準備を行いこれを成功に導く。その秘密は藤吉郎とその家臣蜂須賀小六、前野小右衛門の素性にあるのだが、詳しくは本書を読んでいただくとして、ここでは信長と藤吉郎の立場が完全に逆転している点が非常に興味深い。

本書を読むと、信長が呟いたように藤吉郎は「得体の知れぬ男よ」と言いたくなる。

第一章 秘めたる願い


    1
 永禄二年(一五五九)五月(旧暦)。
 織田信長による尾張統一が成った。
 吉法師こと信長の生まれた天文三年(一五三四)以来、二十五年の内乱は嘘のように消えた。
 尾張領民は、その束の間の平和を満喫していた。
 しかし、地場の野武士、土豪たちにとって、この平和は決して有り難いものではなかった。
 平和になった途端に仕事が無くなったのである。
 残ったのは、最後の領内攻防戦となった岩倉城の取り片付け作業。
 あるいは、東の今川氏の侵略によって奪われたままとなっている鳴海、大高、沓掛三城の周辺に、織田軍が対抗上造る監視用の砦の維持と補修。
 そのくらいしかない。
 つまらぬことおびただしかった。
 そんな平和ボケが始まった永禄二年の盛夏のことである。
 新進の足軽木下藤吉郎は、非番を利用して、一人、蜂須賀小六正勝の屋敷を訪ねた。
 清洲城から三里(約十二キロ)、丹羽郡宮後村にある大きな屋敷である。
 蜂須賀小六正勝。
 その出自は、応永年間に足利の姓を、定着した土地の名にちなんで蜂須賀に改めたという。
 というと、いかにも足利氏の出身のようだが、これはあくまで自称である。
 本当は、藤吉郎と同じ〈山の民〉であった。
 平地に住む人々に対して、山中に居住して各種の生業を営み、あるいは牛馬を飼って牧草を求めて移動する人々を、当時〈山の民〉と言った。
 その多くは、政争に敗れて都を脱出した一族一党である。その出自をたどれば、多くの場合、高貴な出に遡る。文化的にも都市部の平民より優れている者が多かった。
 しかし、中・近世に交換経済が発達するに従って両者の交流あるいは混交が始まる。
 この結果〈山の民〉が平地に下りてくることが多くなった。
 特に濃尾平野は、木曾川などの三大河川を擁して、毎年のように水害が起き、その度に「一面の湿地帯」となる土地柄である。
 これは政治経済の視点で言えば二つの重要な意味を持っている。
 一つは氾濫によって肥沃な土壌が流れ込む豊かな土地ということ。
 それは、痩せた高地の土地しか知らない〈山の民〉にとって「一粒の種が千倍になる」(ケンペル『日本誌』)ような羨望の平野であった。
 もう一つは、水害の度に、土地支配の権利関係が不明瞭となる。
 ここに〈山の民〉が突然やってきて領有を主張できる可能性があった。
 美濃・尾張に出自不明の武将が輩出する理由もここにある。斎藤道三などはその典型である。織田氏も広い意味ではこの中に入るだろう。
 この〈山の民〉の平地への進出を、〈山の民〉言葉で、「トケコム(融け込む)」という。