ヨーロッパの100年(上) 何が起き、何が起きなかったのか - ヘールト・マック

ヨーロッパの100年(上) 何が起き、何が起きなかったのか

ヨーロッパの100年(上) 何が起き、何が起きなかったのか

ヘールト・マック(Geert Mak)氏はオランダを代表するジャーナリスト。1946年12月4日ヴラールディンゲン生れ。アムステルダム大卒。1975年から、オピニオン誌デ・フルーネ・アムステルダマー」で編集者を約10年務めた後、「NRC ハンデルスブラット」や「VPRO ラジオ」でジャーナリストとして活躍。90年代以降は作家業に専念。
本書はオランダで40万部のベストセラーであり、数々の賞を受賞した。

  • NS文学大衆賞(オランダ 2004)
  • ライプチヒ文学賞(ドイツ 2009)
  • レジオン・ド・ヌール騎士賞(フランス)


本書では、地名をタイトルに、ヨーロッパの歴史が記述されている。

訳者の長山さき氏はオランダ移住者らしいが、翻訳技術に怪しさが漂う。読んでいて、すらすらと理解できず途中で「原文ではどうなってるんだ?」と思うことがしばしば。ジオシティーHPをもっているらしい。

※原語版のISBNは、9789045003726

第一章 二十世紀の夜明け(一九〇〇〜一九一四年)

1 アムステルダム

 一九九九年一月四日、アムステルダムを出発した日はすさまじい嵐だった。風は水っぽい敷石にうねりを残し、アイ湾の波を沸き立たせた。中央駅の屋根の下で叫ぶ風を耳にしながら、わたしは一瞬、神の手が鉄の骨組みをさっと持ち上げ、また下におろした錯覚を覚えた。
 わたしは大きな黒いスーツケースを引きずっていた。中にはノート・パソコンと携帯電話(これで毎日、記事を書いて送る)、何枚かのシャツと洗面道具、ブリタニカ百科事典のCD-ROM、心を落ち着かせるための十五冊の本が入っていた。まず、一九〇〇年のネオ・バロックの街々からはじめるつもりだった。パリ万博の軽快さ、確固とした帝国を支配したヴィクトリア女王、上昇中のベルリン、といったところから。

第二章 第一次世界大戦(一九一四〜一九一八年)

1 ウィーン

「戦争はまさに寝耳に水だった」。ヨーゼフ・ロートは一九一四年の春について書いている。「五月---ウィーンの五月は、銀縁の小さなカップのコーヒーに浮かんでいた。ナイフやフォーク、ぎっしりと中身の詰まった細いチョコレートの棒、きれいな宝石を思わせるミルフィーユのピンク色と緑色の上に漂っていた。そのとき、参事官のゾルクザームがいきなり言ったのだ。五月中旬のことだった。『みなさん、戦争にはなりません!』と」
 大筋は知られている。オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子夫妻がオーストリア領のサラエヴォを訪問した。折しも聖ヴィトスの日で、セルビア人は例年のごとく、一三八九年のコソボにおけるトルコ軍への敗北を回顧していた。そのとき皇太子が射殺されたのだ。捕まった<テロリスト>はセルビアの十九歳の国家主義者ガブリロ・プリンツィプだった。オーストリアセルビアに対し何度も屈辱的な要求をしたが、ロシアは<兄弟民族>であるセルビアがその要求に従わないことを支持していた。ドイツは迷うことなくオーストリア側につき、フランスはロシアとの同盟を維持した。なんとか仲介しようとするイギリスの試みは無駄に終わった。連鎖反応を止めることはもはやツァーリにも二人の皇帝にも不可能だった。運命はほとんどすべてのヨーロッパ人を襲った。

第三章 ロシア革命と虐殺(一九一七〜一九二四年)

1 ドールン

「(前略)最後のドイツ皇帝はわたしの祖父だったということです。わたしが幼少のころから、われわれはほぼ毎夏、二週間ほどドールンに泊まっていました。
(中略)
 ドールンで暮らしはじめたときには大変だったようです。オランダ人は勇敢にも彼を受け入れて保護してくれましたが、祖父は輝く高みから暗い深みへと落ちたのです。内面的にもそうでした。即位二十五周年記念に、彼についてなんと書かれたか、一度読んでみてください。戦後、なんと言われたかも---。巨大な統治システムが、その中で責任を持っていた全ての人を含んで崩壊したら、まず責任を問われるのはトップに立っていた人です。それがわたしの祖父でした。(後略)」

5 リガ

 ラトヴィアでは第二次世界大戦中、七万人のユダヤ人が殺された。うち三万人は一九四一年の夏と秋にすでに殺されている。リトアニアでは二十五万人のユダヤ人がほぼ全員殺された(エストニアには五千人しかユダヤ人が住んでおらず、大多数はソ連に逃げることができた)。あるドイツ人将校は公式の報告書の中で、農民のユダヤ人に対する憎悪は「怪物のようだ」と表現している。一九四一年八月十六日に彼はこう書いた。ドイツ軍が両者の間に介入するまでに、彼らはすでに「汚い仕事の大部分を片づけていた」
 モードリス・エクスタインズがこれらの例を挙げた後に、ホロコーストはけっしてドイツだけにあったことではない、と書いているのは妥当なことだ。(中略)「ホロコーストは東欧の熱をもった夢のような風景の中で起こった。(中略)ホロコーストはここではナチスの政策になる以前から人々の精神状態だったのだ」
(中略)
 リガの小さなユダヤ人博物館にはレターヘッドや広告がたくさん飾られている。どれも一九三〇年代のユダヤ人の商業活動の軌跡だ。アドルフ・レヴィ、仕立て屋。(中略)ホランダー&フリードランダー、画材道具。その横には、親衛隊保安部A部隊の報告書の結果をまとめた地図が貼られていた。一九四一年秋の<生産高>【殺したユダヤ人の数】が正確に記されている。リトアニア、136421。ゲットーに残留、19500。ラトヴィア、35238。ゲットーに残留、25000。エストニア、963......。誇らしげに<ユダヤ人フリー>と言及してある。数字の横に一々ていねいに棺のマークがついているのが目についた。まるで公務員が家や木や人間のマークをつけるように。つまり、一九四二年にこの報告書を見た者は<ユダヤ人問題>は<解決>されるのではなく、ただ単に数万人の単位で殺されているだけなのが一目瞭然だったというわけだ。

第四章 ワイマール共和国とヒトラー台頭(一九一八〜一九三八年)

5 ビーレフェルト

 わたしはシュテファン・キュール【ドイツの歴史学者】の書いた分厚いレポートを手渡された。ビーレフェルト大学【ビーレフェルトはベーテル近郊の都市】の学生団体が出版したものだ。調査はその地域の国家社会主義に関する研究の一環としておこなわれた。キュールが調査においてどんな小さな事実も見落とさなかったことは、すべてのことから明らかだ。わたしは読みはじめた。ベーテルの話は実際に<勇気>についての物語だが、同時に<勇気の欠如>の物語でもあった。それは知ること、意識的に知ることの物語であり、また沈黙すること---とりわけ沈黙することについての物語だった。

 「悪は感染する。非人間は他の人々を非人間にする。すべての犯罪は移転し増殖する」。イタリアの強制収容所生還者プリーモ・レーヴィ【化学者、作家】はこう書いている。そして、それはわれわれの判断力を弱める。「暴力に屈することなく抵抗するという一般的に普及した意識はいまのものでああり、当時のものではない」。<抵抗すること>は学ばねばならない。三〇年代には、それはごくわずなか人に限られた能力だった。
 ベーテルの件は抵抗を学ぶことの困難さの明らかな例だった。
 ベーテルはキリスト教福音教会だった。病棟には「エマウス」「カペナウム」「カルメル」といった<約束の地>の名前がついていた。「ベタニア」(かつての「パトモス」)は八つの棟から成り立ち、現在は神経科になっている。三〇年代、四〇年代には百人ほどの癲癇および複合障害の若者たちが住んでいた。彼らは真っ先にナチス民族浄化政策の標的とされた。
 最初の政策は、すでに述べたように<堕落者>の避妊に関するものだった。ベーテルの経営陣は抵抗しなかった。基準にあてはまる者はみな一九三三年に忠実に避妊された。六年後に安楽死政策がはじまると、医師たちは動揺した。一九三九年末にブランデンブルクにあるベーテルの別院では、すべての患者の申請用紙を記入するよう命令を受けた。単なる統計資料だといわれたが、資料に目を通したクリニックの代表パウル・ブラウネ医師は不吉な予感に襲われ記入を拒否した。ベーテルの経営陣もそれに従った。
 数ヶ月後の一九四〇年三月、ブラウネは十三人の癲癇患者の突然死の原因を調べるよう依頼を受けた。他の施設も含む操作の結果、ブラウネの憶測があたっていたことが明らかになった。大規模な殺人計画が内密に遂行されていたのだ。ブラウネが役所に通報すると、この件に深く関わらないよう逆に警告を受けた。

第五章 ファシズムからスペイン内戦へ(一九二二〜一九三九年)

1 プレダッピオ

 翌日にはラベンナ方面への高速道路に乗り、丘と薄緑色の春を越え、ムッソリーニの生誕地レダッピオイタリア半島中部に位置する町】に向った。町に入ったところでわたしは危うくゴミのコンテナに追突しそうになった。道の向こうに見えた光景に唖然としたためだ。どのショーウィンドウにも、ヨーロッパのほかの場所では一九四五年以降、忌み嫌われ抹殺されたものが並んでいたのだ。親衛隊とドイツ国防軍の制服、ファシストの帽子、武器、本、鉤十字......この町全体がすべての<まちがい>を売るみやげ物店のようだった。
 プレダッピオの建築スタイルは目を見張るほど統一的だ。これらの建物が典型的なファシストを形成したのだ。(中略)彼の生家は完璧な状態で保存されていて、希望者は案内してもらえる。ドアの前のメーターの戸棚にはムッソリーニに対する言葉がいっぱいに書かれていた。「ドゥーチェ、愛しています」

第六章 第二次世界大戦勃発 (一九三九〜一九四一)

2 フェルモント

「最後の最後」---フランス人は第一次世界大戦をそう呼んでいた。一九三九年の冬、戦争がすでに机上でははじまっていたが、「実際にはまだ」という段階で、彼らは外交上そして精神的にも前回の戦争でのマルヌ会戦【ベルギーを突破したドイツ軍をフランス軍がマルヌ河で食い止めた】が繰り返されることを望んでいた(ただし今回は情熱も流血もなしに)。(中略)
 ロンギヨンのすぐそばに、寒々としたフェルモント要塞の通路が地下三十メートルに広がっていた。要塞は、バーゼルからルクセンブルクまで続く、東方のフン続から国を守るためのフランスの壁<マジノ線>【マジノは構想を提唱した陸軍大臣の名前】の一部だった。
(中略)
アンドレ・マジノが生涯をかけて取り組んだマジノ線は無用の長物の戦争記念碑でしかないことが明らかになった。マジノ線がベルギー国境で突然途絶えるため---資金不足で建設打ち切りになった---ドイツ軍は易々と侵入することができたからだ。
(中略)
この要塞とこの機械装置のすべてには、どこか物悲しいものが感じられる。(中略)最新のモダン技術ではあるが、そこには大きなまちがいがある。出発点が完全に過去のものだ、ということである。
(中略)
 オランダ侵攻と同日の歴史的な一九四〇年五月十日にウィストン・チャーチルがイギリス首相に任命された。五日後、水曜の朝七時半に、彼はフランス首相ポール・レイノーに電話で起こされた。惨事発生だ。七つのドイツ戦車師団が不意打ちでアルデンヌを突破し、スダン付近からフランスに侵入してきたのだ。その後ろには歩兵で満員のトラックが何台も続いていた。これは、終わりのはじまりだ、とレイノーは危惧した。
 フランスはこのようにして、三百機以上のシュトゥーカ急降下爆撃機に援護され、通行不可能とされてきたアルデンヌを直進する将軍ゲルト・フォン・ルントシュテットのA軍集団の千八百台以上の戦車によって奇襲された。

3 ダンケルク

グデーリアン将軍の最初の装甲車部隊がいましも罠を閉じてイギリス軍をイギリス海峡に落とそうというとき、ヒトラーが進軍停止の命令を出した。「われわれは言葉を失った」。抵抗はほとんどなく、最前列の持ち場からはすでにダンケルクの塔が見えていた。進軍停止は三日間続いた。
(中略)一九四〇年五月二十八日から六月四日の間に、二十二万人のイギリス兵、十二万人のフランス兵、三万四千台の車をイギリスに避難させることができた。(中略)イギリス兵は百七十匹の犬まで連れ帰った。(後略)

4 チャートウェル

ジョン・ルカーチ【戦後、アメリカに亡命したハンガリー人の学者】は、『ロンドンの五日間』---世界を変えることになったかも知れない、五月二十四日金曜から二十八日火曜までの五日間---という本で、戦争内閣の討議を精密に再現している。その一九四〇年五月の最終週ほどヒトラーが西欧全域支配に近かったことはない、というのが彼の結論だ。ヒトラーがおそらく受けていたであろうイギリスからの和平提案がいまにも出されようとしていた。すんでのところで、それを止めることができたのは、ウィンストン・チャーチルただ一人だった。
(中略)
ロンドンから南一時間弱のところにケント州チャートウェルがある。チャーチルが人生のほとんど---一九二四年から六四年までの四〇年間---を過ごした彼のふるさとといえる田舎の大邸宅だ。ここで彼は軍事作戦を練り、政治的同志とと昼食兼会議を開き、回想録や歴史書を書いた。

5 ブラステッド

 イギリスをめぐる戦い---<バトル・オブ・ブリテン>は実際にはイギリス海峡をめぐる戦いだった。ドイツ軍よりずっと強力なイギリスの艦隊が自由に航海している以上、ドイツ軍のイギリス侵略は不可能だった。ドイツ軍は空からイギリス艦隊を攻撃し、上陸部隊が妨害されずにイギリス海峡を渡れる手はずを整えようとした。だが、そのためにはまずイギリス空軍を倒す必要があった。
 計画は失敗した。(中略)海岸に極秘で世界初のレーダーが基地が造られたのだ。それによってイギリス空軍はドイツ軍戦闘機の襲来を、随時パトロールする必要なしに、すべて事前に知ることができた。奇襲攻撃はもはや不可能で、パイロットと飛行機は戦闘に備えることができた。
(中略)
 ケントのビギン・ヒル空港のすぐ後ろにあるブラステッドのパブ「ホワイト・ハート」はイギリス空軍パイロットのたまり場だった。ホールはいま改築され広くなっているが、若いパイロットたちが<命中数>を記録したバー周辺の空間は変わっていない。

第七章 ヒトラー絶滅収容所スターリン強制収容所(一九四〇〜一九四二年)

2 ヒムラーシュタット

 ベルリン東駅から東に向う電車に乗った。
(中略)
 乗換駅は、かつては鉄道網の中心的役割を果たしていたと思われるが、いまは雑草に覆われて錆びついている。
(中略)
 夜が更け、ルブリン【ポーランド東部の都市】を過ぎると涼しい風が客車に吹き込んできた。
(中略)
 電車の終点はローザ・ルクセンブルクの生誕地で南東ポーランドルネッサンスの町ザモシチだ。
(中略)
 かつてのザモシチは生きいきとした町だった。一九三九年には人口二万八千人で、ユダヤ人は約一万人だった。ギムナジウム、大聖堂、裁判所、シナゴーグ、オーケストラがあり、二種類の地方新聞「ザモシチ・クーリエ」と「ガゼッタ・ザモシチ」が発行されていた。見事な市庁舎の裏に古いシナゴーグがあり、いまは図書館の一部になっている。ユダヤ人はもはや一人も住んでいない。
(中略)
 ザモシチはポーランドにおける最初のナチスの民族入植---純粋なドイツ親衛隊の植民地ヒムラーシュタット---のモデルとなるべき町だった。
 一九四二年十月一六日、ザモシチのユダヤ人全員がトラックでベウゼツ絶滅収容所へ送られた。
(中略)
 ポーランド以外ではザモシチとその周辺の村々のことは知られていない。それでも、二十世紀最大の町および村の殺戮はここで繰り広げられたのだ。


 ほとんどの民族浄化において、移送ののちに第二の活動がはじまる。文化的浄化である。新たな未来に合わせて新たな過去が考え出され、かつての住民の記憶はなるべく徹底的に消された。モニュメントは取り払われ、看板は取り除かれた。教育も変わり、従来の言語は禁じられた。教会墓地に手がかけられることさえあった。
 ポーランドとバルト諸国では、大管区指導者は十年以内に占領地域をドイツの州にするよう命じられた。すべての村と町はかつてのドイツの名前に戻されるか、新たな名前をつけられた。ウッチはリッツマンシュタット、ポズナンポーランド西部の都市】はポーゼン、ザモシチはヒムラーシュタットになった。                               

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