グラーグ57 - トム・ロブ・スミス

『チャイルド44』でデビューしたトム・ロブ・スミスの第二作目が刊行された(新潮文庫)。第二作の原題は "The Secret Speech" だが、邦題は『グラーグ57』に変更された。今回も前作同様、単行本をすっ飛ばしていきなり文庫発刊ってところが読者のフトコロにやさしい。
処女作『チャイルド44』が素晴らしい出来だっただけに、この第二作も注目を集めること必至だろう。

コルイマ
第五十七強制労働収容所
同日


 レオはほとんど立っていることさえできなかった。掘るなど言うに及ばず。表土から地中三メートルほど掘られた剥き出しの壕の中で、振りおろしたつるはしが永久凍土にむなしくあたり、鋭い音をたてた。あちこちで火がくすぶっていた。戦死者を火葬しているかのようなその火は、凍った地表を溶かすためのものだが、レオは火のそばにはいなかった。彼の属する作業班の班長に意図的に金鉱の一番隅の一番寒いところに配置されたからだ。機材がまだ何も設えられていない壕の隅に。そんなところでは、体調が万全の者でさえ課せられたノルマ---基準量の食料の配給を受けるために砕かなければならない岩の最低量---を達成するのは無理だった。
 レオは疲弊しきっていた。脚が震え、体を支えることすらおぼつかない状態だった。両膝がぶくぶくに腫れ上がり、青葉色の浸出液が染み出し、膝蓋骨が膨張した滑液包の背後に沈んでしまっていた。前夜、彼はずっと両膝をつくことを強いられていたのだ。両手を背後で縛られ、全体重が膝頭にかかるように足首を持ち上げられて手首に縛られ、倒れないように体は寝棚の梯子に固定されていた。その状態では膝にかかる負荷をどうすることもできない。膝の皮をぴんと引き伸ばされ、骨を床板に押しつけられ、皮膚にやすりをかけられては。それが何時間も続き、体重を移動させるたびに彼が叫び声をあげるので、ほかの囚人たちの眠りを妨げないよう、最後には脳に異常をきたした馬に対する処置のように猿ぐつわまでされた。囚人たちが眠っているそばで、彼はその不潔な---囚人たちができものの膿をこすりつけた---猿ぐつわを噛みつづけた。いびきがあちこちから聞こえるバラックの中、ただひとり寝ていない者がいた---ラーザリだ。彼は一晩じゅうレオを見張っていた。レオが嘔吐しそうになると猿ぐつわを解き、吐きおえるとまたしっかり縛った。父親のように献身的だった。病気の息子を看病する父観のように。ただ、この息子は戒めを必要としていた。
 明け方、頭から水のように冷たい水をかけられて。レオは意識を取り戻し、手枷足枷を解かれ、猿ぐつわをはずされると、その場に倒れた。まるで膝から下を切断されたかのように両足の感覚がなくなっていた。激痛と数分戦って、ようやく脚を伸ばすことができたが、どうにかよろよろと立ち上がれるようになるにはさらに数分を要した。一晩で百歳も歳をとったような気分だった。朝食をとることは許された。テーブルに坐り、震える両手で配給食を食べることだけは。彼らはレオが生きることを望んでいた。生きて、苦しむことだけを。砂漠をさまよう男がオアシスの夢を見るように、レオの心は蜃気楼に揺れるネステロフの姿を見ていた。夜間、マガダン港から収容所
に向かうのは無理だ。時間帯として悪すぎる。だから、彼の友人であり、救世主であるネステロフが到着するとしたら、今日の午後遅くになるはずだ......
 疲労に震える両腕で、レオはつるはしを頭上にもたげた。が、そこで脚が音をあげ、まえのめりに倒れた。腫れ上がった両膝を地面に強く打ちつけ、その衝撃で滑液包が破れた。膿を持った思春期のニキビがはじけるように。レオは口を開け、声にならない叫び声をあげた。涙がこぼれた。両膝にかかる圧力をなくそうと体を反転させ、壕の底に横たわった。あまりに深い疲労感が彼の生存本能を根こそぎにしていた。一瞬、このまま眼を閉じ、眠りに落ちたいと思った。この気温ならもう二度と眼を覚ますことはないだろう。
 そこでソーヤのことを思い出した。そしてライーサとエレナのことを。自分の家族のことを。レオは上体を起こすと、両手を地面に突いてゆっくりと体を持ち上げ、ようやく立ち上がった。すると、誰かに体をつかまれ、耳元で怒りを込めて囁かれた。
 「休憩はなしだ、このチェキスト!」
 休憩はなし、慈悲もなし---それがラーザリのくだした判決で、その判決は遠慮会釈なく実行された。今も彼を叱責したのは警備兵ではなかった。囚人のひとり---レオが属する作業班の班長だった。その男は激しい個人的な憎しみに突き動かされ、苦痛や飢えや疲労、あるいはそのすべてに同時に襲われる時間から解放される隙を一分たりとレオに与えようとしなかった。レオはこの男やこの男の家族を逮捕したわけではなかった。この男の名前さえ知らなかった。が、そんなことはどうでもいいのだった。レオはすべての囚人の藁人形になっていた。すべての不正を代表してつかわされた使者にされていた。チェキスト---それがレオの名前だった。彼という人間の全人格だった。そういう眼で見れば、囚人ひとりひとりが個人的な憎しみをレオにぶつけることができた。
 鐘が鳴った。囚人たちはみな手にしていた道具をおろした。金鉱での初日をレオはなんとか生き延びた。が、日中の試練などこれから訪れる夜のそれに比べれば生やさしいものだった。まだ知らされていない二番目の拷問が彼を待ち受けていた。彼は脚を引きずるようにしてスロープをのぼり、壕から出た。バラックに戻るほかの囚人たちのうしろを歩いている今のレオの唯一の力の源は、今にもネステロフがやってくるという思いだった。
 収容所に近づく頃には、低く垂れ込めた雲の隙間からかすかに洩れていた陽の光もほぼ完全に消え、台地の向こうの川にトラックのヘッドライトが現われた。遠くで光るふたつの黄色い拳、二匹の蛍。もし膝を痛めていなかったら、レオはその場で地面にくずおれ、安堵の涙を流したことだろう。慈悲深い神のまえにひれ伏したことだろう。警備兵に押され、こづかれながら、レオはゾナの中に戻った。警備兵は啓蒙されて改心した所長に聞こえないところではレオに罵声を浴びせていた。レオは歩きながら、しきりと肩越しにうしろを振り返り、次第に近づいてくるトラックを見た。感情を抑えることができず、唇を震わせ、バラックに戻った。彼らがどんな拷問を計画していようと、助かったのだ。窓ぎわに立ち、菓子屋のショーウィンドウのまえに立つ貧しい子供のように、眼と鼻をガラスに押しつけ、トラックが収容所の敷地内にはいってくるのを見守った。運転室から警備兵がひとり降り立った。次に運転手も降りてきた。レオは待った。窓枠に爪が食い込んでいた。ネステロフも一緒のはずだ。

グラーグ57〈上〉 (新潮文庫)

グラーグ57〈上〉 (新潮文庫)

グラーグ57〈下〉 (新潮文庫)

グラーグ57〈下〉 (新潮文庫)