テロマネーを封鎖せよ 米国の国際金融戦略の内幕を描く - ジョン・B・テイラー

 そのスティグリッツも、本書の第八章には拍手喝采だろう。日銀の失策による失われた十年からの脱出のため、著者は日本の財務省に細かく指示を出して、為替介入を通じた大規模な金融緩和を実施する。日本のマクロ経済がここまでアメリカに細かくコントロールされているとは唖然。日銀が中央銀行の独立性を騒ぎ立てる尻ぬぐいのために、国の経済政策の独立性が失われているわけだ。そのおかげでここ数年の、日本の景気回復らしきものが見事に実現したので、文句を言える立場でもないが……

Chu-Ko Reviews 2008
訳者あとがき


 本書は『GLOBAL FINANCIAL WARRIORS:THE UNTOLD STORY OF INTERNATIONAL FINANCE IN THE POST-9/11 WORLD』の原題が示すように、アメリカの国際担当財務次官を中心とする金融戦士たちが、九・一一同時多発テロ以降の激動のなかで、危険をものともせず国際金融の復興と新秩序の構築に挑戦する姿を描いた、知られざるインサイドストーリーであり迫真のドキュメンタリーである。


 ワシントン・ポスト紙は「当事者が物語る価値ある近代史」と評し、連邦準備制度理事会グリーンスパン元議長は「政治と国家安全保障、そして国際金融がどのように複雑に絡み合っているかを見事に浮き彫りにした必読の書」と絶賛する。
 著者のジョン・B・テイラーはスタンフォード大学の教授時代に金利に関する「テイラールール」を発表して高い評価を受けるが、その後ブッシュ大統領選挙参謀を務め、二〇〇一年三月には大統領に請われて財務次官に就任する。そして二〇〇五年四月には退職してスタンフォード大学に復職するが、財務次官当時の目覚ましい活躍に対してアレグザンダー・ハミルトン賞を授与されている。
 「...... 底なしの貧困と抑圧は絶望と自暴自棄を招きかねない。そして政府が国民の基本的な二ーズに応えられない場合には、これらの国はテロの温床になりかねないのである」というブッシュ大統領の演説が5章の冒頭に引用されているが、まさにこれこそ本書の全編に流れる哲学である。
 そして1章ではテロリストの活動資金を断つために各国や諜報機関と協力しての預金凍結の戦い。2章では戦火のアフガニスタンで復興支援と国家予算支援の枠組み作り。3章では債務不履行と世界的連鎖の危機のさなかにあるアルゼンチンの救済。4章と5章では「自由市場を有する民主主義国の苦難と貧困と失望を回避し、財政崩壊を食いとめ」ようと、最貧国にはこれまでの債務を免除し借款から無償資金協力に切り替えるために、世界銀行IMFの改革に向けて火花を散らす駆け引きが描かれる。
 6章ではイラク戦争勃発に備えてトルコへの財政支援問題が取り上げられるが、その金額をめぐって「抜け目のない商売人」(ブッシュ大統領の表現)のトルコ側との息詰まる交渉の模様が当事者の口からビビッドに描かれる。しかしやっと両国で協定に達した途端に、トルコ議会がアメリカ軍によるトルコ領経由のイラク侵攻を否決したため、これまでの交渉努力が水の泡になるという、読者も思わず微苦笑を浮かべてしまう外交裏面史に仕立て上げられている。
 7章から9章まではイラク侵攻直前からの金融戦士の活躍が描がれているが、一三〇〇億ドルを超えるサダム・フセイン時代の借金の帳消しのための外交交渉、さらには公務員の給与や年全受給者のための軍民協力しての一七億ドルの現金空輸作戦、新通貨発行作戦と、爆撃で荒廃したフセイン宮殿に寝泊まりしての金融戦士の活躍、バグダッド空港のコンクリートの上に眠りヘルメットをかぶり防弾チョッキを着て危険な街を走り回る財務次官の姿とともに、それは迫真のストーリーとして描かれている。
 日本の読者にとって特に興味深いのは10章で、ここでは日米の為替相場外交が描かれる。著者のテイラーはかつて日本銀行のアドバイザーであり、その時から「失われた一〇年」から脱出するために「量的緩和策」を主張してきた。そして小泉政権発足と同時にこの方針が打ち出されたが、テイラー次官は日本の溝口善兵衛財務官と頻繁に携帯電話で連絡をとり合いながら日本の為替市場介入を調整していく。特にスタンフォード郊外の森の中のレストランで日米独の財務次官が打ち合わせる模様が微に入り細にわたって描かれて興味深く、「主権在米経済」のカラクリが浮き彫りにされる。
 本書では米国家安全保障会議、シチュエーションルームでの会議、ブッシュ大統領との交流などホワイトハウスでの四〇〇回以上の会議や外交交渉の模様がまるで現場に立ち会っているかのように詳細に活写され、まさにインサイドストーリーだが、それにとどまらず迫真のドキュメンタリーに仕上がっているのは、著者テイラーが「行動する財務次官」だからだろう。彼は四年間で外国を一二〇回も訪ねているが、そのなかにはタリバンアルカイダが暗躍するアフガニスタンの辺境の地、三回のバグダッド入り、ケニヤのスラム、ニジェールの砂漠、「便所の悪臭が充満」するコートジボワール小学校などと、軍用機やヘリコプターで休む間もなく飛び回り、その感動の模様が描かれる。
 まさに各紙の書評や有識者の評にあるように、「ページタナーの必読の書」である。
 このようにテイラーはテロ資金の凍結、アフガニスタンイラクでの金融面での復興の枠組みを築いたが、再びアフガニスタンではタリバンが勢力を盛り返し、イラクではイスラム宗派間の流血の抗争が激化している。今では教壇に立つテイラー教授は、どのような思いでこの状況を見つめているのだろうか。

プロローグ


 もしワシントンでの経験を本にまとめる日が来たなら、タイトルは「ホワイトハウス・シンチュエーションルーム(状況分析室)での日々」とでもしよう。このようにわたしは、妻によく冗談を言ったものだ。わが国の国家安全保障網の中枢ともいえるこの有名な部屋で開かれる会議に、わたしは何百回となく出席した。
 シチュエーション・ルームは略して「シットルーム」とも呼ばれるが、大統領執務室などがあるホワイトハウス西棟の地下の狭い会議室である。その部屋に入るには頑丈な外扉を押し、さらに内扉を開けなければならない。携帯電話はセキュリティー機器に影響を与えるとして持ち込み禁止で、会議が開かれる時には、外扉と内扉の間の机の上に携帯電話の山ができる。
 内扉から入ると、正面の壁はビデオスクリーンになっており、世界中の紛争地域から安全保障上の情報が区分した画面に映しだされる。右側の壁にかかる時計には、アフガニスタンイラクなどの重要地域の時刻が表示され、また大統領が現在その中のどの時間帯の場所にいるかが示される。
 部屋の中央にある長方形のマホガニーのテーブルには、一二脚の黒い皮の椅子が並び、また壁に沿って補助椅子が置いてある。国家安全保障会議NSCの開催中には、大統領はビデオスクリーンに向かってテーブルの正面に陣取る。部屋は非常に狭かったから、内扉の側に小さな電話台とコーヒースタンドを置くと、ほかの物のスペースはまったくなかった。そしてテーブルと壁際の椅子が全部埋まると、ラッシュアワーのバスのようにすし詰め状態で、部屋の端から端まで行くのにも、人を押し分けて進まなければならなかった。
 大統領には専用のドアもあるが、普段はほかのスタッフと同じ内扉を押して部屋に入ってくる。朝の会議ではコーヒーも飲める。大統領が到着すると、先に着席している参加者が全員起立する。それから大統領は自分でコーヒーをついで席につき、会議を始める。
 当然のことながら、議題には国家の安全保障に関わる重大問題が取り上げられ、会議にはいつも真剣な空気が張りつめていた。わたしが出席するNSCのミーティングでは、大統領が手ぎわよくビジネスライクに議事を取り仕切り、時間通りに開会して終了し、論議を奨励し、出席者の気持ちをほぐし、必要と判断すればユーモアを交え、注意深く耳を傾け、時には鋭い質問をし、問題の核心に触れ、決断を下し、命令・指示を与えた。

大統領と朝の会議で

 なかでも忘れられない朝の会議があるが、その席でわたしはブッシュ大統領とNSCのメンバーに対して、イラクの金融の崩壊を阻止するための案を説明することになっていた。金融上の危機はイラク国民に耐えがたい苦難を引き起こしかねず、たちまちのうちに有志連合やフセイン以後の政府への

1章 グローバルなテロとの戦い----テロ資産タスクフォース


 二〇〇一年九月二四日、ブッシュ大統領はテロリストの資産を凍結する大統領令を発表した。テロリストヘの軍事作戦(「不朽の自由作戦」)がアフガニスタンで始まるのは、それから二週間後の二〇〇一年一〇月七日のことである。一〇月二日にホワイトハウスイーストルームで行われたゴールデンアワーの記者会見で、ブッシュ大統領はこう語った。「この戦いにおける第一撃は、彼らの資金を絶つことで始まった。なぜならばアルカイダの組織は、資金なしには機能しないからである」


 九月一一日、世界貿易センタービルに最初の一機が激突したとき、わたしは東京のホテルにいた。財務省の大型代表団の言貝として東京を訪れていたが、一行にはポール・オニール財務長官、広報のミシェル・デービスのほかに、ウォールストリート・ジャーナル紙のマイケル・フィップスなど多くの記者も同行していた。日本が一〇年にも上る経済不況から脱却できるよう、相互の経済協力関係の増進を協議するのが目的で、小泉純一郎首相との第一回首脳会談を前に、日本との外交関係の強化を目指すブッシュ大統領の政策の一環だった。
 わたしも九・一一の悲劇をテレビで観た。わたしの部屋で翌日の会談を前に在日大使館の財務官と打ち合わせをしていたが、テレビでニュースを観ると、わたしは代表団の本部にしていた部屋に駆けつけた。代表団員も次々に姿を現す。テレビに映るマンハッタンは晴れ渡った朝だが、東京は既に夜だった。わたしは椅子の背を脚で挟んで、テレビに顔を押しつけるようにして画面を見つめた。画面の中で最初のビルが崩壊し、目を上げると、そこには恐怖でひきつった顔、信じられないといった同僚の顔があった。マイケル・フィリップスはすっかりショックを受けていた。やがてマイケルは第七海兵隊第三大隊を取材するために五回もイラクを訪れて、感動的なドキュメンタリー『勇気のギフト』を書くことになる。それは戦友を救うために自らの命を落とした若い海兵隊の伍長を描いたものだった。
 わたしたちは直ちに翌日の会談をキャンセルし、翌朝(アメリカはまだ九月一一日だった)、軍用機のC−17で帰国の途についた。しかし軍用機には代表団全員は乗れず、先遣隊とマイケルら報道陣は後続の便を使うことになった。

空中給油とコースの変更

 日本からの帰路の飛行機は不気味な体験だった。C−17はDC−10とほぼ同じ長さだが、搭乗してみると、客室と貨物室の間に仕切りがないせいか、トミー・ブランクス司令官が言う「声が反響するほどどでかい胃袋」のようで、実際よりはるかに広く思えた。窓のない機内は高さが四・五メートルあ

2章 アフガニスタンにおける経済復興


 九・一一に続く数週間、わたしたちはテロリストの資金調達に対する国際的な戦いに取りかかろうとしていたが、同時にアフ力二スタンの戦後復興計画にも着手していた。アフガニスタンヘの軍事介入が始まったのは二〇〇一年一〇月七日だったが、九月二一日には既に軍事作戦計画は完成しており、ドミー・ブランクス中央軍司令官とドナルド・ラムズフェルド国防長官はブッシュ大統領に作戦計画を提出していた。その詳細と戦闘開始の日時は極秘扱いだったが、軍事介入は避けられないものとみられていた。こうした事態にありながら、戦後処理の計画が立てられていないのは無責任と言えた。
 軍事作戦も言ることながら、タリバンを敗北させるのにどれだけの時間がかかるか、そのあとにどのような事態が生まれるか、不確定要素が多々あった。そして将来をあまりに楽観視することには警戒の声も強かったが、実際にはアフガニスタンは三年以内に統一され、史上初めて大統領は民主的に選挙で選ばれ、八〇〇万の国民が投票したのだった。このためには経済、軍事、政治のあらゆる外交面での立案と実行に、これまでにない努力を払わなければならなかった。本章では経済面、
特に金融面での努力を取り上げる。

資金調達の戦略を練る

 戦後復興に当たっては、それに必要な資金を調達しなければならなかった。そしてテロリストとの戦いと同じように国際的な協力体制を確立する必要があったが、今回はテロリストの金を凍結するのではなく、各国に巨額の復興資金の拠出を要請することになる。
 わたしたちは過去の政権が行った資金調達活動を検証し、そこから多くの貴重な教訓を学んだ。そのなかで一九九〇〜九一年の第一次湾岸戦争での資金の調達は、前例としてはあまり役には立たなかった。最初はクウェートにおけるアメリカの軍事作戦を支援するためのもので、それは巨額に上ったが、ひとたびサダム・フセイン軍がクウェートから追放されると、資源の豊かなクウェートは自ら資金をまかない、自力で復興に取りかかることができた。このため、わたしはスタッフに、一九九三年にイスラエルパレスチナの間で締結されたオスロ合意(暫定自治原則合意)に続くウェストバンク(ヨルダン川西岸)とガザ地区の戦後復興、クロアチア人に対してセルビア人が分離独立を唱えたボスニア紛争(一九九五年)、セルビア共和国コソボ自治区で発生した内戦のコソボ紛争(一九九九年)での戦後復興とその資金調達について調査を指示した。これらの国は人口が二〇〇万から四〇〇万人で、三〇〇〇万のアフガニスタンよりははるかに小国であり、復興も小規模だった。
 もうひとつ異なる点は、アフガニスタンがはるかに貧困で、一人当たりの収入ではチャドやルワンダのようなアフリカの国よりも貧しかった。このためこれまではNGO団体がアフガニスタンに援助を行ってきたが、ブランクス中央軍司令官は戦争の勃発でNGOが撤退し人道主義的な支援が危機に

3章 国際的な金融危機の連鎖


 九・一一同時多発テロばかりでなく、それに続くテロ攻撃の脅威が、二〇〇一年、既に弱体化していた世界経済を脅かした。そしてわたしたちの金融戦士たちは、国際的な金融危機を防ぎ鎮静化するという本来の任務に精力を集中できない懸念があった。わたしは財務次官として、なんとしてでもこうした事態だけは避けなければならない。そして金融危機対策とテロ対策を同時並行的に進めなければならなかった。
 九・一一のテロ攻撃は、まさに悪い時期に世界経済に襲いかかった。アメリカは景気後退のさなかにあり、世界経済もここ一〇年間で最悪の景気の沈滞にあった。前の年に始まった欧米での株価の暴落は投資家の信頼にショックを与え、相次ぐ企業のスキャンダルは投資家をほとんどパニック状態に追い込んだ。アメリカもヨーロッパも、また日本でも生産が落ち込んだ。
 新興市場経済の凋落も深刻だった。メキシコのフランシスコ・ヒル・ディアス財務相は二〇〇一年、わたしが次官就任直後にアメリカを訪れ、世界的な景気沈滞がメキシコ経済に及ぼす影響について、膝を交えて話し合った。ヒル・ディアス財務相の一行はわたしの部屋で、マホガニーのテーブルの周りに座り、急落する生産や雇用情勢を指摘しながら、メキシコの悪化していく経済情勢を訴えた。「テイラー次官。数々の経済要因がいかに関係し合っているか、あなたはスタンフォード大学で研究したはずだが、この図表を見れば、それがひと目でわかるはずだ。アメリカの景気後退がメキシコに、甚大な悪影響を与えているのです」
 ヒル・ディアス財務相シカゴ大学で学び、率直で改革派のエコノミストであり、自由市場経済を推進していた。彼の率いるメキシコ財務省は今後二年間にわたって、IMF改革のために、わたしたちに積極的に協力していくことになる。しかし、その時の彼は、将来の改革よりも現在の経済の混乱を危惧していた。
 トルコやアルゼンチンなど一九九〇年代から金融危機が続く新興市場経済よりも、メキシコ経済の状況のほうがはるかに深刻だった。二〇〇一年の金融危機は一九九〇年代と同じように拡大する可能性をはらみ、脆弱な世界経済全体が危機に直面していた。投資家へのハイリスクを反映して、新興市場諸国は政府の債務に対して、平均一〇パーセントの「リスクプレミアム」を支払わなければならなかった。
 わたしは多くの時間を費やして、厳しい統計値の図表を検討した。それは下記のようになる。


1996年 234
1997年 119
1998年  69
1999年  59
2000年  1


 三桁から二桁、さらに一桁へと縮小していく数字は、まるでバブルが弾けたように見えるが、これ

4章 IMFの新ルールづくりの曲折----「集団行動条項」


 アメリ財務省第二次世界大戦後の時期と同じように、九・一一以後の状況を判断すべきである。第二次世界大戦財務省の先輩たちは、再び戦争が起きないようにするために、国際的な金融機関の設立が至上命令と考えた。同じようにわたしたちは今、将来にわたってテロ行為が再発しないように、この国際金融機関の改革を至上命令と考えるべきである。

ジョン・B・テイラー 金融・通商銀行家協会での演説(二〇〇二年二月七日)


 国際通貨基金IMFは、第二次世界大戦さなかの一九四四年七月に、ニューハンプシャー州ブレトンウッズで四四力国が参加して開かれた連合国通貨金融会議で設立された(国際金融協力に関するブレトンウッズ協定)。設立当初のIMFの主な目的は、大幅な貿易赤字に対して一時的に融資をすることで、金融危機を回避するか解決することにあった。こうした借款によって各国は、高関税や通貨切り下げのように輸入を制限し、経済成長を妨げるような有害な経済政策を回避できるはずだった。このような政策こそが、第二次世界大戦を誘発した経済状況の原因となったからである。
 アメリカとイギリスが国際的な通貨制度の改革の先頭に立ったが、IMFをどのような形にするか、どのような権限をもたせるかで意見が対立した。歴史家たちはこのテクニカルな見解の不一致を、イギリス財務省顧問のジョン・メイナード・ケインズアメリ財務省のパワー・テックスター・ホワイトという二人のエコノミストの対立として描く。ケインズの構想では、独白の国際通貨を発行し相当の力を保持したグローバルな中央銀行的存在だったが、一方ホワイトの提案ではそれはどの力はなく、グローバルな中央銀行というよりはアメリカなどの主要国が提供する資金を貸し出す組織にすぎなかった。結局ブレトンウッズでの協議では、イギリス案よりもアメリカ案が支持され、ホワイト案が勝利してケインズ案は退けられる。ケインズが卓越した経済学者であり、ホワイトがのちにソビエトのスパイと判明したことから、二人の個人的な関係がますますクローズアップされるようになった。
 九・一一同時多発テロの後でアメリカは、国際金融システムの大幅な改革の準備に入った。IMF設立の時と同じようにその目的は、金融危機を回避するか解決することであり、九・一一以後の世界では急を要することだった。このような危機を阻止することで、自由市場を有する民主主義国の苦難と貧困と失望を回避し、財政崩壊を食いとめることができるだろう。しかしこれまでの制度を廃して新IMFを設立するよりは、この改革には現存のIMFを新しいルールの下に置くほうが適切だろう。
 しかし、第二次世界大戦の時と同じように、どのようにして目的を達成するか、大きな意見の対立が生じた。そしてメディアは今度も、二人のエコノミストの個人的な対立とはやしたてた。それはIMFのアン・クルーガー筆頭副専務理事とわたしジョン・B・テイラーの対立の構図で、「国際金融制度をどのように改革するか、ふたりは角を突き合わせている」と二〇〇二年四月六日号のエコノミスト誌は書きたて、「二人は最近までスタンフォードのフーバー研究所で同僚だった」と皮肉っぽく指摘

5章 重世界銀行改革とアカウンタビリティ


 第二次世界大戦でわたしたちは、世界の安全のために戦い、ついで世界の再構築に努力した。今日わたしたちは、テロから世界を安全に守るために戦っており、世界市民すべてのために、世界をより良い場所にするよう努めなければならない……。テロを引き起こすのは貧困ではない。貧しいからといって、殺人者にはならない。九・一一をたくらんだ者たちは、安楽のなかで育てられた。しかし、底なしの貧困と抑圧は絶望と自暴自棄を招古かわない。そして政府が国民の基本的なニーズに応えられない場合には、これらの国はテロの温床になりかねないのである。

ジョージ・W・ブッシュ (二〇〇二年三月一四日)


 国際通貨基金IMF)は一九四四年にブレトンウッズ協定によって設立されたが、世界銀行も同じ協定によって創設された。世界銀行の当初の目的は、第二次世界大戦で荒廃したヨーロッパ諸国を復興するために借款を供与することだったが、やがて世界中の貧困国に開発援助を与えることに目的は変わっていった。今日、世界銀行は国際開発協会IDA(第二世銀)と国際復興開発銀行IBRD(世銀)のふたつの機関からなり、TIDAは世界銀行発展途上国向けの融資を補完する姉妹機関として一九六〇年に業務を開始した。
 IDAは、特に厳しい条件下では借り入れが困難な、年間一人当たりの国民所得が九五〇ドル以下の後発発展途上国を対象に、IBRDよりも緩い条件で融資する。世界中で八一力国の二五億人が、IDAの融資条件を満たすほど貧困である。アメリカをけじめとする先進国が毎年出資するが、IDA設立以来の出資額はアメリカが二三パーセントとトップである。出資額は年々異なっており、アメリカは二〇〇四年に一八億ドルを支払った。
 IBRDは最貧国よりも、ブラジル、中国、フィリピン、ウクライナなどの中所得の国を対象としている。毎年先進国から拠出金を受け取ることはせず、IBRD債券を投資家に売却するなど、民間市場で資金を作って、中所得の国に融資する。
 世界銀行創立五〇周年の一九九〇年代中頃には、多くの外部の専門家が、貧困撲滅の目標を達成する上でIBRDとIDAの有効性について疑問を呈するようになり、改革を呼びかけた。「五〇年でもう十分」といった名称の圧力団体が結成され、ウェブサイトを設けて反世銀キャンペーンを展開するようになった。アメリカ議会も世界銀行の機能を疑問視してIDAへの出資を削減し、ほかの国々もこれに追従した。
 九・一一以降アメリカ政府が率先して世界銀行の改革に取り組んだが、それは主にTIDA、特に最貧国における貧困の緩和が改革の対象だった。改革については一九九〇年代から多くのアイデアが出されたが、アカウンタビリティの改善がこれらのアイデアの中心だった。最初は国際社会から強い反対の声が聞かれたが、何年間もの粘り強い交渉と激論を経て、改革は実現に向かった。そして結局国

6章 イラク戦争前夜のトルコとの駆け引き


 電話が鳴ったとき、わたしはキッチンにいた。国務省の電話交換手はスタンフォードの自宅までわたしを追跡してきた。電話には政治担当国務次官のマーク・グロスマンが出ていた。
「ジョン。クリスマスイブにまで、カリフォルニアに電話してごめん。でも例の問題でトルコが決定しようとしているようなんだ。金融情勢を見極めるために、すぐにトルコに飛んでくれないか。明日の夜までにアンドルーズ空軍基地に来てくれれば、国家安全保障会議のほうで軍用機をアレンジしておくから、アンカラまでノンストップで行ける。ぼくも同行できるようにするから」
 今度のトルコ行きは厄介なことになりそうだった。トルコは二〇〇〇年から二〇〇一年にかけて困難な経済危機を経て、さらに九・一一事件をきっかけに観光や貿易にも大きな打撃を受け、二〇〇二年が終わりに近づいても、一向に回復の兆しはなかった。政治的にも安定しているとは言えず、一一月の選挙では経験のない新政府が選ばれたが、選挙期間申に前政権が放漫財政で気前良く散財したために、予算の赤字は膨らむ一方で、新政権は厳しい調整を余儀なくされていた。しかし新政権は当初差し迫った対策に取り組むことに乗り気でなく、金融市場は大打撃を受けて、トルコ証券取引所は過去三週間に二五パーセントも急落した。軍事面でも不安定要素が大きかった。トルコの南部国境には、イラク戦争の可能性が忍び寄っていたし、アメリカの軍事戦略に対してトルコの協力関係も不透明なままだった。電話の盗聴を警戒してグロスマンは、「例の問題でトルコが決定しようとしている」という表現を使ったが、これはイラクで戦争が起きた場合に、トルコがアメリカとの軍事協力に同意するかどうかということだった。より正確には、有志連合軍の数千の兵士がトルコを経てイラク北部に進撃することを、トルコが認めるかどうかだった。そしてわたしの任務は、この問題の金融的側面に関わっていた。

二〇〇〇〜二〇〇一年の金融危機

 クリスマスイブにアンドルーズ空軍基地に向かってアメリカ大陸を横断しながら、わたしが財務次官に就任してから二年間、トルコ情勢に引き続き注目してきたことを思いだしていた。わたしが着任したその日に、IMFホルスト・ケーラー専務理事とスタンレー・フィッシャー副専務理事が、トルコの金融危機についてポール・オニール財務長官やわたしと話し合うため財務省を訪れた。わたしとフィッシャー副専務理事とは、学問の世界で同じ金融経済学を専攻し、お互いによく知っていた。以前ワシントンにいた頃には、日曜日ごとにわたしたちはフィッシャーと一緒に、C&O運河をジョギングした。フィシャーは非常に優れた経済学者として尊敬を集め、この六年間IMFでナンバー2の立場にあった。もともとこのポストはアメリカが占めることになっており、フィッシャーはクリントン政権によって副専務理事に任命されたのだった。一方のホルスト・ケーラーIMFの専務理事に

7章 イラクにおける金融安定化計画の立案


 わたしたち金融の専門家チームが、イラク北部への進攻をめぐってトルコと金融支援の交渉をしている間に、もうひと組の財務省の専門家チームがクウェートに集結していた。イラクで戦争が勃発した場合には、彼らは何カ月間もワシントンで練ってきた任務を遂行することになっていた。そしてサダム・フセイン政権が崩壊した時には、可及的速やかにイラク入りし、金融システムを守り財政的崩壊を防ぐために必要な措置をとることになっていた。いったんイラク現地に入れば、「緊急の命令変更」もありうるだろうが、ともかくチームの各人が行うべき指示は事前にだされていた。当時はまだわかっていなかったが、フセインはバクダッドの中央銀行総裁に対して、主にアメリカードルで一〇億ドルを金庫室から引き出し、次男で後継者と目されるクサイに渡すよう命じたという。これが事実なら、イラクの経済的な安定は一層脅かされることになっただろう。
 この困難な任務の適任者を選ぶのは容易ではなかった。財務省のスタッフのなかにはフセインが生物化学兵器を使用するのではないかと恐れて、ガスマスクを着けたくないと言いだす者もいた。結局わたしは有能で意欲的なスタッフ三人を、チームのリーダーとして選ぶことができたが、彼らはみなこれまでも困難な環境のなかで、実務的な経験を積んでいた。例えばバン・ジョースタッドは三人中心となるはずだったが、かつてはロシアで銀行のアドバイザーを務め、コロラドの銀行でCEOの経験があった。また最初にイラクの国営銀行や中央銀行接触することになるジョージ・ムリナックスアメリカで銀行を経営したことがあり、イラク財務省を担当するデイビッド・ナミーは、アフガニスタンコソボ、それにソビエト崩壊後のロシアに勤務していた。またナミーは父ブッシュ政権財務省の次官補を務めたこともある。
 九・一一テロからおよそ一年後の二〇〇二年の夏に、イラクへの軍事介入に備えて、わたしたちは金融的側面の検討に入っていた。まだ軍事介入が行われるかどうかわからない段階にあり、これらの作業は最重要の機密扱いだった。しかし中央軍司令部のトミー・ブランクス司令官は戦争に向けて作戦を着々と進めており、これに伴って財務省も金融復興計画を立案し、実行する態勢に入らなければならなかった。
 経済・政治・安全保障・後方支援と、そのどの視点にたっても、これらの金融復興計画は非常に複雑なものだった。そしてその立案と実行は、大統領の基本政策から、財務省エコノミストによる金融上の試算、さらには第四歩兵師団の援護にいたるまで、多くのレベルで行われた。それにはアメリカ政府の様々な部局、また外国政府も関与していた。わたしはこの任務を監督する立場として、本書に取り上げたほかの事業と同じような原則に基づいて行動した。まずできるだけの事実を収集し、可能性とアイデアを分析し、戦略を立てなければならない。戦略から作戦に移るためには、優れた人材と機動力のある組織を作らなければならない。そしてこの組織の各レベルで、人々に次の行動原理に従うよう求めなければならない。つまりなにをするかを命じるのであって、どのようにするかを指示

8章 イラクの金融の安定への実施プロセス


 アメリカ軍がバグダッドに進撃し、二〇〇三年四月初めにフセイン政府が崩壊したあとで大統領宮殿を捜索すると、一人の兵士が現金を詰めたアルミの箱を数個発見した。その箱にはそれぞれ、一〇〇ドル紙幣で四〇〇万ドルが入っており、少なくとも一〇〇個のアルミの箱が隠されていた。紙幣の一部はきれいにパッケージされて、サンフランシスコ連邦準備銀行など、アメリカ各地の連邦準備銀行の印があった。兵士たちは直ちに報告し、クウェートのアリフジャン基地に移送する手続きがとられた。アルミの箱はバグダッド空港に運ばれ、C−130輸送機に積まれた。非常に貴重な貨物だったため、離陸するまでパイロットには行き先が伝えられなかった。現金がクウェートに到着すると、第三三七会計隊の隊員が注意深く数え収納した。兵士たちはアルミの箱から取り出して紙幣計算機に入れるまでの作業では、一〇〇ドル紙幣の束をポケットに忍び込ませる誘惑にかられないよう、ショーツと陸軍のTシャツに着替えさせられた。総額で七億ドルに達した。
 数日後の四月二三日に、財務省チームのバン・ジョースタッド、デイビッド・ナミー、それにジョージ・ムリナックスバグダッドに到着した。彼らがイラク中央銀行の職員から最初に告げられたのは、政権崩壊直前にフセインが一〇億ドルの外貨(正確には九億二〇〇〇万アメリカ・ドルと九〇〇〇万ユーロ)を、銀行の金庫室から奪ったということだった。フセインはその金を次男のクサイに渡すよう、中央銀行の職員に文書で命じたという。
 中央銀行の職員はドルを失ったことが不安だったが、わたしたちもそれを知って憂慮した。金融の安定を維持する責任を果たすためには、中央銀行には、適切な外貨の供給、外貨準備が必要である。特にこのように不確実な情勢にあっては、外貨準備は国の通貨の安定、この場合はサダム・ディナールの安定を維持するのに重要だった。外貨準備はちょうど防衛兵器のように、価値の下落や崩壊を引き起こすような投機の攻撃から通貨を守る。人々が信頼を央いディナールを売り始めると、中央銀行はドルやユーロの外貨準備を発動してディナールを買い、ディナールの価値を維持し信頼を回復しなければならない。また有効な防衛兵器のように、中央銀行は大量の外貨準備を保有することで、売りの圧力を克服できると市場を納得させられる。フセイン中央銀行の外貨準備をほとんど根こそぎ奪い取ってしまい、これによってイラクの通貨事情は非常に不安定になっていた。通貨が崩壊する危険はわたしが危惧した以上に深刻で、わたしたちの通貨計画を成功裏に実行することが、ますます重要になってきた。

残っていた政府職員記録と年金受給者名簿

 ワシントンでわたしたちが作成した権限の委任事項で、デイビッド・ナミーが責任を課された主要な任務は、イラク財務省の現状を評価し、職員と接触し、給与の支払いを開始することだった。つま

9章 最重要な債務削減問題を交渉する


 二〇〇四年一一月二一日金曜日、わたしは歴史上最大の債務交渉を終えようとしていた。それはイラクサダム・フセインが残虐な独裁制を維持するために乱費した借金のうちの八〇パーセント、およそ一〇〇〇億ドルを帳消しにする協定だった。この問題をめぐっては、二〇〇三年三月のイラクへの軍事介入と同じように、世界の大国は一年半以上も対立した。フランス、ドイツ、ロシアは消極姿勢を示し、これに対しアメリカ、イギリス、日本は積極的だった。確かに天文学的数字ではあったが、これは全額の問題にとどまらず、例えばイラクフセインの負債のほんの一部でも支払わなければならなくなれば、将来経済的に繁栄する可能性を危うくし、デモクラシーと治安の確立という目標へ向けての努力を挫折させることになりかねない。
 債務交渉をめぐるアメリカの戦略は、フセイン政権崩壊の直後数週間以内に始められ、最終的な交渉の直前まで、戦略は順調に実行され、交渉は完結しようとしていた。わたしたちの債務担当者は、破壊され略奪された官庁の瓦傑の中から古い債務報告書を発見し、経理の専門家はコンピューターで、考えられるあらゆる経済的なシナリオをシミュレーションした。イラク経済を復興するにはどこまで債務を免除すべきか、イラク現地とIMFで働くわたしたちのスタッフは、IMFの試算を考慮に入れながら作業を進めた。犬総領特使のジェームズ・べー力ー三世は事情を説明するために、ヨーロッパとアジアの主要都市を回った。G8諸国の首脳は交渉が終了する最終期限を二〇〇四年一二月末に設定した。わたしはG8諸国の財務担当者と、最終ラウンドの段取りを決めるため、事前の交渉を終えたばかりだった。
 大詰めの交渉は関係者が一堂に会して行われるのではなく、世界各地で個別に展開された。ブッシュ大統領はチリのサンティアゴで、ロシアのプーチン大統領と昼食をともにしながらこの難問を取り上げ、スノー財務長官はベルリンでドイツのハンス・エイチェル財務相と協議した。またイラクのアディル・アブデル・アルマフディ蔵相はパリで、パリ・クラブ(主要債権国会議)のシャン=ピエール・ジュエ議長と交渉した。当時ベルリンにいたわたしは携帯電話と電子メールを利用して、国務省ホワイトハウス、またワシントンとパリにいる財務省スタッフと連絡をとりながら、各地での交渉の経緯を追っていた。
 その週末が終わる前に、わたしたちは期待した通りに八〇パーセントの債務の帳消しを実現することができた。それはわたしたちの予想を上回る額で、イラク国民だけでなく、わたしたちアメリカ政府にとってもまったく思いがけない勝利だった。最重要の債務取り引きであるこの大詰めの交渉が終わって帰国した時は、ちょうど感謝祭のさなかだった。

10章 米国の為替相場外交----日本と中国


 九・一一同時多発テロから数時間後に、わたしはG7各国の外務次官に電話した。日本財務省黒田東彦財務官と電話がつながると、彼はまず哀悼の意を伝え、直ちに実務の話に移った。黒田財務官はわたしにドルの価値を高めるために、日本とアメリカは外国為替市場でドルを買う必要があると提案した。これに対してわたしは為替市場は政府の介入なく、独自に新しい情報に従って動くままにするのが最善だと答えた。外国為替市場への政府の介入を完全に否定したわけではないが、わたしはこれまで何年間も市場の動向を見守ってきており、またニューヨークと東京の立会場で時間を費やした経験があった。こうしたことからわたしは政府の介入には消極的で、これがブッシュ政権発足以来の政治的立場だった。
 事実アメリカはわたしか財務省に在任中は、為替市場に介入しなかった。それは新記録であり、これまでの政権とは大きな変化だった。クリントン政権は二〇回も外国為替市場に介入し、二〇〇〇年の大統領選挙直前にも行っている。これらの市場介入では黒田財務官はアメリ財務省と協調しており、このため一年後に再びアメリカに介入を要請しても、驚くほどのことではなかった。父ブッシュ政権外国為替市場に介入し、さらにさかのぼってレーガン政権やカーター政権なども市場介入を実施している。しかしブッシュ政権のように非介入政策を堅持したほうが、市場はより良い方向に向かったと思っている。実際、トレーダーは直ちに為替市場に政府の介入がないことを見越して、その結果市場は激しい変動もなくスムーズに推移した。
 日本の財務省(旧大蔵省)財務官たちはしばしば市場に介入し、市場側は彼らにあだ名をつけたが、例えば黒田康彦財務官の前任者である社交家の榊原英資財務官のニックネームは「ミスター円」だった。榊原財務官がたえず「円は高過ぎないか、安過ぎないか」を話題にし、必要と判断すれば直ちに市場に介入したためだった。また榊原氏よりはもの静かで控え目な黒田氏もまた市場介入し、「ミスター・アジア通貨」と呼ばれたが、それは黒田氏がユーロのような単一アジア通貨という長期ビジョンを抱いていたからだった。さらに黒田氏の後任者である溝口善兵衛財務官は、アメリ財務省短期証券のようなドル資産を円で大量に購入したことから、「ミスター・ドル」とあだ名された。
 この時期に為替市場に大量に介入したのは日本だけではなく、中国はさらに大量介入した。しかも日本はG7の一員として定期的に介入をわたしに報告したが、中国はより秘密主義で、わたしに連絡してくることはなかった。しかしその意図は明白で、中国の通貨である人民元がドルに対して高騰するのを防ぐのが目的だった。人民元高によって中国の商品が海外で値上がりし、輸出に支障をきたすためだった。中国通貨はアメリカにとって、二〇〇四年から二〇〇五年にかけてますます重大な問題となっていく。

エピローグ


 グローバルな金融戦士としてのわたしの最後の一日は、ホワイトハウスのシチュエーションルームで、ブッシュ大統領国家安全保障会議のメンバーとの会議で始まった。それは二〇〇五年四月二二日金曜日の午前だった。わたしはイラクの金融情勢について報告することになっていた。会議はまず政治と安全保障に関するブリーフィングで始まり、それが終わるとブッシュ大統領がわたしを指名した。イラクの金融情勢は良好だとわたしは報告した。「昨年後半はインフレが悪化するのではないかと懸念されたが、イラク中央銀行と協力して対処した結果、当面は沈静化しているように思われる。イラクの新通貨は非常に安定している。イラクに電子決済システムが普及すれば、新たに訓練されたイラク治安部隊への給与支払いが容易になり、これを支援する必要がある。またイラクIMFのプログラムを遵守すれば、われわれが交渉している約一〇〇〇億ドルの債務免除を受けることができる」
 大統領はわたしの報告に耳を傾け、金融面では事態が順調に進んでいると論評した。またコンドリーザ・ライスの後任のスティーブ・ハドレー安全保障担当大統領補佐官は、アル・ラーソン、ドブ・ザクヘイム国防次官、それにわたしの三人で始めたイラクに対する国際的な資金調達に触れ、こうした努力は継続する必要があると提言した。ライス国務長官もこれに同意し、次回の債権国会議がそのチャンスになると述べた。
 会議が終了すると、ブッシュ大統領はわたしの業績と協力に感謝し、家族と一緒にまた執務室を訪ねるように招待してくれた。これに対してわたしは、これまでのねぎらいで十分だと答えた。
「これからなにをするか決まっているのかね」と大統領が尋ねた。
スタンフォード大学に帰るつもりです」とわたしは答えた。「月曜日にはフーバー研究所で、わたしたちが政府で行ったことについて講義することになっています」
 ブッシュ大統領に最初に会っだのは、七年前の一九九八年四月、スタンフォード大学でだった。当時ブッシュはテキサス州知事で大統領選への出馬を検討中だったが、わたしたちはスタンフォード大学のキャンパスでわたしの自宅から道ひとつ離れたジョージ・シュルツ国務長官の家で会った。コンドリーザ・ライスや数人のスタンフォード大学の同僚も顔を見せて、外交政策や経済政策について話し合った。その後二〇〇〇年の大統領選挙を目指して、わたしたちは二年間政策の立案に当たった。選挙のあとでライスとわたしは政府に参加して様々な政策提案をし、九・一一同時多発テロ以後も新しいアイデアを打ち出して、それは大統領のチームや財務省の献身的な金融戦士たちの手で実行された。
 今わたしは大統領とそのチームに別れを告げて政府を去り、理論の世界に戻ろうとしていた。
 「こうした努力を継続する必要がある」というハドレー補佐官の将来を見据えたコメントをきっかけに、わたしは過去の様々な出来事を思い出していた。テロ資金の根絶、アフガニスタンイラクでの財政再建金融危機の世界的な連鎖の阻止、IMF世界銀行の改革、その結果の世界経済の改善な

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