狼疾正伝--中島敦の文学と生涯 - 川村湊
http://book.asahi.com/review/TKY200909010139.html■存在への執着と疑いに発する文学
[掲載]2009年8月30日* [評者]阿刀田高(作家)
生誕100年、早世した中島敦についての入念な評伝である。作家研究として深い。
残された作品の多い作家ではない。ある時期まではそう高い評価を受けた作家ではなかった。しかし、そのユニークな短編小説「山月記」などが広く教科書に採択され、今も採用され続けていることによって“「国民的作家」の地位にまで上りつめた”と評伝者は綴(つづ)っている。この作家の魅力はなんなのか。
タイトルにある“狼疾(ろうしつ)”は“激しい病気”のこと。また中島敦には“狼疾記”という私小説風な短編があって、タイトルがこれに由来していることは明白だが、ここではさらに深く説き明かして“〈狼疾〉とは、『孟子』の「其(そ)の一指を養い、その肩背を失いて知らざれば、すなわち狼疾の人と為(な)さん」という文章から来たもので、指一本を惜しむあまり、肩や背までをも失ってしまう人の謂(い)いである。中島敦は、これを根源的な「観念」の無根拠性に囚(とら)われるあまり、現実の世界や人間存在を見失ってしまう人間のことと解している。もちろん、それは誰にもまして、中島敦自身のことだろう”と評伝者は説く。
中島敦は自分という存在の不確かさに病的と言ってよいほどに激しい思案を重ね、そこから作品を発した作家であった。別言すれば……言語・文字・文学に託された人類の知性と文化、それに執着しながら、それを疑うことから中島敦の文学は始まっている。本書は作家の実人生の光と影をたどりながら、この視点から作品を的確に解き明かして淀(よど)みがない。
たとえば「山月記」は“詩業に没頭”したために尊大で憐(あわ)れな野獣に化した男の物語であり、文学への傾倒と疑念が見え隠れしている。「文字禍」や「狐憑(きつねつき)」は言うに及ばず代表作の「李陵」の中にも繁栄の漢民族と一見卑俗に見える匈奴との複眼的な鋭い対比が見えるし「弟子」にもこの視点が十分にうかがえる。“書いたもの”より“書かれたにちがいない”ものへの深読みが光るこの作家について、適切な深読みをほどこした快い研究書である。
- 作者: 川村湊
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2009/06/11
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序章
1
中島敦は、テキストの人である。これは、中島敦という小説家の作品をテキスト論的に読むということではない。彼は文字通り〈テキスト〉の人だった。もちろん、これは彼の生涯の最後の仕事が、南洋庁から任命された南洋群島(現ミクロネシア)の原住民の子供向けの「国語」教科書(テキスト・ブック)の編修書記だったということもあれば、その死後に高校生や中学生向きの国語教科書に多く採用され、多くの日本人(と一部の外国人)読者にとって、文字通り「教科書」でその作品を読んだ作家、そしてその多くが、「教科書」でしか読んだことのない作家(作品)であるという事実に基づいている。
また、彼の作品の多くが、中国の古典文学や、西洋や東方世界の文学者のテキストを基にした再創作というきわめてブッキッシュな創作態度を示したということも含意している。つまり、小説の本文(テキスト)を書くために、彼はテキスト(典拠)を必要としたのである。もともと、漢学を家学とする家系に生まれ、漢文はもとより、日本の古文、英文を自由に読みこなし、書く能力も相当に持っていた彼は、「書字」の人、「書記」を専らにした人といってよかった。つまり、二重、三重の意味において彼は〈テキスト〉の人だったのであり、そのもっとも大きな意味は、『山月記』や『李陵』などの文学的テキストを生成(創作)したということなのである。
そうした中島敦を〈テキスト〉として読むこと。つまり、〈中島敦というテキスト〉を読むことが、ここで私が試みようとすることだ。「作家論」か「作品論」か。テキスト論か状況論かといった不毛な二項対立に陥ることなく、中島敦という一人の作家の作品(テキスト)を読むことと、彼の「生」というテキストを読むこととが、同じ位相によって試みられなくてはならないというのが、私がこれから書き続けてゆく文章の企図するところだ。
このうち、私たちにとってもっとも見やすいのは、彼が〈教科書(テキスト・ブック)の人〉であるということだ。現在に至るまで、戦後の高校生用国語教科書には、中島敦の『山月記』あるいは『弟子』や『李陵』や『名人伝』が短篇小説の定番の教材となっている。国語科の教科書は、アジア・太平洋戦争の敗戦後に検定制となっており、それぞれの教科書会社が作ったものが文部(科学)大臣による検定を受け、それに合格したものが、学校ごとに(あるいは校区ごとに)採択される。時期によって出入りはあるが、常時、二十種類以上の教科書が全国の学校において使われているというのが、戦後以降の状況なのである(戦前の国定教科書時代とは、状況は大きく異なっているが、「検定」が実質的に「国定」に近いものとなっているという批判は妥当するものだろう)。
これらの現行のほとんどすべての教科書に中島敦の作品は取り上げられており、いくたびかの改訂や新訂を経ても、いまだに生き延び続けている。日本のほとんどすべての高校生が、一度は読むという意味で、中島敦の『山月記』〔あるいは『弟子』や『李陵』)は「国民文学」といってよいのである。中島敦の作品のファンは、その最初の出会いが中学や高校の国語の時間のことであり、教科書に載っていた『山月記』や『名人伝』であることを、懐かしげに回想する場合が多い。二〇〇二(平成十四)年度には、二十一社の高校国語教科書のなかで、なんと十八社が中島敦の小説を採用している(やはり、『山月記』『李陵』『弟子』が大半であり、『名人伝』『牛人』などを採用しているものもある)。五十年以上にもわたる国語教科書における中島敦の存在は、すでに親子二代(あるいは三代)にわたる読者(学習者)を生み出している。それはすでに「国民文学作家」という言葉さえも大げさではないほどだ。『こころ』の夏目漱石や、『鼻』の芥川能之介、『舞姫』や『高瀬舟』の森鴎外のように、あるいはそれ以上に。
中島敦が、夏目漱石や芥川龍之介を差し押さえて、「国民文学作家」の地位にまで上りつめたのは、もちろん戦後のことである。漱石や鴎外や龍之介は、彼らの小説が教科書に載らなくても(もちろん載ったとしても)、日本の小説家としての評価や知名度はそれほど変わらなかっただろうと思われるが、中島敦の場合、彼の作品が教科書に採用されていなかったと考えてみれば、彼の一般的な知名度はかなり低いものではなかったかと想定することができる。弱冠三十三歳で夭折し、珠玉のような短篇を残したものの、マイナーな作家として文学史の片隅にひっそりと録されているような存在。比較しても意味はないが、梶井基次郎や尾崎翠のような文学史的な位置にあったと考えてよいのではないだろうか。
中島敦は、国語の教科書にその作品が取り上げられることによって、夏目漱石や芥川龍之介や森鴎外と並ぶ、日本近代文学史上に逸することのできない作家として登録されたといってよい。そして、そのことには、戦後の「文学教育」をめぐる一種の角逐のようなものがあったといっても過言ではないのである。
中島敦の作品が、初めて小説教材として教科書に採用されたのは、一九五〇(昭和二十五)年の高校国語教科書においてだった。この年、二葉株式会社発行の「新国語 文学三年上」(岩井良雄・熊沢龍・篠田融編修)に『山月記』が掲載された。翌一九五一年には、さらに二つの教科書が中島敦の短篇小説を教材として採用した。好学社発行の『高等文学 二下』(辰野隆・久松潜一・池田亀鑑監修、古田精一編修)に『弟子』が、三省堂出版の「高等国語 二上」に『山月記』が、それぞれ収載されたのである。このうち、二葉による教科書は、戦後の一時期、民主主義教育の掛け声のもとに、国定の一種頬の教科書しか許されなかった戦前・戦中の反動として雨後の筍のように生まれてきた新興の教科書出版会社による民間の教科書であり(高校国語の検定教科書は、一九五〇年に四種、翌年に三種の計七種が刊行された)、教科書としてはほどなく姿を消した。
一九五二年には、実教出版発行の『現代国語(文学)二上』が『司馬遷』の題名で、中島敦の『李陵』の一部を抄録した。監修は新村出である。現在に至るまで高校国語教科書を発行し続けている東京書籍、右文書院、筑摩書房、大修館書店などの教科書には、この頃、中島敦の小説が収載されるということはなかった(後には、それらの社の教科書すべてに掲載された)。夏目漱石、森鴎外、志賀直哉、芥川龍之介、樋口一葉、幸田露伴、泉鏡花などのすでに評価の定まった大家、名家の小説が並んでいたからである。
一九五一−五三年には、すでに『弟子』『山月記』『李陵』の三作品が載せられていて、この後、競うように各教科書は中島敦の小説を教材として採用するようになるのだが、むろんそれはいっきょにではなく、少しずつ、上記数社の出版社発行のものから、他の出版社発行の教科書を蚕食していったといってよい(この五〇年代初めの教科書への採用は、一九四九年に最初の『中島敦全集』(筑摩書房)全三巻が編まれ、毎日出版文化賞を受賞したことが大きく貢献したと思われる)。
だが、中島敦の文章が、初めて教科書に載ったという意味では、一九五〇年のものがその嚆矢ではない。戦後の混乱期に、最後の国定教科書として文部省によって作られた『中等国語二(4)」に、すでに中島敦の『弟子』の文章が抄録されているのである。これは、戦中の墨塗り教科書の直後に、あわただしく作られたものであり、一九四七(昭和二十二)年から一九四九年にかけて刊行され、新制中学校用の教科書として使用されたものだ(高校用には『高等国語』が編纂された)。著作権所有、並びに著作兼発行者は文部省であり、発売は中等学校教科書株式会社である。
敗戦後、教育界の民主化を図った連合国総司令部、いわゆるGHQ(General Headquarters)は、戦前・戦中の皇国主義、軍国主義に塗れた「国定教科書」から脱皮した。"民主的"な教科書を作らせようとしたのだが、すぐさまそうした民主主義的な教材による民主的な教科書が民間の出版社から生まれ出てくるはずもなかった。いわば、そのツナギとして制作されたのが最後の国定教科書としての『中等国語』であり、「国定」から「民間」の「検定」教科書への橋渡しをする存在だったといえる。一九四七年には学校教育法と教育基本法が制定され、民間で作った教科書を文部大臣が検定して、教師たちが自由に採択するという、現行の検定教科書制度が一九四九年に始まったのである(検定制度自体は明治時代にもあった)。
この『中等国語』の二巻(分冊の4)に「十 孔子と子路」という章があり、「魯の野人仲由、字
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