悪党 - 薬丸岳

 まだ六時前だというのにあたりは薄暗かった。
 サドルを握った手に冷たい風が突き刺さってくる。僕は力一杯自転車を漕いだ。
 サッカー部の練習が終わった後、仲間たちからコンビニに寄ろうと誘われたが、今日はまっすぐ家に帰ることにした。
 薄闇に包まれた住宅街を抜けると、赤、青、白のサインポールが見えた。
 いつもは家の玄関から入るのだが、今日はちょっと読みたい雑誌があったので店から入った。
 「ただいま」
 店に入ると、お父さんがちらっと僕を見た。すぐに常連客の田畑さんに視線を戻す。田畑さんと楽しそうに雑談をしながらお父さんは髪を切っている。
 僕は入口近くのソファに座り、棚から今日発売の漫画雑誌を取り出した。とりあえず読みたかったふたつの漫画に目を通すと、僕は雑誌を開きながらお父さんに目を向けた。ちょうどカミソリで田畑さんのひげを剃っているところだ。
 この頃、僕は漫画を読むことと同じくらい、お父さんが仕事をしている姿を見るのが好きになった。以前はそんなこと感じたりしなかった。自分の将来を縛られたくなかったから、この店を継ごうだなんて想像したこともなかったけど、最近では、ここでお父さんのようにお客さんと楽しそうに語らいながら働くのもそう悪くはないな、なんてことを思い始めている。
 田畑さんがさっぱりした顔で店を出ていくと、お父さんは閉店の準備を始めた。
 「修ちゃーん。帰っているなら先に宿題をやっちゃいなさい」
 奥からお母さんの声が聞こえた。僕は立ち上がって自宅に続いているドアに向かった。
 「おい、修一 ---」
 お父さんに呼び止められて僕は振り返った。
 理髪台の棚から包装された箱を取り出すと僕に差し出した。
 「お母さんにはしばらく内緒だぞ。今度、研ぎ方を教えてやるから」
 お父さんの言葉を聞いて、プレゼントの中身がわかった。
 「いいの……?」
 僕は少し不安になって訊いた。
 「大人になった証だ。意味はわかるよな?」
 「うん」
 僕は嬉しくなって、箱を手に取ると、二階の自室に駆け上った。
 机に向かうとすぐに包装をやぶり、箱を開けてみた。
 革製の鞘に収まったアウトドアナイフだ---
 僕はどきどきしながら鞘からナイフを抜き出した。蛍光灯を反射してブレードが鋭く光った。恰好いい。お父さんが使っているナイフと同じタイプのもので、ブレードには『佐伯修一』と僕の名前が刻まれている。
 僕はナイフを見つめながらしばらくうっとりとしていた。
 最高の誕生日プレゼントだ---
 お母さんから誕生日プレゼントは何がいいかと訊かれたとき、僕はアウトドアナイフが欲しいと言った。お母さんは眉をひそめて即座に反対し、姉のゆかりは「きっとお父さんに感化されちゃったのね」と笑った。お父さんは無言で晩酌のビールを飲んでいた。
 ゆかりの言う通りだ。僕たち家族は今年の夏休みに秩父にキャンプに出かけた、お父さんの提案だった。
 最初は乗り気ではなかった。店は月曜日が休みだから学校が休みのときでなきゃ家族そろって出かけることなどない。どうせ行くならディズニーランドあたりがいいと思った。ゆかりも同感だったようだが、お父さんは子供たちの言うことには耳を貸さず、どこからかテントや寝袋を借りてきてキャンプを強行した。
 それは僕にとって新鮮な体験だった。お父さんと一緒にテントを組み立て、その後、渓流釣りに行った。ゆかりも着くまではぶつくさ文句を言っていたが、しばらくするとお母さんと山菜を採りに行ったりして楽しそうにしていた。
 お父さんは若い頃にはよく渓流釣りやキャンプをしていたそうだ。ナイフを持ったお父さんは慣れた手つきで魚をさばいたり木を削ったりした。今まではどこか冴えない父親だと思っていたが、そのときの動作が僕には恰好よく映った。
 しばらく何の役にも立たないものだということはわかっている。プレイステーションというすごいゲーム機が発売されたばかりだから、それをおねだりしていればよかったかな、という思いがないわけではない。だけど、ゲームでは絶対に味わえない喜びが目の前のナイフにはあった。
 ナイフをプレゼントしてくれたということは、大人として僕を認めてくれたということなのだ。ナイフを持たせても大丈夫だと。信頼できる大人だと認めてもらえたことか僕には一番嬉しかった。
 「修ちゃん---」
 お母さんの声がして、僕は慌ててナイフを箱に入れて引き出しにしまった。
 「ゆかりがまだ帰ってこないんだけど……何か聞いてない?」
 ドアを開けて、お母さんが訊いた。
 「まだ部活じゃないの?」
 ゆかりは高校でサッカー部のマネージャーをしている。僕は時計を見た。七時半を過ぎていた。たしかにいつもならとっくに帰っている時間だ。
 きっと松山と一緒なのだろう。
 「そういえば……さっき駅前で会ったときに少し友達の家で勉強してから帰るって言ってた……」
 僕は嘘をついた。
 「そう……あの子がケーキを買ってくるって言ったんだけど……じゃあ、もうちょっと待ってみようかしら」

  ゆかりには三ヶ月前から付き合っている彼氏がいた。松山という一年先輩のサッカー部の主将だ。
 たまたま駅前のハンバーガーショップでふたりが一緒にいるところを見かけて白状させた。
だけど、両親には内緒にしていてくれと、ラーメン三杯おごってもらうことで買収されていたのだ。
 松山は弟から見ても好感が持てる男だった。爽やかなスポーツマン。たまに公園で会ったりすると、僕にサッカーを教えてくれたりする。
 もしかしたら、ふたりで僕の誕生日プレゼントを選んでくれている最中かもしれない。
 だが、九時を過ぎてもゆかりは戻ってこなかった。いつもより豪華な夕食を前にして、僕は少し不安になっていた。
 ゆかりが何の連絡もなしにこの時間まで帰ってこないことはない。たとえ、彼氏と楽しい時間を過ごしていたとしても、家族に心配をかけてはいけないという分別はある姉だった。しかも、今日は僕の誕生日なのだ。
 「何ていう友達のところにいったの?」
 お母さんに訊かれたが。僕は「そこまでは聞いていない……」と言葉を濁すしかなかった。
 「ちょっとそこらへんを見てくるよ」
 僕は居ても立ってもいられなくなって家を出た。自転車に乗って薄闇の中を走りだした。
 ゆかりの高校は家から自転車で十五分ほどのところにある。だが、高校まで行きフェンス越しに校庭を覗いてみてもクラブ活動をしている人は誰もいなかった。僕はゆかりと松山が立ち寄りそうな所を回ってみた。川越街道沿いにあるファミリーレストラン、図書館、駅前のハンバーガー屋さんやCD店など。だけど、どこにもゆかりの姿は見当たらない。駅からとりあえず自宅への道を走っているときに、学生服を着た一団とすれ違った。松山とサッカー部の人たちだ。
 「修一くん、こんな時間にどうしたんだ」
 松山が声をかけてきた。
 「お姉ちゃんと一緒じゃないですか?」
 「いや……佐伯は早めに帰ったけどな。今日は修一くんの誕生日だろう。ケーキとプレゼントを買わなきゃいけないからって。佐伯がどうした……?」
 ゆかりがまだ帰っていないことを話すと、松山たちの顔色が変わった。
 「修一くん、一緒に捜そう」
 松山が僕の代わりに自転車に乗って後ろに乗るよう促した。他の部員の人たちも手分けして探してみると言ってくれた。
 どれぐらい捜しただろうか。もう三十分近く自転車で色々な所を回っている。薄暗い道を行きながら動悸が激しくなってくる。自転車を漕ぐ松山の息も荒くなっていく。
 松山が急ブレーキをかけた。
 「どうしたんですか?」
 僕が訊くと、松山は目の前にある一軒の廃屋を指さした。
 もとは自動車整備工場のようだが、今はシャッターが閉ざされ朽ち果てている。敷地の中に自転車が転がっていた。
 「ちょっと見てくるからここで待っているんだ」
 松山の声は震えていた。
 自転車のライトを取り外すと、鉄の扉を開いて敷地の中に入っていった。松山が自転車を照らし、工場の裏手に向かっていく。
 僕も敷地に入って転がっている自転車に近づいていった。あたりは真っ暗だったが、鍵についているウサギのマスコットのキーホルダーを見て姉の自転車だと確信した。
 心臓が締め付けられるように痛かった。僕はゆっくりと工場の裏手に向かった。窓を破られたドアが開け放されている。一歩、足を踏み入れようとしたときに松山の絶叫が響き渡った。
 僕は身をこわばらせながら、窓から差し込んでくる薄明かりだけを頼りに奥に進んだ。淡い光が揺れている。ライトを持った松山が震えながら立っていた。近づくと光に照らされた床が目に入った。ぐしゃぐしゃになった箱の中からケーキのクリームが飛び散っている。
 僕は震える松山の手からライトを奪い、違う方向に照らしてみた。
 仰向けに倒れた女性を見て息を呑んだ。
 お姉ちゃん---?
 近づこうとする僕を松山が止めた。僕は松山の手を振り払ってゆかりに近づいた。
 ゆかりの制服は引き裂かれ、自い肌があらわになっている。ゆかりの静止した目が僕を見上げていた。

悪党

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