硫黄島栗林忠道大将の教訓 - 小室直樹

日本人ならひとり残らず読むべき本。

現在では「いおうじま」と読まれているらしいのだが、戦前に住んでいた島民は「いおうとう」と読んでいた。日本軍においても「いおうとう」と言っていた。我々国民もそう呼んでいた。

  1. ミッドウェー海戦
    1. 山本五十六は愚将である
    2. 山本五十六という司令長官は非常に戦争知らずで勉強不足だった
    3. あの戦争においてさほど重要ではなかったミッドウェーに日本軍が固執したのは、東京空襲に山本長官が取り乱してしまったからに他ならない
  2. ソロモン諸島
    1. あんな島(引用者注:ガダルカナル島)は取られたところで放っておいてもどうということはないのだが、どうしたわけか、日本海軍は航空兵力の殆どをソロモン諸島に集中させ激烈な航空戦が何回も繰り広げられた
  3. マリアナ沖海戦
    1. 昭和十九年(一九四四年)におけるマリアナ沖海戦で、日本は最大の打撃を被ることになった
    2. マリアナ方面の海軍最高司令官に任命されたのは航空戦の最高権威者と言われる小沢治三郎中将である。しかし、これは小沢中将の初陣であった
    3. 小沢提督の失敗は「アウトレンジ戦法」を採った事である。これは、敵の弾丸が届かないところからこちらの弾丸を敵に命中させるという戦法である
    4. そのころにはもうソロモンの大激戦で日本の腕利き戦闘員は殆ど戦死してしまっていた
    5. アメリカではよく訓練された操縦士が次々に送り込まれたため、せっかく米雷撃機の航続距離外から飛んだ日本の雷撃機も、グラマン戦闘機に大部分が撃墜されてしまった
    6. 米海軍は高度なレーダーを装備し、飛行機を感知して炸裂する対空砲弾(VT信管)で日本の攻撃隊を迎撃した。(中略)日本軍は新兵器であることにも全く気づいていなかった
    7. サイパンとグアムに新型爆撃機B29の滑走路が建設されたのは日本にとって致命的だった
    8. サイパンから日本本土を空襲するには長距離飛行を余儀なくされる
    9. アメリカが出した結論は、サイパン島から約一三八〇キロ、東京まで約一二五〇キロ、沖縄まで西に約一三八〇キロの海上に浮かぶ硫黄島をB29の中間基地にすることだった

六月二〇日に父島から硫黄島を訪れた小笠原兵団参謀・堀江芳孝陸軍少佐から、栗林兵団長は初めて「あ」号作戦(マリアナ沖海戦)の失敗を聞き、(中略)玉砕を覚悟する。これは勝つ必要のない戦いだ。一日でも長く米軍をこの島に足止めし、徹底抗戦するしかないと考えた。


(中略)


幸いなことに東条首相が辞職し、小磯國昭内閣が誕生する。参謀長は梅津美治郎大将になった。栗林中将は「私は大本営の命令など聞かない。自分が一番いいと思うようにやるが、それでもよろしいか」と言った。梅津参謀総長は東条ほどの自信家でなかったために、いけないとは言えず「ああ、それでよろしい」と答えた。そしてあの画期的な大作戦が実行できた


栗林中将は地下壕作戦を決行した。アメリカ軍は、硫黄島の占領に5日もかからないかもしれないと考えていたが、実際には36日もかかった。

 日本は大東亜戦争に対する全体的なグランド・デザインを持っていなかった。全く行き当たりばったりだった。上手くやれば勝てるチャンスは幾らでもあったのに、何もしなかった。いや、抑抑アメリカと戦争する必要もなかった。
アメリカのハル・ノートが余りにも無謀だったから、対米宣戦をせざるを得なかった」とは外交を全然知らない者のいうことだ。しかもハル・ノートには無理難題が書いてあったのは事実だが、何時までに実行せよ、即ち中国から何時までに撤兵しろとは一言も書いていない。第一に日付が書いていない最後通牒なんてある訳がない。これは絶対あり得ない事であるという事さえ理解していなかった。そして現在に至るまで、この点を指摘した学者及び政治家、評論家はいない。

日本人は歴史にまなばない国民だから、大東亜戦争でとんでもないバカな失敗をした。その愚を今も繰り返している。(中略)
 日米開戦当時、日本は連戦連勝だった。それがある時を境に形勢が大逆転してアメリカに敗れた。戦後の経済成長も同じ事である。敗戦国でありながら一時はアメリカを凌ぐ経済大国になりかかったのに、それが今や立場が再び逆転しつつある。

硫黄島は東京都内にあるが住民はない。無番地である。一般の人は島に立ち入れないことになっている。(中略)理由は海上自衛隊関係者が管理する島だからである。アメリカ海軍の空母艦載機による離着陸猛訓練(タッチ・アンド・ゴー)も行われている。だから島に入れるのは自衛隊関係者と、基地施設維持のための建設業者、そして例外的措置として旧島民と、硫黄島の歴史を継承するための教育的見地から小笠原島民、および小笠原に住む中学生が訪問できる。

硫黄島栗林忠道大将の教訓

硫黄島栗林忠道大将の教訓

まえがき
硫黄島地図
太平洋方面図

序 章 世界の戦史上、稀にみる死闘は東京都内で行われた
第1章 真珠湾奇襲から硫黄島

火星人と日本人

真珠湾奇襲成功に対する日米の反応

ミッドウェー海戦における惨敗

アメリカ軍の反攻

戦局を変えたマリアナ沖海戦の「アウトレンジ戦法」
第2章 栗林師団長の独創
栗林忠道中将、硫黄島に進出

孤立する硫黄島

栗林師団長の要請

全員地下に潜るべし

奇蹟の地下壕

一人十殺

トーチカと化したバロン西の戦車隊
第3章 硫黄島三十六日間の死闘
五日もあれば硫黄島は落とせる

師団長の作戦を狂わせた海軍の発砲

三日でノルマンディー上陸作戦の死傷者数を上回る

徐々に北に追い詰められていった日本軍

「想像もつかない生き地獄」

栗林師団長、なおも戦闘継続中なり

「類稀なる勇気こそが一般的な美徳であった」
第4章 現代に生きる硫黄島
九州に上陸したら死傷者二六〇万人はでるだろう

日本に有利になったポツダム官言

原爆のせいで日本には名目がたった

神風は戦後に吹いた

硫黄島は日本経済の神様

右翼も左翼も不勉強

兵器は使うだけが能じゃない

太平洋よりインドとアフリカだった

栗林中将に大勲位菊花章頸飾を
終章 硫黄島の戦いにみる日本の伝統主義的社会構造
真珠湾奇襲を知らなかった東条英機

「生死事大」

空閑少佐の自刃

ソ連参戦を呼び込んだ硫黄島の闘い

戦争の幕を下ろした鈴木貫太郎首相

「勝者なき死闘」がよんだ戦後の復興

投降した二人にみる近代軍

財閥解体と地代の引き下げが生んだ日本統治

アッツ島硫黄島の玉砕の違い

日本社会を動かす「共同体」
硫黄島戦−人物伝
栗林忠道永田鉄山/市丸利之助/山口多聞/西竹一/南雲忠一坂井三郎/千田貞季/チェスター・ニミッツ/レイモンド・スプルーアンス/ホーランド・M・スミス

硫黄島百科
硫黄島作戦 主要史実暦日表
大東亜戦争 主要史実暦日表