旅順攻防戦の真実 - 乃木司令部は無能ではなかった - 別宮暖朗

≪≪≪旅順要塞はすべてベトンで練り固められていた?≫≫≫

 近代要塞の強さは城壁の厚さや材質で決定されるのではない。防御施設の縦深性と防衛作戦の巧拙が大きく左右する。もちろん、兵員の量、装備、士気はそれの基礎をなす。
 司馬遼太郎は旅順要塞を次のように描写した。(『殉死』四三ページ)
 「現実の旅順要塞は築城を長技とするロシア陸軍が八年の歳月とセメント二十万樽をつかってつくりあげた永久要塞で、すべてベトン(コンクリート)をもって練り固め、地下に無数の窖室をもち、砲台、弾薬庫、兵営すべて地下にうずめ、それら窖室と窖室とを地下道をもって連結している」
 これから受ける読者のイメージはどのようなものだろうか?
 「すべてベトン(コンクリート)をもって練り固め」てあるのだから、永久要塞はコンクリート製の窓なしビルまたは黒四ダムのような工作物だと想像するだろう。
 次に主要構造物、砲台・弾薬庫・兵営が「地下にうずめ」てあるのだから、そのベトン製の構築物の下には無数の窖室(地下室)があると思う。それらが「地下道」をもって連結しているのだから、旅順要塞は地上・地下を貫く一個の複雑な複合体とみなすだろう。
 結果、多くの読者は旅順要塞があたかも一個の西洋の城、たとえばディズニーランドにそびえる魔法の城の巨大版だと想像するかもしれない。しかし、このイメージは完全に誤りで、ロシア軍のつくりあげた旅順要塞はそのような中世の想像上の要塞とは異なり、二十五キロの距離をもつ半円の上を、二十五以上の独立保塁がとりまき、それらを塹壕でつないだ、近代築城術の粋をこらしたものだった。

≪≪≪要塞は火力の発展に伴い変化した≫≫≫

 旅順攻防戦の両軍の将領、乃木希典(一八四九〜一九一二)、ステッセル(一八四八〜一九一五)はともに高度な軍事教育を受けており、近代における火力の発展とその応用について十分な知識をもっていた。旅順攻防戦は当時における最高レベルの武器が使用され、また新機軸の戦術を駆使して戦われた。このような場合、交通手段を含む装備・方法・兵員の量が匹敵しない大きな過去の戦例を、参考にすることは難しい。
 司馬遼太郎は「備中高松城の水攻め」(『殉死』四五ページ)が要塞攻略における正攻法の好例だとする、この城攻めは一五八二年に発生した。そのときは日本の小銃(火縄銃)の揺藍期だった。時代は戦国末期であり、城攻めの様式は、さらにその前の戦国中期とは、かなり異なっていたはずである。すなわち、小銃の導入により防御側が相当有利なはずで、備中高松城攻めで、攻囲軍を指揮する豊臣秀吉はそれを打開する工夫が要求されたに違いない。豊臣秀吉は強襲を避け、遠巻きにしながら兵を損なわず圧力をかける(洪水にする)方法を選択した。この選択自体に政治方針が内包されており、正攻法---戦術とは異なっている。
 乃木にとり、大本営命令により、圧力をかけながら遠巻きにするという方針は最後までとれなかった。豊臣秀吉は圧力として「洪水」を利用したのだが、乃木の手許には「重砲」というさらに強力な武器があった。しかし、両者を単線的に比較できないし、そもそも、根本の方針が違っていた。司馬が乃木の採用した旅順攻防戦における「正攻法」と高松城水攻めに共通点があると論じるとき、単に「土手」をつくった「黒鍬者」と塹壕を掘った工兵が同じに違いないという視点からだけと思うのは僻目だろうか。乃木は時間をかけることが許されなかったのだ。
 また、昭和天皇乃木希典の師弟関係について次のように記す。(『殉死』 一三四ぺージ)
 「かれ(乃木希典)は他の児童、生徒に対しては(学習院)院長という立場で臨んだが、この皇孫(昭和天皇)に対してだけはひとりの老いた郎党という姿勢をとった。自然、皇孫は他の者のように希典を恐れず、恐れる必要もなく、無心にかれに親しみ、親しんだればこそ、学校における他の者とはちがい、希典の美質を幼帝ながらも感じることができた。希典がこの幼い皇孫に口やかましく教えたのは一にも御質素、二にも御質素ということであった」( )内付記
 司馬は「希典の美質」と書いているが、その直前には、「偏執狂」(『殉死』 一三〇ぺージ---この言葉は芥川龍之介『将軍』に初見する)、そのあとに、「前時代人の美的精神をかたくなに守り、化石のように存在させつづけた」(『殉死』 一六二ページ)と乃木希典の性格を表現している。
 この表現に該当する人格に幼少の人間が「無心に親しむ」ことは誰でも危険と感じる。おそらく司馬は隠喩の方法をとって昭和天皇を批判したいのだろう。もちろん、現代日本において君主を隠喩であれ何であれ批判すること自体は一向に差し支えない。ただ、避忌を行なうには連関性を実証するなり、批判される人物の発言・行為がどのような時代背景でなされたのかを考察する必要がある。また、言論の自由のある国で、ある人物について隠喩の方法で批判することは、それ自体特殊な意味をもつ。
 司馬遼太郎海音寺潮五郎との対談で(昭和)天皇について好きでも嫌いでもないと語っているが、はたして本心だろうか?
 論証ぬきで突然、大過去をもちだしたり、関係があるとも思えない未来の人々への影響を慨嘆することは、司馬遼太郎歴史小説の特質だ。そして、もう一つの奇妙な点は例証にしても未来言及にしても、日本のケースしかあげないことだ。日露戦争は日本とロシアの間で、そして外国で戦われた。にもかかわらず、同時代のロシアの戦争、露土戦争第一次世界大戦との比較は行なわれず、日本の中欧の戦争を戦例とし、この戦争の影響として日本または日本人の将来が語られる。このような方法では旅順攻防戦の実際、要塞はどのようなものだったかを理解することは到底不可能だ。

≪≪≪画期的なボーバンの築城術≫≫≫

 ヨーロッパにおける近代築城術の創始者は、司馬が攻城術の父として紹介するボ


旅順攻防戦の真実―乃木司令部は無能ではなかった (PHP文庫)

旅順攻防戦の真実―乃木司令部は無能ではなかった (PHP文庫)

目次

★文庫版によせて
[対談] 架空戦史から戦訓を引き出す危うさ(兵頭二十八別宮暖朗
ボルトアクション式小銃の傑作---三八式歩兵銃
日本軍は銃剣突撃を重視したことはない
ロシア軍の小銃には銃剣がネジでとめられていた
技術を軽視していなかった帝国陸軍
国内重工業の規模が劣っていた
山懸・有坂コンビが明治陸軍の技術をリードした
日露戦争後、組織が細分化されて活力が落ちた
元帥の意見を無視して書かれた「機密日露戦史」
陸大エリートを批判しながら陸大戦術を賛美する「司馬史観
第1章 永久要塞など存在しない
旅順要塞はすべてベトンで練り固められていた?
要塞は火力の発展に伴い変化した
画期的なボーバンの築城術
榴弾砲の発明で城塞の優位がくずれた
ブリアルモンは保塁全体にベトンの天蓋をかぶせた:
保塁と保塁の間には塹壕がつくられた
旅順要塞はブリアルモン式要塞である
ロシア人は巨大兵舎を保塁に併設した
保塁がなくとも塹壕だけで防衛側は粘ることができた
塹壕戦は兵士の一定の死を計算に入れていた
[ケース1]ブレプナ攻防戦(一八七七年/露土戦争
第一回攻撃
第二回攻撃
第三回攻撃
プレブナの戦訓
第2章 歩兵の突撃だけが要塞を落とせる
ボーバンの「攻囲論」は日露戦争より二百年も前のもの
ボーバンは城塞を攻略する方法を発見した
近代要塞は一カ所を突破しても攻略できない
奇襲性を確保せよ
独創的な乃木司令部の突撃壕
塹壕戦における攻撃側の困難
野砲の速射性を向上させた駐退機の発明
砲撃だけでは塹壕戦に勝利できない
歩兵の突撃が、塹壕を突破できる唯一の方法だった
さらにいったん突破しても、突破点を保持できなかった
犠牲覚悟の「横隊戦術」が攻撃の主流だった
敵の出撃を待つという方法
[ケース2] ブルゼミスル攻囲戦(一九一四-一五年/第一次世界大戦
五ヵ月の包囲に耐え、最後全員出撃を敢行し自滅した
オーストリア軍十一万人が降伏した
第3章 要塞は攻略されねばならない
要塞攻略か艦隊撃滅か?
ステッセルバルチック艦隊の到着を待とうとした
ロシア軍と清国軍の防衛思想の違い
日本軍は一貫して旅順攻略のため戦った
日本の無名戦士が最終的に旅順を陥落させた
中途半端な策は、何もしないより悪い
戦略は軍事的合理性だけで決定することはできない
「消耗させる」という戦法
日露両軍とも国際法を遵守しながら戦った
[ケース3] ベルダン攻防戦(一九一六年/第一次世界大戦
目的はフランス軍将兵を消耗させること
フランス軍ファルケンハイン参謀総長のワナにはまった
戦線はあまり動かす、両軍ともただ大璽の損害を出した
消耗戦では、どこを占領するとか攻撃するとかは重要ではない
ドイツ軍は敗北した
第4章 失敗の原因は乃木司令部だけにあるのではない
旅順攻略のため第三軍が編成された
誰もが旅順要塞を過小評価した
出撃しないというステッセルの決心
艦砲による陸上への掩護射撃
強襲による要塞攻略で合意が成立した
「怪弾」二発が勝敗を決めた黄海海戦
バルチック艦隊の極東派遣が決定された
第一防衛線を一挙攻略する策案
大損害をこうむり第一回総攻撃は失敗した
攻撃失敗の原因は乃木司令部だけにあるのではない
攻撃に失敗した軍隊をどう形容すべきなのか
対壕を掘削して戦術の転換を図る
海軍が二〇三高地占領を要求し始めた
第二回戦前哨戦−二〇三高地だけが残った
二八サンチ砲の到着
両軍の被害がついに逆転した
海軍がまた騒ぎ始めた
二〇三高地主攻説は誤りだ
第三回戦作戦計画は折衷案となってしまった
攻撃開始直後から作戦は失敗した
乃木司令部は主攻を二〇三高地へ変換した:
ロシア軍も予備隊を逐次投入し始めた
二〇三高地が決戦場となった
ロシア軍の予備隊は消耗され尽くした
二〇三高地争奪戦は、この戦いで最も両軍に犠牲を強いた
二〇三高地が占領されたあとも戦いは続いた
二竜山そして望台が占領された
明治三八年一月一日、ステッセルは降伏した
第5章 ロシア軍は消耗戦に敗れた
満州軍総司令官クロパトキンと要塞司令官ステッセル
ステッセル将軍の降伏電報
ステッセルは兵員の減耗により降伏することを決心した
食い違うロシア軍の損害
ロシア兵の半数近くが死傷した
短期決戦で旅順を陥落させる方法はなかった
本街道突破をめぐる判断
命令戦法と訓令戦法
白襷隊---当初から作戦は齟齬をきたした
松樹山補備砲台にこだわりすぎた
ETAPEとは
[ケース4]リエージュ攻防戦(一九一四年/第一次世界大戦
ルーデンドルフは保塁の問を抜け、市街地に飛びこんだ
ペルギー軍は要塞からの撤退を決心した
ビッグ・バーサ登場
第6章 旅順艦隊は自沈した
ロシア軍は銃剣突撃に重点を置いていた
ロシア軍は簡単に撃破できる相手ではなかった
ロシア軍は火力を重視しなかった
一世代古いロシア軍のモシン・ガン銃
最新技術を組み合わせた名銃「三十年式歩兵銃」
画期的だった巨大口径臼砲の使用法
有坂が二八サンチ砲の旅順持ちこみを提案した
二八サンチ砲の威力と効果
旅順艦隊は二八サンチ砲で撃沈されたのか
旅順艦隊の多くは自沈または自爆だった
二〇三高地占領前に旅順艦隊は破壊されていた
[ケース5]ノボゲオルギエウスク要塞攻囲戦(一九一五年/第一次世界大戦
要塞攻略の切り札「ビッグ・バーサ」を投入した
砲弾が保塁に命中するとロシア兵はなだれをうつて降伏した
第7章 軍司令官の評価はどうあるべきか
旅順攻防戦は日本の零敗ではない
「機密日露戦史」は客観的戦史とはいえない
参謀本部は旅順要塞を簡単に攻略できると誤判断した
旅順艦隊の追い出しに成功した
重要なのはどこを攻めるかではなく、どれだけ敵を減耗できるか
二〇三高地争奪戦が決戦となった理由とは
旅順攻防戦が日露戦争の大勢を決めた
旅順要塞陥落により「血の日曜日事件」が起きた
旅順陥落はロシアが太平洋国家となる夢を断念させた
普通、勝利した将軍が有能とみなされる
乃木は戦術を転換させ、成功した
消耗戦は味方も犠牲をはらう
乃木は無能ではなかった
あとがき
主要参考文献