タタール人の砂漠 - ディーノ・ブッツァーティ

 希望の控えの間
 イェフゲニア・クラスノヴァにとって、一人の人は一冊の本しか愛せない。多くても数冊までだ。それ以上は乱交の一種だ。本を商品として語る連中はまがいものだ。やたらとお友だちを増やしたがる連中は浅い付き合いしかできないのと同じである。好きになった小説は友だちに似ている。読み、読み返し、いっそうよく知るようになる。友だちと同じように、相手のあるがままを受け入れられるようになり、それはいいとか、あれはいけないとか考えなくなる。
 モンテーニュが、「どうして」あなたは作家のエティエンヌ・ドーラ・ボエティと友だちなんですかと聞かれた。カクテル・パーティなんかでありがちな質問で、なんだかあなたなら答えを知っているはずだとか、そもそも答えがあってしかるべきだとか思ってそうな質問だ。モンテーニュはそういうとき、決まってこう答えていた。「Parce que c'était lui, parce que c'était moi」(彼が彼で私が私だから)
 それと同じように、イェフゲニアは本を一冊だけ好きになった。「その本がその本で私が私だから」。イェフゲニアはあるとき、学校で先生をボイコットしてしまった。彼女のルールを破って、その本を分析したからだ。友だちについて誰かがあれこれ分析し始めたら、黙ってはいられない。彼女はとても頑固な生徒だった。

 彼女の友だちだった本はディーノ・ブッツァーティの『タタール人の砂漠』だった。彼女が子どものころ、イタリアとフランスで有名だった本だ。おかしなことに、アメリカでは彼女の知り合いは誰もこの本のことを知らなかった。英語のタイトルは『The Desert of the Tartars』ではなく『The Tartar Steppeタタールの草原)』と誤訳されている。
 イェフゲニアが『砂漠』に出合ったのは一三歳のときだ。パリから二〇〇キロの小さな村にあった両親の週末用の別荘で、そこにはロシア語とフランス語の本が膨大にあった。本をパンパンに詰め込んだパリのアパートと違って、こちらには場所の制約がなかった。田舎は退屈すぎて本を読む気さえ起こらなかった。そしてある午後、彼女はこの本を開き、引き込まれたのだった。


 希望に酔う
 ジョヴァンニ・ドローゴの前途は有望だ。下級将校の位で士官学校を出て、活動的な生活がまさに始まろうというところだ。でも、思っていたとおりにものごとは進まない。彼の最初の任務は、辺境の前哨基地であるバスティアーニ砦で、四年の間、国境の砂漠から侵入してくるおそれのあるタタール人から国家を守ることだ。あまり嬉しい任務とはいえない。
 砦は町から馬で数日のところにある。まわりには本当に何もない。彼ぐらいの歳の男が望むような浮世の楽しみは何一つない。ドローゴは、辺境での任務は一時的なもので、もっと魅力的な任務に就くには、その前にこういうこともやらないといけないんだろうぐらいに思っている。そのうち、完璧にアイロンのあたった制服でたくましい肉体を包んで町に戻れば、どんな女性も彼の魅力にイチコロだろう。
 こんな懲罰房みたいなところでドローゴはどうしたか? 彼は抜け道を見つけた。これを使えばたった四ヵ月で転勤できる。彼はこの抜け道を使うことにする。
 ところが、最後の最後になって、ドローゴは医局の窓から砂漠を見て、もうしばらくそこにいることに決めた。砦の防壁に感じる何かや沈黙の風景が彼を陥れる。砦の魔力に取り憑かれ、侵略者を待ち、残忍なタタール人との大きな戦いを繰り広げることが、ドローゴのただ一つの生きがいになった。
 案の定、ドローゴは赴任を延長し続けて残りの人生を過ごす。町での生活を始めるのはどんどん先延ばしになる。三五年間純粋な希望だけで、いつの日か、人間が越えたことのないあの遠い丘を越えて侵略者が現れ、それに立ち向かうべく立ち上がるという思いにすがって過ごすのだ。
 小説の終わりに、ドローゴは宿屋のベッドで死を迎える。ちょうどそのとき、彼が生涯待ち続けていた事件が起こる。でも、事件は間に合わなかった。


 予感の甘い罠
 イェフゲニアは『砂漠』を何度も何度も読んだ。原語で読めるように、イタリア語まで勉強した(し、たぶんイタリア人と結婚もした)。でも彼女には、悲しい終わりを読み直す心の強さはなかった。
 私は黒い白鳥を、外れ値であり、予想されずに起こる重要な事象だと書いた。でも、逆を考えてほしい。あなたが心から起こってほしいと願う、期待されていない事象だ。ドローゴはありそうもない事象が起こる可能性に取り憑かれ、ものが見えなくなっている。ありそうもない出来事こそが彼の生きる意味なのだ。この本と出合った一三歳のときのイェフゲニアは知るよしもないが、彼女自身が生涯ジョヴァンニ・ドローゴを演じ続けることになる。希望の控えの間で大きな事件が起こるのを待ち、そのために犠牲を払い、どこかで見切りをつけて出直すのをかたくなに拒否する。
 彼女は予感の甘い罠にはまるのを気にしなかった。彼女にとってそういう人生は十分に生きる価値があった。目的が一つしかない、吹っ切れた単純な人生は十分に生きる価値があった。実際、「待っているうちが花」ということもある。成功という黒い白鳥が訪れるまでのほうが、訪れてからよりも、彼女は幸せだったかもしれない。
 黒い白鳥の特徴の一つに、結果が正か負に偏って非対称だという点がある。ドローゴの場合、結果は、ランダムに分布した栄光の数時間を希望の控えの問でずっと待ち続けた三五年間だった。そして彼は栄光を取り逃がした。


 バスティアーニ砦が必要なとき
 ドローゴの付き合いの輪の中には義理の弟なんかいないことに注意してほしい。一緒に使命を果たす仲間がいた点で、彼は運がいい。彼は、一緒に砂漠の入り口で一心に地平線を見つめ続けるコミュニティの一員だった。ドローゴには付き合う同僚がいて、一方コミュニティの外にいる人たちとの社会的接触がないという有利なところがあった。私たちは地域の動物であり、遠く離れたところにいる人たちが私たちをマヌケどもなんて思っていたとしても、私たちが興味を持つのは身近な周囲だ。遠いところの人類なんて抽象的で実感がないし、エレベータで出くわしたり目が合ったりしないわけだから、ほとんど気にしない。そんな私たちの浅はかさは、私たちのためになることもある。
 人間、一人じゃ生きていけないなんて陳腐な言い草かもしれないが、実際、自分で思っているよりも私たちには他人が必要なのだ。とくに尊厳や敬意という点て必要なのである。実際、まわりから認められることなく、何か大きなことを成し遂げた人は歴史上ほとんどいない。でも、私たちはまわりの人間を選ぶ自由がある。
 思想史を見ると、ときどき新しい思想を持った流派が生まれ、流派の外ではウケない常軌を逸した業績を残している。ストア派アカデメイア派の懐疑主義犬儒派ピュロン派の懐疑主義エッセネ派シュールレアリスト、ダダイストアナーキスト、ヒッピー、原理主義者、そういう人たちのことは耳にしているかもしれない。報われる可能性がとても低い、とっぴな考えを持った人でも、流派があれば、仲間を見つけて閉じた小さな世界をつくり、外部の攻撃から身を守れる。そんなクループのメンバーはまとめて村八分にされるかもしれない。でも、一人っきりで村八分になるよりはましだ。
 黒い白鳥に左右される営みに手を出すなら、お仲間がいたほうがいいのである。


タタール人の砂漠 (イタリア叢書)

タタール人の砂漠 (イタリア叢書)