裸でも生きる2 Keep Walking私は歩き続ける - 山口絵理子

プロローグ それがすべての始まりだった


 私は、株式会社マザーハウスという会社の代表取締役社長兼デザイナーをしている。2006年3月、24歳の時、
「途上国から世界に通用するブランドをつくる」
 という理念のもと、現在バングラデシュという「アジア最貧国」の自前工場で、レディース&メンズのバッグを生産し販売。
 さらに、日本において直営店を6店舗展開し、バッグの販売を行っている。


 しかし、もともと起業するつもりなんてまったくなかった。むしろ、以前の私は、どこかビジネスの世界を毛嫌いしているところがあった。
 というのも、私は小学校の頃、ひどいいじめに遭い、学校に行くのが少し困難な時代があった。当時は、子どもながらに、
「学校はもっと楽しいもののはずだ。将来は教育という分野で何かしたいなぁ」
 と思っていた。
 しかし、中学校に入ると、いじめられていた反動で今度は非行にはしり、その延長線上で強くなりたいという衝動が芽生えて、「柔道」というスポーツにのめり込むようになった。
 高校進学にあたっては、さらにもっと強くなりたいと、地元埼玉で「男子柔道」の超名門、大宮工業高校を選び、初めての女子柔道部員となった。365日柔道だらけの日々は辛かったが、ケガを乗り越え、高校3年生の時には全日本ジュニアオリンピックで7位入賞を果たすことができた。
 そして、それを最後に柔道を辞め、「もう少し勉強がしてみたい」と自分なりに頑張って受験勉強を始めた。


 偏差値40にも満たない工業高校で、毎日ジャージ姿で過ごしていたため、一体どこの大学がいいのか分からなかったが、3ヵ月の猛勉強のかいあって慶應大学総合政策学部に入学することができた。
 大学に入ると、みんなめちゃくちゃ頭がいいのにびっくりした。コンプレックスだらけの中、授業についていくのがやっとの私。
 しかし、机に向かって勉強するという経験はそれだけで新鮮だったし、同時に学問の世界にも惹かれていった。そんな中、「教育」に対する想いを改めて再確認しながら、大学2年生の授業で「開発経済学」という学問と出会った。
 それまでの私は、「日本」のことしか頭になかった。
 しかし、「教育」が本当に必要とされているのは、実は日本ではなく貧しい国々であり、学校に行きたいけれど行けない子どもたちが、世界にはたくさんいるんだと初めて知ったのだった。
 それから経済の発展理論や貿易理論、難しそうな文献を読みながら、そうした国々のために働きたいと思うようになった。
 そんな大学4年生のある日、大学の先輩が、
「こんなものがあるから、受けてみなよ」
 と教えてくれたのが、アメリカにある「米州開発銀行(IDB)」のインターン募集だった。
米州開発銀行、ワシントン……」
 当時は英語すらまともにできなかったし、主に大学院生を対象にしていたものだったが、私には失うものなんて何もない"だめもと"でチャレンジしたところ、4回の面接をへて、運良く合格してしまったのだ。


 2003年の夏。
 初めてのアメリカ。ワシントンに渡った。
「うわぁ。これが米州開発銀行かぁ!」
 多くの国の国旗がゆらゆら揺れる、天井の高いゴージャスなビル。絨毯はふかふかで、上の階に上れば上るほど、壁に著名な画家の描いた油絵が至るところに飾られていた。
「すごいすごいすごーい!」
 興奮気味に私は、予算戦略本部という部署で、初日の勤務を始めた。
 まわりには、5カ国語くらい話せる優秀な人たちしかいない。みんな必ず修士号は持っているし、ダブルで博士号を持っている人たちもいた。
 圧倒されっぱなしの日々だった。私にとってはエクセルの数字を入力する作業さえうれしくて、ワクワクしたのを昨日のように覚えている。
 けれど、仕事に慣れていくにつれ、一つの疑問が芽生えた。
「こんなに大きな額の途上国への援助が、本当に求める人たちの手に届いているのだろうか。届いているとしたら、どれくらいの人を幸せにしているんだろう?」
 素朴な疑問だが、私には大事な疑問だった。
 そして、誰に聞いてもなかなか分からなかったのだ。国際機関の人たちは、自ら現場に行って現地の人の声を聞く作業よりは、本部にいて政策を作るのが仕事だと認識していた。
「現場に行ってないのに、どうしていい政策が作れるんだろう」
 疑問は時が経って解消するどころか、日に日にむくむく大きくなっていった。そして、同時にあることにも気づいた。
「私だって途上国に行ったことがないくせに、こんなところにいるじゃない。自分の目で見てみなきゃいけないんだ。
 今の私に必要なのは、ここで書類を作ることじゃない。うん。見なきやいけない!でも、どこに行けばいいのかなあ」
 どうせ行くなら、アジアで一番貧しい国に行ってみたい。
 そこで、インターネットで「アジア 最貧国」と検索をかけてみると、「バングラデシュ」という名前が出てきた。いかにも「途上国っぽい」イメージの写真からは、その国の音も匂いも人々も、まったく想像できない。それでも私はチケットをとって、現地に行くことにしたのだ。
 そして、降り立ったバングラデシュ
 首都ダッカのジア空港で感じた臭いは、それまでの人生で嗅いだことのないものだった。ゲートの前にいた人々も、それまでの人生で見てきたのとは、まったく異なる人たちだった。私がゲートを出ると、4、5人が一気に押し寄せ、子どもが服を引っぱりながら、
「お金ちょうだい!」
 という。
「あの援助はどこに行ったんだ?」
 これがすべての始まりだった。


 現場をもっと知らなきゃいけないという使命感のもと、バングラデシュのBRAC大学大学院に初めての外国人学生として入学し、2004年から2年間バングラデシュで一人暮らしを始めた。
 そうして実際にバングラデシュで暮らしてみると、やはり援助が一部の政治家のポケットに入り、求める人たちにはほとんど届いていない現実を知った。
 日々繰り返されるストライキも、一部の人たちの利権争いのために行われ、テロ事件では、罪のない人々を自分の利権のためにテロに参加させ、私は犠牲者を生む政治家を心の底から憎んだ。
 洪水では何千人もの命が、水とともに流された。
 賄賂は日常茶飯事。私は一市民として政治に振りまわされるうちに、現場を見てから国際機関に戻ろうという気持ちを失っていった。
「じゃあ、私が進むべき道とはいったいなんだろう」
 そんな疑問を自分自身にぶつけるようになった。
「どうしたら、いいんだろう」
 毎日毎日そればかり考えていた。そして、頭がおかしくなりそうなくらいに悩みながら、ふと、腐った政治がある一方で、民間の経済活動はどのように行われているんだろう、と思った。
 そこで、現地の日系企業の事務所にインターンとして入ることにした。
 そこで出会った所長からは本当に多くのことを教えてもらった。
 バングラデシュという国は、主に「ジュート」(麻の一種)を世界中に輸出していた。ジュートは、バングラデシュが世界の輸出量の90パーセントを占める天然繊維。さらに光合成の過程で綿などの5倍から6倍の二酸化炭素を吸収し、廃棄しても完全に土に還るなど、非常に環境に優しい素材であるという。
 ある日、所長にこの国から何が輸出できるか、商材を見つけてこいと言われ、ある見本市で、現在私の会社でバッグの素材として使用している、このジュートと出会ったのだった。


 私は現地語を話しながら、工員たちと一緒に働くようになった。
 途上国の工場は、私たち先進国の人には想像するのが難しいくらい過酷な環境だった。トイレは、行きたくてもゼッタイ行きたくないと思うくらい汚く、ドアにもちゃんと鍵がかからない。女子トイレと男子トイレも分かれていない。
 ものすごい猛暑だが、冷房なんてもちろんなく、古い機械が発する大きな音に囲まれ、工員たちはうつむいて一言も話さず、コーヒー豆を入れる袋のようなものを作っている。
 時々来るバイヤーは、工場内を我が物顔で歩き回っては、すぐに去っていく。
 非人間的な「大量生産」工場を絵に描いたような工場だった。
 工場長は、毎日コンテナいっぱいに輸出しているんだと豪語していたが、その中身といえば、「原料」に限りなく近いだけの工業資材としてのジュートだった。
 しかし、この工場で私が目にしたのは悪いものばかりではなかった。同じテーブルで時間を過ごすうちに思った。
 「この人たちは、1セントでも安く、1日でも早く輸出することに全力を注いでいる。"中国の何分の一の値段でできるんだ?"というバイヤーの非情な求めに応じながら。
 けれど、この人たちが作れるモノって、本当にこれが限界なんだろうか。チャンスさえあれば、もっとできる。もっと大きな可能性があるんじゃないか」
 ホコリと騒音にまみれた工場の一室で、そんな大きな可能性を感じ、希望の光を見たのだった。
 もちろんまわりには、ベンガル人の工員しかいない。それは自分の胸の中だけにはじけた、夢の種のような感覚だった。


裸でも生きる2 Keep Walking私は歩き続ける (講談社BIZ)

裸でも生きる2 Keep Walking私は歩き続ける (講談社BIZ)

プロローグ それがすべての始まりだった


第1章 情熱の先にあるもの
直営第1号店オープン
『裸でも生きる』
情熱大陸
自分との葛藤
マザーハウス式店舗展開
マザーハウス式社会貢献事業
夢の百貨店
第2章 バングラデシュ、試練をバネにして
突然の退去通告
どうしても守りたいもの
劣悪な移転先
ハシナのピーナッツ
ローシャンが辞めた日
バングラで最高の工場をめざして
第3章 チームマザーハウスの仲間たち
デザイナーとしての自分を操る
通販生活』とのコラボレーション
「チームマザーハウス
やりたいことが分からない人へ
「資本主義」をポジティブにとらえる
HISのバングラデシュ・ツアー
第4章 そして第2の国ネパールへ
ネパールへの旅立ち
ネパールの混乱した現実
私は私の哲学に固執したい
ダッカ織りとの出会い
やはりバッグで勝負したい
第5章 ネパール、絶望と再生の果てに
ネパールのバッグ提携工場
前払いできるか、とビルマニは言った
ネパールでの本当の戦い
ラトナ工場との絆
ビルマニのたくらみ
そして扉は閉ざされた
脅迫電話
神様はどんな決断を私に期待するのか
裏切りという結末
再生のためのインド
歩きつづけるための選択


エピローグ Keep Walking