「ですね」の蔓延

ポール・オースターの『ガラスの街』(柴田元幸訳)を読んでいたら、小生の嫌いな文中の「ですね」が登場し思わずムッとした。

「いいですか、私はですね、仕事の枠を限定する必要を悟ったのです。すべての結果が決定的なものとなるよう、十分小さな領域のなかで作業を進めることが肝要なのです」

123頁


原文は次の通り。

"You see, I've understood the need to limit myself. To work within a terrain small enough to make all results conclusive."


原文を見る限り、「私は」の後に「ですね」をつける必要など私はつゆほども悟ることができなかった。しかも、このセリフを発したのは、言葉に鋭敏な感覚を持つスティルマン(父)だ。スティルマンとはどういう人物か。主人公の名前("Quinn")を聞くや否や、それと似た響きの言葉("twin" 双子, "sin" 罪, "in" 中に, "inn" 宿屋, "quintessence of quiddity" 本質の精髄, "quick" すばやい, "quill" 羽ペン, "quack" ガーガー鳴く, "quirk" 奇癖, "grin" ニタリ笑い, "kin" 血縁, "win" 勝つ, "fin" 鰭, "din" 騒音, "gin" ジン, "pin" ピン, "tin" 錫, "bin" 大型容器, "djinn" 魔神, "been" be動詞の現在分詞)を即座に列挙するほどの人物だ。もしスティルマンが日本語で会話するならば、「わたしはですね」などと絶対に口にしないはずだ。断言してもいい。