告白 - 湊かなえ

なぜこんな本が「このミステリーがすごい2008」の第1位になっているのだろう。

全ては作家の頭のなかで考えられたお遊びにすぎない、としか思えない。

この作品を映画化した中島哲也監督がインタビューで「とにかくおもしろかったですね」と言っているのが信じられない。どのあたりがおもしろいのか。この小説からなんの得るところがあるのか。不思議で仕方ない。

こんな声も聞く。「本書は第一章を単体で見れば、見事な短編である」。小生に言わせれば、第一章の冒頭からとても退屈な語り口であり先に先に読み進めようという気にさせないのに、なにが見事な短編か、となる。本書が「このミス」の第1位でなかったら読まなかっただろう。

主要人物の中学生(下村直樹、渡辺修哉、北原美月)は、中1生としてのリアリティがまったく感じられなかった。いずれも、思考力の点でも言葉の選び方の点でも、世間一般の中1生よりレベルが遙かに上なのだ。たとえば、直樹は「所詮、大人は大人のものさしでしか、子どもの世界をはかることができないのだ」と書く。これは中1生の思考と言えるだろうか。たとえば、修哉は生母のことを「彼女」と言及しているが、これは中1生の言葉使いだろうか。たとえば、美月は「私には修哉くんが、愚かな民衆に冒涜される聖者のように見えました」と書いた。これを中1生の仕業と言えるだろうか。

また、直樹についていえば、性に対する興味がなさ過ぎる点で不自然だった。ただ性については女性作家が男を描くが故のことかもしれない。

3名の生徒はいずれも腐った思考の持ち主だ。そして、登場する大人も同じだ。(元)担任の森口悠子も、直樹の母親も、修哉の生母も、腐っている。
主要な登場人物の中にまともな人物はほとんど見つからない。

以下、章別に感想を箇条書きする。

第一章
  • とても、生徒を前にして話をしている語り口とは思えない。のっけから不自然きわまりない。
  • 途中で差し挟まれる呼びかけ(田中さん、小川さん、前川さん、阿部くん、長谷川くん、井坂さん、浜崎さん、内藤さん、松川さん、星野くん、西尾くん)には何か意味があるのだろうか。みんなを前に話している場面の演出にしては稚拙すぎないだろうか。
  • 性交でHIVに感染する確率を敢えて伏せているのは、作家の「読者に自分で調べてもらいたい」との願いなのだろうか。ちなみに http://aids-hiv.jp によれば、「性的接触1回当りのHIVの感染率は0.67%程度」だそうだ。
第三章
  • 章末にある「でも、それをするのは弟の本心を確認してからだ」の記述は何かの伏線にするつもりではなかったのか。読み終わってみればどこにもこの部分に対応する内容が書かれていない。下村聖美は果たして何かをなしたのか、が謎のままだ。
第四章
  • 3月〜7月まで、直樹はろくに調べもせず自分のことをHIV感染者だと思い込んでいた。インターネットが利用できる環境にいながら、血液を経口摂取した場合の感染率をインターネットでまっさきに調べもしない。この点が不思議でならない。
  • 森口が話した「握手、せきやくしゃみ、入浴やプール、食器の共用、蚊やペット、そういったものから感染することはありません」という内容を直樹は聞いていなかったのか、と不思議に思った。それとも動揺していて聞き逃したという設定なのだろうか。
  • 「上手に育ててあげられなくて、ごめんね。失敗してごめんね」と母親が直樹に言う場面の「失敗してごめんね」がどう読んでも不自然で仕方ない。こんなところで「失敗して」なんて言葉は使わないだろう。
  • 本章末も尻切れトンボ感を否めない。「だとすれば、これは夢なのか・・・・・・。」「それなら、早く目を覚まして、母さんの作ったベーコン入りのスクランブルエッグを食べて、学校に行こう」と結ばれている。この箇所は直樹が多重人格者になったのか?と思わせるが、この続きはその後現れないのだ。
第五章
  • 修哉の生母が別れ際に贈った本には何か伏線があったのか。なぜここで作家名を具体的に「ドストエフスキーツルゲーネフカミュ」と挙げる必要があったのか。そもそも本を贈る場面は必要だったのか不思議だ。
全般
  • 直樹は「泥沼」の比喩を使い、修哉は「シャボン玉」の比喩を使った。中学生が文を書くとき比喩を用いるだろうか。文才のあった修哉はともかく、直樹は本が好きなそぶりなど全く見せてないのだ。

第一章 聖職者 森口悠子
第二章 殉教者 寺田良輝
第三章 慈愛者 下村聖美(母親の日記を引用)
第四章 求道者 下村直樹
第五章 信奉者 渡辺修哉
第六章 伝道者 森口悠子

告白 (双葉文庫) (双葉文庫 み 21-1)

告白 (双葉文庫) (双葉文庫 み 21-1)