しつつある

伊藤整の書いた「翻訳の研究」という文章がある。

 その上に英語を習得するときに日本語を英語の文脈に宛てはめて理解していた我々には英語の文脈そのものが非常に親しみのあるものとなり、......英語を理解するときの思考法を直接日本文として書き記す習慣が生じて来た。これは実に重大な変化である。今までの日本文とは別に、またはそれと並行して翻訳上の日本文が生じてきたのである。つまり英語教育の上で理解を助けるために仮に使用する日本文、「あなたが昨日逢ったところの男は私の弟です」、「横浜へ行かんとしつつある」、「この文章が意味するところのものそれは重大である」というような文章が、あまり不思議だという観念を人に与えなくなって来ている。場合によっては翻訳を、そういう文体でする方が原文の味を良く生かすことができて便利でもあるのである。


翻訳家の別宮貞徳は『裏返し文章講座―翻訳から考える日本語の品格 (ちくま学芸文庫)』の中で上の文章を引き、伊藤整の直訳主義を批判している。

引用文の中にあった「......しつつある」も欧文脈の直訳体です。「英語教育の上で理解を助けるために仮に使用」したというのはたしかにそのとおりです。実は英語が初めて日本に入ってきたときに、それを手っ取り早く理解するために、昔から行われていた漢文の返り点方式の読みを踏襲したんですね。文を構成する単語一つ一つ番号と意味をつけ番号順に意味を拾っていくと全体の訳が作られるという仕掛けです。(中略)とにかく、語句に逐一日本語の意味をあてていくのが第一に必要な作業です。英語の進行形については、どうでしたか。進行形は be プラス現在分詞でしょう。日本語には昔から「......しつつ」という言い方がありました。それと英語の現在分詞はかなり重なる部分を持っている。そして be は「ある」ですね。そこでその二つをつないで「......しつつある」ができあがったわけ。
 これはかなり日本語として定着しました----ぼくはいまだにきらいですがね。広く人々に使われていて、いわば市民権を得たと考えてもいいかもしれません。それほど日本人に違和感を与えなかったから残ったと言えるでしょう。

(139-140頁)


最近、ダン・ブラウンの『ロスト・シンボル 上』を読んでいたら、この「......しつつある」に出くわした。

キャサリンも <ポッド5> の魅力を理解しつつあった

(上巻 65頁)

Katherine was starting to comprehend the appeal of Pod 5.


小生は別宮氏と同様、この言い回しがきらいなので、越前敏弥氏の翻訳になじめないな、と感じた。