リング - 百田 尚樹

 忘れられない光景がある。
 テレビの前で父と父の友人がわけのわからない声を上げている。ふだんは物静かな二人が怒鳴り声を上げている。異様に興奮した二人の様子が怖かった。白黒テレビの画面で繰り広げられているのはボクシングの試合だった。
 テレビが我が家に来たのは私が小学校一年生の時だから、一九六二年(昭和三十七)だ。そのテレビは父が友人に作ってもらったものだった。その頃、テレビは恐ろしく高くて、貧乏な我が家にはとても買えるものではなかった。父の友人は電器店に勤めていて、ブラウン管と真空管などを組み合わせてテレビを組み立ててくれたのだ。当時はブラウン管を単品で売っていたのだろうか。それにしてもキャビネットはどうしたのだろう。よく覚えていないが、手作りの箱ではなかった。もしかしたらその頃は新品のテレビを買えない人のために、組み立て用のテレビキットのようなものがあったのかもしれない。あるいは中古のキャビネットを再利用したのだろうか。父も友人も亡くなった今はたしかめるすべがない。
 父と友人が熱狂して見ていたのは、ボクシングの試合だった。
 世界フライ級タイトルマッチ、ポーン・キングピッチ対ファイテイング原田の試合は我が家にテレビが来て、まもなくのことだったと記憶している。今、本で調べると、この試合は昭和三十七年十月十日に東京の蔵前国技館で行われている。奇しくも二年後の同じ日に東京オリンピックが開会している。ちなみに「体育の日」という祝日は東京オリンピックの開会式にちなんでできた祝日で、長い間、十月十日だった。
今でも私たち古い世代の人間は十月十日は休日というイメージがある。
 試合が始まると、父と友人は何度も大きな声を上げた。ふだんは大きな声なんか滅多に出さない二人のそんな様子が驚きだった。
 最初は興味のなかった私もいつしか夢中になって見ていたように思う。しかしどちらが原田なのかわからない。父に聞くと「白いパンツが原田だ」と言った。それで試合中はずっとパンツばかり見ていた。
 試合は突然終わったような印象を受けた。白いパンツの男が黒いパンツの男を端っこに追い詰め、めちゃくちゃに殴りまくると、黒パンツがずるずると座り込んだのだ。
 「やった!」
 父と友人はものすごい大きな声を出した。私は黒パンツが座り込んだことよりも二人の大声にびっくりした。
 「世界チャンピオンや!」
 父と友人は何度もその言葉を□にしていた。小学校一年生の私にとって、「世界チャンピオン」の意味も価値もよくわからない。ただ日本人が「世界一」になったのだなということだけはわかった。
 今なら、それがどれほどすごいことだったのかがわかる。当時の新聞を読み直すと、日本中がこの勝利に熱狂した様子が見て取れる。原田の世界タイトル奪取は本当に大変なことだったのだ。
 ボクシングファンなら誰でも知っていることだが、現在と昔ではボクシングの世界チャンピオンの価値がまったく違う。
 当時のチャンピオンは世界にわずか八人しかいなかった。つまり八つの階級に、それぞれひとりずつ王者が君臨していたのだ。ちなみに現在は十七階級、しかもチャンピオン認定団体も増えて、WBA、WBC、IBF、WBOの主要四団体がそれぞれチャンピオンを認めていて、その総計は六十人を優に超える。中には複数の団体に認められた統一チャンピオンもいるが、一方で暫定チャンピオンとかいう存在もあって、わけがわからない。とにかく世界チャンピオンが六十人以上もいるなんて、どこが世界チャンピオンなのだ! と言いたくなるが、それはともかく一九六二年当時の世界チャンピオンというのは現代とは比べものにならないほどの重みと価値があった。
 しかし当時の日本人を熱狂させたのは単に原田がチャンピオンになったからだけではない。このタイトルを奪い返すことが多くの日本人ファンの悲願だったからだ。皆がこの日を長い間待ち望んでいたのだ。一九五四年(昭和二十九)に日本人初の世界チャンピオンであった白井義男がタイトルを失ってから、八年の歳月が流れていた。
 一九五二年、白井義男がこのタイトルを獲得した時、日本人は敗戦によって失われていた自信と誇りを取り戻した。白井こそは日本人の希望の星であり、そのタイトルは一人白井だけのものではなく、日本人が自分たちのタイトルと思っていた。この当時の日本人にとって「世界フライ級チャンピオン」というタイトルは、単なる一スポーツのタイトルではなかった。日本人が世界に胸を張って誇れる「偉大な何か」だったのだ。二年後、白井がタイトルを失うと、多くの日本人がそれを自らの悲しみとした。
 以来、このタイトルの奪回は、国民の悲願となった。多くの才能ある日本人ボクサーがその期待を背負って、世界タイトルに挑み続けたが、誰もそれを奪うことはできなかった。何と八年もの長き時間にわたって、「世界」は彼らを跳ね返し続けてきた。日本人はあらためてその壁の巨大さを知った。そしてあらためて白井の凄さを知った。もはや第二の白井は出ないのか----そんな諦めにも似た思いが覆いかけた時、突如、十九歳の若武者が現れ、「世界」を奪回したのだ。
 ファイティング原田こと原田政彦は一夜にしてスーパースターとなった。


リング

リング

第1章 日本ボクシングの夜明け
第2章 ホープたちの季節
第3章 切り札の決断
第4章 スーパースター
第5章 フライ級三羽烏
第6章 黄金のバンタム
第7章 マルスが去った
第8章 チャンピオンの苦しみ
第9章 「十年」という覚悟