ランドラッシュ - NHK食料危機取材班
プロローグ 農地争奪(ランドラッシュ)時代の幕開け
自動小銃で守られる農地それは、異様な光景だった。
旧ソビエト連邦・ウクライナ。世界一肥沃と言われる大地に恵まれながら、ソ連崩壊後の混乱で、広大な農地が放棄されている。
その農地をイギリス企業が片っぱしから借り集めている、という情報を得て、二〇〇八年の夏、わたしはウクライナへ飛んだ。すでに十二万ヘクタール、東京都の半分以上に当たる土地を確保し、なおも拡大を続けていた。
大地をえぐる大型トラクターが目の前を過ぎ、土煙が立つ。その向こうに現れたのは、迷彩服の兵士だった。肩に自動小銃を掛け、こちらに向かってくる。
なぜ、兵士が?
彼らはイギリス企業が雇った傭兵だった。二十四時間、農地を監視するという。傭兵は、わたしの前を無表情で通り過ぎ、停めてあるジープにもたれた。灰色の瞳で周囲を一瞥し、タバコに火をつける。
「マフィアがやって来てこう言うんです。『農地をよこせ。種もトラクターも全部置いて出ていけ。逆らえば殺す』ってね」
そう語るのは、農地を管理するランドコム社のCEO、リチャード・スピンクスである。イギリス空軍出身という異色の経歴を持つ四十二歳。猛禽類を思わせる鋭い眼だ。
「『出て行け』と言われて、『わかりました』とはいかない。すでに莫大な投資をしてますからね。ほら、あのスプリンクラーだって、何十年も壊れたままだったんです。それをわが社が修理した。マフィアの連中、修理が終わったのを見計らって現れるんですよ」
長さ百メートル近い巨大なスプリンクラーから勢いよく水が飛び出し、乾いた土を湿らせている。
「それで、マフィアにどう答えたんです?」
「こう言ってやりました。『オーケー。話はわかった。だが、投資を無駄にはできない。だから、わたしが先にあなたを殺す。わが社には六十人の傭兵がいるからね。傭兵はあなたの家族のところへも行く。そして、わたしはここでビジネスを続ける』。そしたら、連中はおとなしく帰って行きましたよ」
そう言い終えてスピンクスは、手に入れたばかりの畑の土をつまみ、口に入れた。
「うん、良い土だ」
スピンクスは、イギリス陸軍などから九百人近くの兵士を雇い、ウクライナに連れてきていた。
彼らに大型農機具の操縦を教え、種まきから収穫まで従事させるのだ。
「なぜ軍人を連れてきたんですか?」
「彼らは規律を守りますからね。広大な農地で最大の利益を生み出すには、すべての無駄を省いた営農計画を立て、計画通りに種をまき、肥料を与え、収穫する必要があります。わずかでも時期がずれれば、それだけ収量が滅ってしまう。ここでは、命令を遵守する人材だけが必要なのです」
「ウクライナ人の農民は雇わないのですか?」
そう訊くと、スピンクスは笑った。
「彼らのほとんどはアルコール依存症で、使い物にならない。でも、少しは雇っていますよ。健康な人もいますから。しかし、彼らはよく盗む。種を持ち出したり、燃料をこっそり抜き取って売ってしまう。だから、彼らを監視する必要があります」
ランドコム社は「おとり捜査」を行なっていた。トラクターを運転するウクライナ人にスパイを差し向け、燃料の「横流し」を持ちかける。罠とは知らず、依頼に応じる者もいる。その様子は、同社のセキュリティ担当者により密かにビデオ撮影されていて、従業員は即座にクビ。ちなみに、セキュリティ部門の責任者はロシアの秘密警察出身だ。
ランドコム社は、世界的な穀物価格の高騰を追い風に莫大な利益を上げ、農業ビジネスの成功例として注目を浴びていた。だが、その「優良企業」の現場には、軍人上がりの外国人経営者と、自動小銃で武装した傭兵と、まるで犯罪者のような扱いを受けて働く地元農民の姿があった。
そして、このウクライナでは、ランドコム社のみならず、ヨーロッパを中心とした二十カ国もの企業が農地を次々と獲得していた。
世界中で勃発するランドラッシュわたしがウクライナを訪れた直後、「リーマン・ショック」が発生、世界は金融危機に襲われた。そのために、穀物価格を押し上げる要因のひとつだった投機マネーは一気に縮小する。未曾有の高騰を記録した穀物価格も、落ち着きを取り戻した。
ところが、外国企業によるウクライナ農地の囲い込みは、それでも終わらなかった。さらに、こうした動きは、ウクライナのみならず、世界各地で勃発していたのである。
リーマン・ショックの翌月(二〇〇八年十月)、あるリポートが発表された。
国際的NGO「グレイン」(本部・スペイン)が発表した「二〇〇八年 食料・金融安全保障のための土地争奪」という名のリポートである。冒頭、こう記されている。
「食料危機と金融危機が同時に発生することによって、新しいグローバルな土地争奪が始まった。食料を輸入に頼る国の政府が、食料生産のために海外の広大な農地を手に入れようとしているのだ。一方では、深刻化する金融危機のなかで、企業や投資家が海外農地への投資を重要な収入源と見ている。その結果として、肥沃な農地の私有化と集約化が進んでいる。このグローバルな土地争奪によって、世界各地で、小規模農業と農村の暮らしが姿を消してしまうかも知れない」
グレインは、各国メディアの報道に加えて独自の調査を行ない、世界で進行する農地争奪の実例を百件以上も紹介している。
さらに、翌〇九年四月にはIFPRI(国際食糧政策研究所)が「外国投資家による途上国での農地争奪」というリポートを発表した。
そのなかでIFPRIは、「土地や水が不足し、しかも資金が豊富な食料輸入国、たとえば湾岸諸国は海外農地への投資にもっとも積極的である。また、多くの人口を抱え、食料安全保障の面で懸念を抱える国々も、海外での食料生産のチャンスを欲しがっている」として、サウジアラビア、カタール、リビア、中国、韓国、インドなど二十カ国が食料確保のために広大な農地を海外で入手した、と指摘する。
リポートは「こうした国々の投資の矛先は、生産コストがはるかに安く、土地と水が抱負な途上国に向けられている」とし、スーダン、エチオピア、パキスタン、フィリピン、カンボジア、トルコ、ウクライナなど二十四カ国を挙げている。(八ページから九ページに掲載した地図参照)
食料システム崩壊がもたらした「暴走」なぜ、通常の輸入によって食料を手に入れるのではなく、わざわざ海外の農地を囲い込むのか? それは、「穀物市場システム」への信頼が崩壊してしまったからだ。
実は二〇〇七年〜〇八年の「世界同時食料危機」のとき、世界の穀物の流れに異変が起きていた。通常、小麦や大豆、トウモロコシなどは、「穀物メジャー」と呼ばれる巨大な多国籍商社が生産国から大量に買い集めて、国際市場に供給する。この流れが麻痺したのだ。
「市場の麻痺」をもたらしたのは、穀物生産国の「輸出規制」である。中国、インド、ロシア、ブラジル、アルゼンチンなどが穀物価格高騰の最中、輸出規制をおこなった。主要生産国十七カ国のうち、なんと十カ国が「自由貿易」の建前をかなぐり捨てて、輸出を制限したのだ。
せっかく穀物価格が上がっているのに、なぜ輸出を規制したのか?
自由貿易に任せていれば、高く売れる穀物はどんどん海外に流出する。しかも、国内の食料価格は国際価格に引っ張られて高騰する。これでは、自国の食料供給が不安定に陥りかねない。だから、生産国は輸出規制に走ったのである。
「世界同時食料危機」が起きるまで、穀物市場においては、「自由貿易」は自明のルールであり、空気のような存在だった。同時に、「自由貿易の推進こそが食料の安定供給を保障する」という考え方が支配的だった。
その「信仰」が脆くも崩れたのである。
輸入に頼っていた国々では、ふたたびこのような食料危機が起きたときに備えて、自分たちで食料を確保しようと、おのおのが海外農地の獲得に走り出した。これが「ランドラッシュ」だ。
後の章でも述べるが、韓国はランドラッシュを積極的に進めている国のひとつだ。韓国政府の担当者は、われわれの取材に対してこう明言した。
「ふたたび穀物市場が麻痺した場合、市場を支配してきた穀物メジャーは危機を解消できるでしょうか? われわれの判断では「NO」です。だからこそ、われわれは「海外での直接生産」に取り組むのです」
食料危機解決の特効薬?世界中に広がるランドラッシュに拍車をかけているのが、将来予想される食料不足である。
国連の予測によると、世界の人口は現在の六十八億人から、二〇五〇年には九十億人を超える。
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主要参考資料