不合理だからすべてがうまくいく - ダン・アリエリー

第1章

高い報酬は逆効果

なぜ巨額のボーナスに効果があるとは限らないのか


 あなたは、まるまるとした幸せな、実験用ラットだ。ある日、あなたがわが家と呼んでいる心地よい箱から、手袋をはめた人間の手でそうっとつまみ出され、あまり居心地のよくない、別の箱に移されてしまった。この箱は、迷路になっている。もともと好奇心旺盛なあなたのことだ。ヒゲをぴくつかせながら、箱の中をうろうろし始める。迷路に黒いところと白いところがあるのは、すぐわかった。鼻の向くまま、白いところに行ってみる。何も起こらない。左に曲がって、黒いところに行ってみよう。すると中に入ったとたん、とてもいやな感じのショックが、前足に走った。
 それから一週間というもの、あなたは毎日ちがう迷路に入れられる。迷路によって、危ないところと安全なところ、壁の色、ショックの強さがちがう。軽いショックがかかる部分が、赤く塗られている迷路もある。別の日は、とくにいやなショックがかかる部分に、水玉模様がついていた。安全なところが、白黒の格子模様だった日もある。来る日も来る日も、あなたの仕事は、いちばん安全な道を選んで、ショックを避けながら、迷路を進む方法を学ぶことだ(迷路を安全に進む方法を身につけることで得られる報酬は、ショックを受けずにすむことだ)。あなたはどれくらいうまくやってのけるだろう?
 今から一世紀以上前、心理学者のロバート・ヤークスとジョン・ドッドソンが、この基本的な実験を、形を変えて何度も行なった。そのねらいは、ラットについて、二つのことを調べることにあった。一つは、ラットがどれだけ速く学習できるかということ。もう一つ、もっと重要なのは、ラットにどれくらいの強さのショックを与えれば、速く学習しようとするモチベーション(動機づけ)を高められるかということだ。ショックが強まるにつれて、ラットの学習意欲も高まるだろうことは、容易に想像できる。ショックがごく軽く、時たま痛みのない刺激があるだけでは、やる気は高まらず、ただうろうろするだけだろう。だがショックと不快感が強まるにつれて、まるで敵の砲火を浴びているように感じ、もっと速く学習しなければというモチベーションも高まるはずだと、研究者たちは考えた。この理屈でいくと、ラットの学習速度が最大になるのは、ショックがこの上なく強烈で、ラットがそれを何としても避けたいと思っているときだろう。
 わたしたちはふつう、インセンティブ[モチベーションを高めるための誘因]の大きさと、良い成績をあげる能力との間には、何か関係があるはずだとすぐ決めつける。何かをやり遂げたいという思いが強ければ強いほど、その目標に到達するために、いっそう努力する。そして、この増やした分の労力のおかげで、最終的に目標に近づいていくはずだ。この考え方は、筋が通っているように思える。なにしろ、証券マンや企業の最高経営責任者(CEO)に、べらぼうなボーナスが支給されるのは、この考えあってのことだ。巨額のボーナスを提示すれば、仕事への意欲が飛躍的に高まり、とてつもなく高いレベルの成績を残せるはずだというのだ。
 モチベーションと成績(より一般的には行動)の因果関係について、わたしたちがもっている直感は、現実に即しているものもあれば、てんで的はずれなものもある。じっさい、ヤークスとドッドソンの実験の結果を見てみると、ほとんどの人が予想しそうなものもあれば、そうでないものもあった。ショックがとても弱いとき、ラットはあまりやる気を起こさず、そのため学習速度も遅かった。ショックがそこそこ強くなると、檻のしくみをできるだけ速くつきとめたい、という意欲が高まり、学習するのも速くなった。ここまでの結果は、モチベーションと成績について、わたしたちがふつうもっている直感と、ぴったり合っている。
 だがここからがミソだ。ショックが非常に強くなると、ラットの成績は逆に下がってしまったのだ! もちろん、ラットが何を考えていたのかはわからない。でもたぶんショックがいちばん強かったとき、ラットはショックをおそれるあまり、ほかのことにまったく集中できなかったのだろう。恐怖に身がすくんでしまい、檻のどこが安全で、どこがそうでないかを、ちゃんと覚えられなかった。そのため、自分の置かれている環境がどんなしくみになっているのかを、見抜くことができなかったのだ。

 ヤークスとドッドソンの実験結果を見ると、労働市場における報酬とモチベーション、成績の間の関係は、本当はどうなっているのだろうと考えずにはいられない。なにしろかれらの実験は、インセンティブが諸刃の剣になり得ることを、はっきり証明したのだ。わたしたちはインセンティブをたくさん与えられると、ある点までは学習意欲が高まり、その結果成績も上がっていく。しかしこの点を越えると、やる気が重荷になり、かえって課題に集中してとりくむ妨げになるのだ。これは、だれにとっても望ましくない結果だ。
 もちろん現実世界では、電気ショックがインセンティブとして使われることはまずない。だがモチベーションと成績のこの関係は、報酬が電気ショックを避けることであれ、大金を稼ぐという金銭的なものであれ、どんな種類のモチベーションにもあてはまるのではないだろうか。ヤークスとドッドソンが、ショックの代わりにお金を使っていたら(ラットが、じつはお金を欲しがるものだとして)、こんな結果が出たにちがいない。ボーナスが少ないと、ラットはやる気を起こさず、成績もいまいちだ。ボーナスの水準がそこそこ高くなると、やる気が高まり、成績も上がっていく。ところが、ボーナスの水準がとても高くなると、ラットは「モチベーション過剰」になってしまう。だから、なかなか集中できなくなり、その結果、もっと少ないボーナスをもらうためにがんばっていたときよりも、かえって成績が下がってしまう。
 それなら、ラットの代わりに人間を対象とし、動機づけ要因に電気ショックではなくお金を用いた実験でも、モチベーションと成績の間に、この「逆U字型関係」は見られるだろうか? またより実際的な問題として、社員の成績を高めるために、べらぼうに高額のボーナスを支払うのは、はたしてお金の上手な使い方なのだろうか?

不合理だからすべてがうまくいく―行動経済学で「人を動かす」

不合理だからすべてがうまくいく―行動経済学で「人を動かす」

序 章 先延ばしと治療の副作用からの教訓
第一部 職場での理屈に合わない不合理な行動
第1章 高い報酬は逆効果
なぜ巨額のボーナスに効果があるとは限らないのか
第2章 働くことの意味
レゴが仕事の喜びについて教えてくれること
第3章 イケア効果
なぜわたしたちは自分の作るものを過大評価するのか
第4章 自前主義のバイアス
なぜ「自分」のアイデアは「他人」のアイデアよりいいのか
第5章 報復が正当化されるとき
なぜわたしたちは正義を求めるのか
第二部 家庭での理屈に合わない不合理な行動
第6章 順応について
なぜわたしたちはものごとに慣れるのか
(ただし、いつでもどんなものにも慣れるとは限らない)
第7章 イケてる? イケてない?
順応、同類婚、そして美の市場
第8章 市場が失敗するとき
オンラインデートの例
第9章 感情と共感について
なぜわたしたちは困っている一人は助けるのに、
おおぜいを助けようとはしないのか
第10章 短期的な感情がおよぼす長期的な影響
なぜ悪感情にまかせて行動してはいけないのか
第11章 わたしたちの不合理性が教えてくれること
なぜすべてを検証する必要があるのか
謝 辞

共同研究者

訳者あとがき

参考文献

原 注