バウドリーノ - ウンベルト・エーコ

 「足の置き場を知っているので私が先に行きましょう。あなたは頭上の石をもとに戻してふたをしてください」
 「どうするおつもりですか?」とバウドリーノは尋ねた。
 「降りるのです」とニケタスは言った。「それから、手さぐりで壁龕を探しましょう。そのなかに、松明と火打ち石があるはず」
 「このコンスタンティノープルはなんとすばらしい都だろう、驚きに満ちている」とバウドリーノは螺旋階段を降りながら言った。「この豚どもが跡形もなく破壊してしまうのはなんとも残念だ」
 「この豚ども?」とニケタスは聞き返した。「あなたもそのひとりではないのですか?」
 「私が?」バウドリーノは驚いた。「私はちがう。この服からそう判断されたのでしょうが、これは借り物です。あの連中が市内に入ってきたとき、私はすでに城壁のなかにいました。ところで松明はどこにあるのですか?」
 「あわてなさるな。まだ段がある。あなたはどなたですか、お名前は?」
 「アレッサンドリアのバウドリーノ。アレッサンドリアといってもエジプトではありません。今はチェザレーアと呼ばれる町。いや、もはや名前すらない、コンスタンティノープルのように誰かに燃やされてしまったから。それは向こうの、北の山々と海のあいだにあって、メディオラヌム〔ミラノ〕のそばなのですが、ご存じですか?」
 「メディオラヌムは知っています。かつてその城壁がドイツ人たちの王に破壊されたことがありました。そのあと、わが皇帝(バシレウス)が再建援助のため資金を提供したのです」
 「そのとおり、私はドイツ人たちの皇帝といっしょでした、彼がまだ生きていたときのことです。あなたが彼に出会ったのは、十五年近く前、彼がプロポンティス海〔マルマラ海〕を渡っていたときのことです」
 「フリードリヒ赤髭王(エノバルボ)。きわめて気高く偉大な君主でした。寛容で哀れみ深かったあのお方なら、よもやしますまい、こいつらのようなことは……」
 「都市を征服するとき、あのお方も情け深くはありませんでした」
 ついにふたりは階段の下までたどり着いた。ニケタスが松明を見つけ、ふたりは頭上にそれを掲げて長い通路を進んだ。その先にバウドリーノが見たのは、まさにコンスタンティノープルのはらわただった。そこには、世界最大の教会の下にあって人目に触れることなく、もうひとつの聖堂が広がっていた。柱の森が、まるで無数の木々が水面から突き出る湖底の森のように、闇のなかに溶けこんでいた。聖堂か修道院付属教会が、ちょうどさかさまにされたようなものだった。柱頭が、かすかな光を浴びて、きわめて高い天井の影にぼんやりと浮かびあがっていたが、それは光源が、薔薇窓やステンドグラスではなく、ふたりの訪問者の松明を反射する水につかった床だったからである。
 「町を貯水槽が貫通しています」とニケタスが言った。「コンスタンティノープルの庭園は自然の恵みによってできたものではなく、技術の産物なのです。だがごらんなさい、水位が膝までしかない。火事を消すためにほとんどすべてが使われてしまったのです。もし征服者たちが水道も破壊すれば、みな喉の渇きで死ぬでしょう。通常ここは、歩いて進むことはできません。船が必要です」
 「では、この通路は港に通じているのですか?」
 「いや、ずっと手前で終わっていますが、私は、ほかの貯水槽、ほかの地下道につながる通路と階段を知っています。したがって、ネオリオン港までではなくても、プロスフォリオン港までなら地下を歩いて行けるのです。しかし」と悩ましげに、まるで、そのときになって初めて用事を思い出したかのように言った。「私はあなたといっしょには行けません。道は教えますが、私は引き返さねばならない。家族を救わねばなりません。家族は聖エイレネ教会の裏手の小さな家に隠れているのです。ご存じのように」と釈明するように言った。「私の館は二番目の火事で焼かれました、八月の火事で……」
 「ニケタス殿、あなたは狂っています。まず第一に、こんなところまで私を連れてきて、しかも私の馬を捨てさせたのですよ。私はあなたがいなくても表を歩いてネオリオン港まで行けたのにです。 第二に、さっきのふたりのような兵士にまたつかまることなく、あなたはご家族のもとにたどり着けるとお思いなのですか? もしそれがうまくいったとしても、そのあとどうするおつもりか? 遅かれ早かれ、誰かに見つかるでしょう。もし家族を連れて逃げるつもりなら、いったいどこに行くのです?」
 「セリンブリア〔コンスタンティノープルから西方約五十キロの町。現シリウリ〕に友人がいるのです」とニケタスは困惑したように言った。
 「それがどこか存じませぬが、そこにたどり着く前にあなたは町を出なければならないでしょう。よく聞いてください。あなたがいてもご家族には何の役にも立たない。ところが私があなたを連れてゆくところにはジェノヴァ人がいます。彼らはこの町で、天気がよくても悪くても、サラセン人やユダヤ人、修道士や帝国守備隊、ペルシャ商人、今日ではラテン人巡礼者との交渉に慣れています。抜け目ない人々ですから、家族の居場所を彼らに言えば、明日には私たちのいるところにご家族を連れてきてくれるでしょう。どのようにかはわかりませんが、やってくれるはずです。どんなことがあっても、古い友人である私のために、そして神の愛のために、やってくれるはずですが、彼らがジェノヴァ人であることに変わりないので、何か贈り物をすればさらによいでしょう。それから、事態が落ち着くまで、そこにいることにしましょう。通常、略奪は数日しか続きません。何度もそれを見てきた私を信じてください。そのあとで、セリンブリアなりどこなり、お行きなさい」
 ニケタスは納得して感謝の言葉を述べた。歩きながら、バウドリーノに、ラテン人巡礼者でなければなぜ市内にいたのかと尋ねた。
 「私が着いたとき、ラテン人はすでに対岸に上陸していたのです。私には何人か連れがいましたが……今はもういません。私たちは、とても遠いところからやって来たのです」
 「なぜあなたがたは、余裕のあるうちに町を去らなかったのですか?」 バウドリーノは答えようとして躊躇した。 「なぜなら……なぜなら、あることを知りたくてここに残らねばならなかったのです」
 「それがわかりましたか?」
 「残念ながらわかりました。今日になって初めて」
 「もうひとつ質問があります。なぜあなたは、私のためにここまで骨を折ってくれるのですか?」
 「良きキリスト教徒にほかにどうしろと? でも、あなたの疑問はもっともです。あのふたりからあなたを解放して、あなたの好きなように逃げてもらうこともできました。ところが私ときたら、蛭のようにあなたにしがみついたままだ。よろしいですか、ニケタス殿、私はあなたが、フライジングのオットー司教のように、歴史の著述家のひとりだと知っています。しかし私が生前に彼と知り合ったとき、私はまだ少年だったので、自らが語るべき歴史はもっておらず、他人の書いた歴史を知りたいと思っただけでした。今なら私にも語るべき歴史があるとも言えましょうが、私の過去について書いたものすべてを失くしてしまったばかりか、思い出そうとすると考えが混乱するのです。それは私が事実をおぼえていないからではなく、それらに意味を与えることができないからなのです。今日私の身の上に起きたことを、誰かに話さずにはいられません、さもなければ気が狂ってしまう」
 「いったい今日、何が起きたのですか?」ニケタスは水のなかを苦労して進みながら尋ねた。学者、宮廷人として生きてきた彼は、太っていて動きが鈍く、弱々しかった。


2 バウドリーノはニケタス・コニアテスに出会う


バウドリーノ(上)

バウドリーノ(上)

1 バウドリーノは書きはじめる
2 バウドリーノはニケタス・コニアテスに出会う
3 バウドリーノは子供の頃に書いたことをニケタスに説明する
4 バウドリーノは皇帝と話し皇妃に恋する
5 バウドリーノはフリードリヒに賢明な忠告をする
6 バウドリーノはパリに行く
7 バウドリーノはベアトリスに恋文を〈詩人〉には詩を書かせる
8 バウドリーノは地上楽園を想像する
9 バウドリーノは皇帝を叱責し皇妃を誘惑する
10 バウドリーノは三賢王を見つけシャルルマーニュを列聖する
11 バウドリーノは司祭ヨハネのために宮殿を建てる
12 バウドリーノは司祭ヨハネの手紙を書く
13 バウドリーノは新しい町の誕生を目のあたりにする
14 バウドリーノは父親の牝牛でアレッサンドリアを救う
15 バウドリーノはレニャーノの戦いへ
16 バウドリーノはゾシモスにだまされる
17 バウドリーノは司祭ヨハネが手紙を書いた相手が多すぎることを発見する
18 バウドリーノとコランドリーナ
19 バウドリーノは自分の町の名前を変える
20 バウドリーノはゾシモスに再会する
バウドリーノ(下)

バウドリーノ(下)

21 バウドリーノとビザンツの魅惑
22 バウドリーノは父親を亡くしてグラダーレを見出す
23 バウドリーノは第三回十字軍へ
24 バウドリーノはアルドズルニの城に行く
25 バウドリーノはフリードリヒが二度死ぬのを見る
26 バウドリーノと賢王たちの旅
27 バウドリーノはアブハジアの闇に入る
28 バウドリーノはサンバティオン川を渡る
29 バウドリーノはプンダペッツィムに到着する
30 バウドリーノは助祭ヨハネと面会する
31 バウドリーノは司祭ヨハネの王国への出発まで待機する
32 バウドリーノは一角獣を連れた貴婦人に会う
33 バウドリーノはヒュパティアに会う
34 バウドリーノは真実の愛を発見する
35 バウドリーノ対白フン族
36 バウドリーノとロック鳥
37 バウドリーノはビザンツの宝物を増やす
38 バウドリーノは決着をつける
39 バウドリーノは柱頭行者になる
40 バウドリーノはもういない
訳者あとがき