悪人 - 吉田修一

多視点で書かれた犯罪小説。2006-2007年新聞連載。2007年単行本刊。2009年文庫本刊。2010年映画公開。「◇」のマークが出てくる度に語りの視点が切り替わる。全章を通じて合計72回。ただし、途中でナレーター的な視点が挿入される箇所もある。この小説を一言でいうと「偽悪人」が適切だと思う。犯人は、自身を「悪人」のイメージに無理矢理当てはめることで、無益な「被害者」を生み出さないようにしているのだ。自分からわざと「悪人」の言葉を吐露することで、集めることのできる「非難」を全て自分に集めているかのように見える。ページ数の割に登場人物が多い。名前がついてる人物だけでも39人登場する。この小説の一番の疑問点は、逃走中、なぜ祐一は金髪を黒く染めなかったのか、という点だ。捜査中、一番の手掛かりは容疑者(清水祐一)の金髪であったはずである(これは映画でも原作通りで妻夫木の髪は金髪のままだった)。また、映画を見て疑問に思ったのは、なぜ石橋佳男が殺害現場で見た佳乃(の幻)の服装が、上下半身とも殺害時のものだったのか?という点だ。佳男はその全身の服装を知らなかったはずである(遺体確認では上半身しか見ていなかった)。それから、祐一が風俗嬢(金子美保)の常連だったくだりは映画では全て省略されていた。小説では、「偽悪」のテーマに焦点があるように読めたが、映画ではむしろ、失うものがない人こそが悪事を働いてしまうのだ(だから、大切な人がいる人のことを馬鹿にするのは間違っている)、というテーマの方が鮮明に表現されていた。

登場人物

1.石橋佳男 2.石橋里子 3.石橋佳乃(ミア)4.清水祐一 5.仲町鈴香 6.谷元沙里 7.安達眞子 8.増尾圭吾 9.野坂(土建屋の現場主任)10.土浦洋介(南西学院大の学生)11.寺内吾郎(平成生命天神地区営業部長) 12.矢島憲夫 13.清水房枝 14.清水勝治 15.清水依子 16.清水重子 17.倉見 18.吉岡 19.鶴田公紀 20.石橋里乃 21.岡崎のばあさん 22.堤下 23.早苗(婦人会会長)24.金子美保 25.諸井先生 26.マモル 27.林完治 28.駐在所の巡査 29.柴田一二三 30.馬込光代 31.水谷和子 32.馬込珠代 33.大沢 34.大城(紳士服店店長)35.霧島 36.吾郎(勝治の又従兄)37.京子(吾郎の娘) 38.政勝 39.実千代(矢島憲夫の妻)40.広美(矢島憲夫の娘)

視点

第一章

1.ナレーター 2.石橋佳男 3.石橋佳乃 4.清水祐一 5.石橋佳乃 6.清水祐一 7.石橋佳乃 8.清水祐一 9.谷元沙里 10.仲町鈴香 11.谷元沙里→寺内吾郎 12.石橋佳男 13.安達眞子

第二章

14.矢島憲夫 15.鶴田公紀 16.矢島憲夫 17.清水房枝 18.金子美保 19.金子美保 20.林完治 21.清水房枝 22.柴田一二三 23.清水房枝

第三章

24.馬込光代 25.清水祐一 26.馬込光代 27.石橋佳男 28.鶴田公紀 29.増尾圭吾 30.馬込光代 31.馬込珠代 32.馬込光代 34.増尾圭吾 35.林完治 36.清水房枝

第四章

37.馬込光代 38.清水祐一 39.矢島憲夫 40.馬込光代 41.清水房枝→矢島憲夫 42.馬込光代 43.石橋佳男 44.馬込光代 45.清水祐一 46.馬込光代 47.石橋佳男 48.鶴田公紀 49.馬込光代

最終章

50.清水房枝 51.馬込光代 52.柴田一二三 53.石橋佳男 54.馬込光代 55.清水房枝 56.馬込光代 57.清水依子 58.馬込光代 59.石橋佳男 60.馬込光代 61.清水房枝 62.石橋佳男 63.鶴田公紀 64.清水房枝 65.馬込光代 66.石橋佳男 67.清水房枝 68.清水祐一 69.馬込光代 70.ナレーター→清水祐一 71.金子美保 72.清水祐一 73.馬込光代

書き癖

1.そのとき

著者は「そのとき」が大好きらしい。かなりの頻度で「そのとき」の表記が目についた。
「ちょうどそのとき、一階のトイレから」「そのときちょうど仲町鈴香の悪口に夢中で」「佳乃の姿が見えたのはそのときだった」「ちょうどそのとき、テレビに」「テレビの音が聞こえてきたのはそのときだった」(第一章)
「玄関ドアがノックされたのはそのときだった」「ライトが完全に消えたのはそのときだった」「明るい一二三の声が聞こえたのはそのときで」(第二章)
「テーブルに投げ出していた携帯が鳴ったのはそのときで」「通りの向こうから歩いてくる女が見えたのはそのときだった」「ロータリーに猛スピードで白い車が走り込んできたのはそのときだった」「祐一がハンドルを強く握りしめたのはそのときだった」「休耕中の畑の向こうに、ラブホテルの看板が見えたのはそのときだった」(第三章)
「レジ台の上に置かれた携帯の着信音が聞こえたのはそのときだった」「そのときだった。表通りを」「そのときだった。祐一がとつぜん」「ライトの先に、地面に置かれた花束やペットボトルが見えたのはそのときだった」「雨が降り出したのはそのときだった」「ある光景が蘇ったのはそのときだった」「そのときだった。対向車線を走ってくる」(第四章)
「そのとき、台所で電話が鳴った」「自分が泣いていることに気がついたのはそのときだった」「背後から近寄ってきた足音に増尾が振り返ったのはそのときだった」「珠代の声が聞こえたのはそのときだった」「麓のほうが騒がしくなったのは、そのときだった」「そのときだった。真っ暗な藪の中で」「ちょうどそのとき制限時間になってしもうて」(最終章)

2.音が重なる

著者が「音が重なる」と描写をする意味がよくわからない。そこで音が重なったからと言って、それがどんな効果を上げたのかがよくわからないのだ。
「すぐそこの大濠公園から聞こえてくる鳥の声に、画面の中で女が立てる舌の音が重なっている」(第三章)「鼻を啜る祐一の声が、遠い波止めにぶつかる波の音に重なる」(第四章)

3.握る

著者は「握る」ことに執着があるらしい。
増尾は思わず受話器を強く握った」(第三章)「光代は思わず両手を握りしめた」「佳男は仕事着の白衣を手に握りしめ」「里子は、両拳を握りしめて泣いている」「テーブルの上で祐一の拳が強く握りしめられ」「安物のテーブルに、硬く握りしめられた祐一の拳があった」「両手を握りしめ肩を震わせていた」「強く握りしめたわけでもないのに」(第四章)「思わず菜箸を握りしめた」「光代は思わず受話器を握りしめた」「祐一は小石を握りしめたまま」(最終章)

4.時間感覚の喪失

時間感覚の喪失をときどき描写していた。
「ベッドに運ばれてから、どれくらい時間が経ったのか、とても長い間、ここで祐一の愛撫を受けていたような気がする。十五分? 三十分? いや、もう一晩も二晩も、こうやって」(第三章)「たった今、車が停まったような気もするし、もう一晩も、ここにいるような気もする」(第四章)

5.飛び込んでくる

「飛び込んでくる」という言葉をよく使う。
「〜と客の笑い声が一気に飛び込んでくる」(最終章)

6.蘇る

「蘇る」と言う言葉をよく使う。
「佳乃の足音が、ふと耳に蘇ったのだ」「ふと彼の言葉が蘇ったのは」(第一章)

7.光塊

著者は「光塊」と書くが、この言葉は一般的な言葉ではないだろう。「こうかい」なんて聞いたことがない。
「あの光塊を捕らえられるのではないか」(第一章)

8.合革

著者は「合革」と何度も書いているが、この言葉は一般的な言葉ではないだろう。「ごうかく」とでも読むのか。
ダイエーで買った合革のコート」(最終章)

その他

1.視点の揺れ

第一章の5番目の視点(石橋佳乃)の途中や7番目の視点(石橋佳乃)の終わりで、ナレーターの視点が割り込んでいて、ちょっと違和感を感じた。

2.眞子の証言

安達眞子は、警察との面談で、石橋佳乃が出会い系サイトで清水祐一とも知り合っていたことを知っていながら、その事実を話さなかった。そうなってしまった経緯が不自然に感じられたし、著者が「その後の捜査方向を狂わせてしまうとも知らずに」と書いた割にはその後の動向にさほど大きく影響しなかったことが後から分かり、あの記述は大げさだったなと感じた。

3.冗長

伏線でもなんでもない無駄なエピソードが沢山あるように感じた。たとえば、鶴田がバーテンにロメールの『クレールの膝』が一番いいと話したくだりなんか、本当にどうでもいいだろう。

4.直喩

直喩の表現に違和感を感じた。「〜するかのようだった」と書くべきところを「〜するようだった」と書く癖がこの著者にはある。
「小さな軽自動車は滝に呑まれるようだった」(第四章)

5.ちくわ

ストーリーの細部によく理解できないものが含まれている。たとえば、石橋佳乃が幼いとき清水(本多)祐一に「ちくわ」を渡していたエピソードが語られている(祐一がちくわを受け取る場面と佳乃がちくわを手に持つ場面が離れているのでわかりにくい)。これにはどんな意味があるのだろう。大人になって初めて出会った二人だと思ったら、実は幼い頃フェリー乗り場で既に出会っていた。この意味がわからない。この「ちくわ」はトンネルの象徴だとでも言いたいのだろうか。

6.つなぎ

最終章の後半、場面と場面のつなぎとして、「電話の呼び出し音」とか「鴉」とか「これを」とかが使われている。この手法、テレビドラマで使われ過ぎていて、安っぽく感じないのだろうか。

7.いまだに

漢字の使い方に未熟なところがある。たとえば、次の箇所では「未だに」ではなく「今だに」と漢字を当てるのが正しい。「未だに細い路地が張り巡らされている」(第二章)

悪人(上) (朝日文庫)

悪人(上) (朝日文庫)

悪人(下) (朝日文庫)

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