スペンド・シフト ― <希望>をもたらす消費 - ジョン・ガーズマ、マイケル・ダントニオ

不毛の地に希望を灯す「不屈の精神」
 一二月初めの金曜日、デトロイトのホテル、イン・オン・フリートストリート。日の出とともに、ヨーロッパのテレビ局の取材班が、三脚、照明、マイクなどの入った黒いバッグをいくつも持って押し寄せ、オーク材を張りめぐらせた玄関ホールを占拠した。その脇を、どこか迷惑顔の宿泊客がすり抜けて、かつての優雅な佇まいを再現したビクトリア調の建物のラウンジに朝のコーヒーを取りに行く。取材班の面々は、自分たちが撮影したばかりの得がたい光景と迫力あるインタビューについて、興奮した様子で語り合っている。
 彼らは社命を受けて「斜陽のアメリカ」を一週間に渡って取材した末に、二〇一〇年前後のデトロイトの「衝撃的な」エピソードを物にして、大物狙いのハンターが戦利品を手にして凱旋するように、ヨーロッパへ帰還しようとしていた(荷物にはしとめた獲物が入っていたのだろうか?)。
 「これが自動車の町デトロイトの実情だとは、驚天動地だろう。……けれど、悲惨きわまりない様子をしっかりカメラに収めたんだ」
 外でライトバンの到着を告げるクラクションが鳴り響く。デトロイトにはこれまでも、その凋落ぶりを詳しく取材するために多くの人々が訪れた。その最後列に加わった彼らは、あのバンで空港へ向かうのだろう。夜間に寒冷前線が通過したため、技術スタッフのひとりが大きな機材バッグを外へ運び出すのに四苦八苦しながら、「ひどく寒いな」とつぶやく。もっとも、顔がほころんでいるところを見ると、使命を果たして帰還できる喜びに浸っているのだろう。
 彼らが取材したストーリーは、二〇〇九年に「危機下の経済」を追いかけたジャーナリストなら誰でも手にできた、安直きわまりないものだ。長期の衰退傾向にあったデトロイトは、二〇〇七年終わりからの大不況によるダメ押しに遭っていた。住宅価格の中央値は、二〇〇五年八月にすでに六万ドルという低水準だったが、そこからさらに八〇〇〇ドル未満にまで沈んでいた。商用不動産の価格にいたっては断崖から真っ逆さまだ。
 最近の実例を示そう。近郊ポンティアックにある八万人収容のシルバードーム・スタジアムの売却価格が何と五八万三〇〇〇ドル。マンハッタンのスタジオ・アパートメントと大差ない水準なのだ全米の失業率が一〇・二%であるのに対して、この地域では自動車メーカーの窮状が大きく響き、職探しを諦めてしまった人々を除外してもなお二八・九%と推計されている。何とか職にありつこうとして、多くの人々がデトロイトを去っていった。一九五〇年のピーク時に一八〇万人だった人口は、九〇万人を割り込んだようだ。
 町の光景は、これらの数字以上に鮮烈に実情を示している。廃墟となった工場。がらんどうの商用ビル。住宅地では、窓にベニヤが張られた廃屋、焼け跡、空き地が全体の四分の三を占める。ひときわ荒れ果てた地域では、クルマで数ブロック走っても、のら犬と、稀にコヨーテを見かけるほかは、ほとんど生気が感じられない。人が住まなくなって久しいため、小さな木とツル草が繁茂して壁全体を覆いつくした家もちらほらある。
 デトロイトの哀れな凋落ぶりは、絶好の被写体として写真家たちを惹きつけてきた。彼らはみな、苔むした歴史的建造物をことのほか好んで撮影するようだ。たとえばミシガン劇場。アーチ型の天井にきらびやかな装飾のあるロビーは、今は駐車場として使われている。そして、空洞のようになったミシガン・セントラル駅。かつて全米でも指折りの降盛を誇った一八階建のこの駅は、今日では骨格を残すだけとなった。保護フェンスで囲われているが、それでも、銅線やパイプほか、カネになりそうなものは端から盗まれてしまった。SF映画に登場する怪物さながらに、デトロイトの西側にぬっとそびえ立っている。
 終末を思わせる光景が次々と展開するため、二〇〇九年末に初めてデトロイトを訪れてクルマで市内を巡った人々はみな、心のどこかで映画『マッドマックス』を思い起こしたかもしれない。悪役キャラクターが、アリソン社のディーゼルエンジンを搭載した自家製の爆撃機を唸らせながら、街を荒らしに来るのではないかと。没落を物語る光景は町じゅうに点在しており、テレビカメラで撮影するまでもなく誰の目にも明らかだ。ただし、目を凝らすと、たいていの来訪者が気づかずに通り過ぎるもうひとつの姿が見えてくる。希望の灯を絶やさずに創造性と躍動感を漲らせた町、デトロイトである。
 イン・オン・フェリーストリート(このホテルについては後でまた触れる)からヨーロッパのテレビの取材班が去っていったのと同じ朝、そこから数キロ離れた場所、寂れた都市の中心街にある小さなオアシスのようなカフェに、常連客たちが集まっていた。デトロイトのこうした光景は、外から来たジャーナリストの大半が決して目にしない――あるいは受け入れようとしない――ものだ。この店は不毛の熔印を押された地域にあって繁盛しつづけている。大不況によって最も打撃を受けた地域に息づく、不屈の精神を象徴する場所でもある。この店こそ、「不遇に見舞われた土地も、機会に溢れた現代のフロンティアたりえる」という発見につながった、心躍る冒険の、最初の訪問先である。

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 ル・プチ・ザンク(フランス語で「近場のバー」の意味)は、デトロイト中心街のトランブル・ストリートとハワード・ストリートの角にある、小ぢんまりした店だ。あたりには、機械工場、薬物依存患者の更正施設、刑務所出所者の社会復帰施設などが集まり、川岸には倉庫が立ち並んでいる。店の建物自体は何の変哲もない長方形の平屋である。外壁は、一九五〇年代に無数の小学校の校舎に使われた、くすんだ黄色のレンガで覆われている。実際ここは、カフェになる前は保育所だった。遊び場を囲っていた金網フェンスは店主チャールズ・ソレルの手で有効活用されている。ソレルは店の脇に安心してクルマを停められる場所を設けたが、これは中心街の過疎化が進んで徒歩での移動が現実的ではなくなった昨今、店を経営するうえで重要なことだ。エントランス近くの囲いのある庭にはハーブと野菜を植えて噴水を置き、ここにも客席を用意した。進取の精神があるばかりか芸術家肌でもあるソレルは、店の正面の看板を手作りし、フランス人気質の象徴とされる雄鶏を描いた。カフェの内装も彼が手がけたものだ。フランスの保養地、コートダジュールの紋章にもある暖かい黄色と明るい青が来店者を優しく迎える。
 風の強いこの金曜日、ソレルは五時前に起床し、ゆったりとシャワーを浴びてお茶を飲んでから家を出て、六時に店に着いた。料理人のモリー・モーター(「モーターシティ」にこの苗字は出来すぎと思うかもしれないが、本名である)とウェイトレスのレイチェル・ハーカイも出勤してきた。数分後には、コンロとコーヒーメーカーから朝食の香りが漂い、窓ガラスが蒸気で曇った。この日ひとりめの来店者は地元の判事だ。店内の静かな雰囲気とクロワッサン、バゲットエスプレッソを楽しんでいった。時計の針が八時を指すころには、ル・プチ・ザンクは常連客と数人の一見客で溢れ返っていた。クチコミやネット上の好意的なレビューのお陰で、最近では旅行者や郊外からの様子見客も足を伸ばしてくれる。
 朝のかき入れ時が終わると、四八歳のソレルは自作のテーブルで一息つく。カリブ海マルティニーク島で生まれ、フランスで育った彼は上背があり、フランス人とアフリカ人の血を引いていて、どこかぎこちない英語を陽気に話す。黒のクセ毛は乱れがちで、わずかに白いものが混じっている。野性味溢れる風貌そのままに、じっとしているのが嫌いな熱血漢である。困難を打ち破るのはお手のもの。疲れを知らず、根っからの楽天家でもある。彼のような移民が、活力と人生への情熱によって、いつの時代にもアメリカ経済の発展に貢献してきたのである。
 ソレルは、義理の父親の死をきっかけに、妻カリマの出身地デトロイトへやってきた。たいていの人と同じく最初はこの町の惨状にたじろいだ。だが、一九八九年の渡米直後に、ブルックリンでカフェを繁盛させた経験があったため、もう一度同じ道で暮らしを立てようと決意した。「おいしいハンバーガーショップさえ見つけるのが難しい地域で、なぜフランス風カフェを開店するのか」と訊かれて、戸惑いがちにこう答えた。「生活の糧を得なくてはならないからさ。家族を養う必要があるけど、ほかに資格なんてないからね」
 たしかに、商売を始めるなら、温もりを感じさせる小さな店、いつも温かいコーヒーを用意した家庭のキッチンのような店は、どこの町でもうってつけだ。なごみの場が少ない地域ではなおさらだろう。人間は究極の杜会的動物であり、他人と接する機会を自然と求めるものだ。そんなわけで、西部の農村でも大都会でも、カフェは集いの場としての役割を果たしている。ソレルは、自分が好きだった場所、「こんな場所をつくりたい」という思いの源泉になった数々の場所を思い起こした。まずは味を大切にしようと考えた。デトロイトには、パリ流の本格コーヒーや食事を楽しめるフレンチ・カフェがなかった。「それに、お客さんはいいものを求めるからね」。次に彼は、スタッフについても語ってくれた。買い手市場だったから、やる気、知識、経験で抜きん出た人材を雇うことができたという。店ではスタッフ全員が、「プロが腕によりをかけた味とサービス」を提供したいという一心で仕事をしている。
 ソレルは自分の答えにどこか物足りなさを感じ、口をつぐむと混み合ったテーブルを見渡した。人々の穏やかな会話と、時としてそれを遮るように聞こえてくる皿やナイフ、フォークの音に耳をそばだてる。そして彼は、店が繁盛している理由は、味やサービスの素晴らしさよりももっと根本的なところにあるのだと気づいて、微笑みを浮かべた。
 「(店を成功へと導くには)みんなを元気づけなきゃね」。
 「僕らはどんな時も希望を失わない」という陽気さは、ソレルの商売魂のおおもとをなすものだが、彼の事業プランにはこのほかにも仲間の情熱に火をつける要素が盛り込まれている。カフェの開店計画を立てはじめた瞬間から、彼はスタッフや顧客に一定の理念を伝えるような経営原則を掲げていた。ひとつ、帳簿をスタッフ全員に完全にガラス張りにして、毎月、店の経営状況をつかめるようにする。ふたつ、持ち場を細かく決めない。手持ち無沙汰にならないように、その時々で誰もが給仕、皿洗い、調理などをこなす。みっつ、創業者も含めて全員が同じ報酬を受け取る。こうすれば、「できるだけ安くていいものを提供して、店を軌道に乗せよう」との意欲を全員が持つようになる。カネでは代えられない満足を仕事から得なくてはならない、ということでもある。

地元で稼いだお金は地元で使う
 ウェイトレスのレイチェル・ハーカイが、コーヒー、クロワッサン、フレッシュフルーツ・サラダの載ったトレイを器用に運びながら上司の背後を通りかかり(もっとも「上司」という言葉はル・プチ・ザンクでは使わない)、「もちろん、わたしたちはお金のためにここで働いているわけじゃないわ」とおどけた調子で言い残すと、客席のほうへと去っていった。
 背が高くてブロンドの巻き毛のハーカイは、注文の品をテーブルに届けるとわたしたちのところへ戻ってきてしばし立ち止まり、「ここ」とは店だけではなく、デトロイトも指すのだと話してくれた。彼女は特待生としてミシガン大学に通い、二〇〇七年に卒業すると、この町で暮らそうと決めた。
 「わたしはいま二四歳。成人になるとほぼ同時に好景気が終わってしまったから、大変な目に遭ったわ。でも、だからこそ、『何を大切にすべきか』についての考えが改まったのだと思う」。文芸創作の素養を身につけた彼女は、フリーランスで創作と指導に携わることを志し、すぐにここデトロイトで目標に向かって走りはじめた。月額四四〇ドル(光熱費込み)でオフィスと創作スペースの付いた広い物件を借りた。隣の空き地を拝借すれば、野菜の栽培までできてしまう。ほどなく、デトロイト・アーティスト・マーケットというギャラリーで朗読会を始めた。この施設は大恐慌時に設けられ、いまでは中西部で指折りの権威を誇っている。ハーカイはまた、自治体の識字力向上プログラムのもと、デトロイトのいくつもの学校からライターとして招聘され、地元のオンライン・カルチャー誌、モデルDへの寄稿も始めた。執筆や指導のかたわら、こうしてソレルのカフェで働いて収入の足しにしている。この店は彼女にとって、地元とつながりを深める場でもある。
 ハーカイはこうも言い添えた。

スペンド・シフト ― <希望>をもたらす消費 ―

スペンド・シフト ― <希望>をもたらす消費 ―

序 文 フィリップ・コトラー
序 章 「より多く」から「よりよく」へ
第1章 「どん底」というフロンティア
第2章 「モノを集める」から「知識を蓄える」へ
第3章  支出を伴わないステータスシンボル
第4章 ソーシャルメディアという「方法」
第5章 「町内会的」資本主義
第6章  失われた信頼を取り戻す
第7章 「顔の見える企業」だけが信頼される
第8章  生活を豊かにするイノベーション
終 章  危機がビジネス、消費、生き方を変えた