パブリック - ジェフ・ジャービス

Publicness
そう、お察しのとおり、「パブリックネス」を辞書で見つけようと思ってもたぶん無駄だろう。でもいいじゃないか。新語や造語、定義のリミックスなんて日常茶飯事なのだから。かつては同じような意味で使われていた「パブリシティ」はPRを意味するようになった(というよりも、今では広告宣伝という意味合いが強くなった)。そんなわけなので、僭越ながら僕がこの言葉を定義させていただこうと思う。


pub・lic・ness〈パブリックネス〉



【1】情報・思考・行動をシェアする行為、またはそれらをシェアして
   いる状態。
【2】人を集めること、または人・アイデア大義・ニーズの周りに集
   まること。つまり〈パブリック〉を形成すること。
【3】周囲とコラボレーションするために、プロセスをオープンにする
   こと。
【4】オープンであることの倫理。


◇イントロダクション――大公開時代
フェイスブックは高校生活でいちばん楽しい思い出だったんだ」。息子のジェイクは僕にそう言った。僕の高校時代には楽しいことなど何もなかったように思う。二〇一〇年に高校を卒業したジェイクと彼の同級生たちは、フェイスブックが大学外に広がった二〇〇六年以降にこれを使い始めた最初の世代だ。おかげで彼の生活は、二四時間すべてが学校の延長になった。僕の若い頃にこんなものがあったら、それこそ永遠に救いのない地獄にはまってもがいていたに違いない。僕の思春期は、ホルモンが否応なしにもたらす悲喜劇と、ひねくれた考えと、人づき合いの気まずさに占められていて、思い出すのも恥ずかしい、というか、いっそくしゃくしゃに丸めてしまいたい思い出だ。それでも少しは救われたのは、良き友人と何人かの素晴らしい先生たちのおかげだ。だがジェイクにとっては、フェイスブックが、よりたくさんの友達とつながり、関係を保ち続けるための道具になっている。フェイスブック世代である。二〇一〇年の高校卒業生たちにとって、学校生活はより社交的な体験、つまり楽しい経験になった。僕から見れば、これは奇跡だ。
 フェイスブックの創業者、マーク・ザッカーバーグはジェイクのお手本、というより、あこがれの存在だ。ジェイクは、大学でコンピュータ・サイエンスと起業を学んでいる。彼は高校時代にフェイスブックのアプリをいくつか開発し、そのうちのひとつを商業化して売却した。ザッカーバークは大学でコンピュータ・サイエンスと起業を学んでいたが、SNSサイトを立ち上げるために大学を中退し、次世代の方向性を決める偉大な二企業のうちの一社を創立した。もう一社について、僕は前著『グーグル的思考』〔PHP研究所〕に書いた。グーグルが検索を中心とする新たな産業を築いたように、フェイスブックは、これまでになかった独自の産業をつくり上げ、その中心となっている。それは共有を基盤とするものだ。それは、「互いにつながりたい」という僕らのなかにある強烈な欲求を満たし、それを利用している。そして、僕ら自身に――人として、社会として――何を「私的なもの(プライベート)」とし、何を「公的なもの(パブリック)」とすべきか、そして、それはなぜかと問いかける。この本は前著の続編ではない。『フェイスブック的思考』ではないのだ。今起きている「パブリックの時代」について書いたものだ。僕はここで、起こりつつある根本的な変化、僕らに疑問と恐怖――そしてチャンス――を与えてくれるこの変化について検証しようと思う。僕が注目するのは、そのチャンスだ。
 一〇代の頃、社交性ゼロたった僕は、中年の今になってそれを埋め合わせている。それもおおかたはジェイクのおかげた。彼は僕のブログの管理人で、ソーシャル世代を理解するための秘密兵器でもある。息子が僕にフェイスブック社会の規範や価値観を教えてくれた。ツイッターに気づかせてくれたのも息子だ。ツイッターのせいでこの本の執筆に苦労したこともある。永遠に終わらない会話に引き込まれて、絶えず気が散ってしまうからだ。それでも、調査や編集の役目を引き受けてくれる人たちがいつも身近にいてくれるおかげて、作業が楽にもなった。今この瞬間も、僕はラップトップの前に座ってパブリックであることのメリットをリストアップしようとしている。ツイッターのフォロワーに向かって、自分をオープンにしたことでどんな新しいつながりや価値あるつながりをつくり出したかと問いかける。すると一瞬にして答えが流れ込む。[twitter:@john_blanton]は、チャットで知り合った女性と結婚したと言う。レズビアンのコメディアンで話し好きの[twitter:@heathr]は、「カミングアウトしたことで誇りが生まれ、恐れることなく、より精力的になった」と言う。長年の友人である[twitter:@terryheaton]は、「デートの時失敗しなくて済むようになる」と言う。[twitter:@flmparatta]は仕事を見つけた。[twitter:@ginatrapani]はキャリアを築いた。[twitter:@everywheretrip]は「ツイッターフェイスブックとブログでみんなに自分はここにいると伝えられたから、世界中の人たちと出会うことができた」と言う。[twitter:@akstanwyck]は「この間のニューヨーク旅行中にツイッターで知り合った三人の友人と顔を合わせることができたの」と教えてくれた。[twitter:@ewestcott]はテクニカルサポートを受けた。[twitter:@alexis_rueal]は、何度かつぶやいているうちに、「高校時代の友達のほとんどと大学時代の友人たちの何人かとつながったの………五年前ならそれほど親しくならなかったはずの人たちが、素敵な友人になって、今ではみんなを大切に思ってるの」と言う。『すべてがグーグル化する』(The Googlization of Everything)の著者で、講演会やネットでの僕のいつもの良き対戦相手である[twitter:@sivavaid]は、価値あるつながりができたかという僕の質問に、こうつぶやき返してきた。「君と僕なんてどう?」
 僕自身は、公開しているおかげで新しい友人もできたし、昔の友人ともう一度つながることもできた。仕事をもらい、収入も得た――この本とその前の本もそうだ。思いつきを検証し、そのアイデアを広め、認められている(責められてもいる)。ツイッターで僕の質問に答えてくれた[twitter:@dustbury]とまったく同じで、「公開していていちばんいいのは、口から出まかせが言えなくなったってこと。ものすごくたくさんの人が見てるからね。でもそのほうが楽なんだ」[twitter:@jmheggen]も同じことを言う。「パブリックであるからこそ正直であろうと努める。公開していると嘘はすぐばれるから、いつも自分に正直でいられる」。政治家や企業はこのつぶやきから学ぶことがあるはずだ。[twitter:@clindhartsen]は、ツイッターを利用して食事と体重を公開した。「それに絶対成功させると自分に言い聞かせていたから、六五ポンド〔三〇キロ近く〕減量できた」。僕だって負けていない。ペニスの機能不全を告白した。読者のみなさんのためにもなるはずだから、これについてはまたあとで話そうと思うが、僕はその後、同じ前立腺癌の患者さんたちから貴重な助言をもらった。自分をさらけ出すことが、情報を得ることや、判断することに役立った。自分がシェアすればするほど他人もシェアしてくれて、その恩恵をより多く受けられることを僕は学んだ。僕はパブリックな存在だ。僕の人生は、オープンな物語なのだ。
 プライバシー擁護派は、僕に慎重になるべきだと言う。何もかもオープンにすべきでない、と。個人情報をシェアさせるような新しいオンラインサービスが出てくるたびに、プライバシー擁護派はメディアに群がる。無料のコンテンツやサービス、ソーシャルライフの向上や、個人向け仕様、つながりを増やすことなどを餌にしてシェアを促す企業や技術を恐れるべきだと言う。彼らは政府のことも心配で仕方がないらしい――もちろん、それにも一理ある。政府は国民について多くを知る立場にあり、僕らの意思に反してそれらを利用する力があるからだ。プライバシー擁護派は、若者が開けっぴろげすぎるとき言っては心配する。何か悪いことが起きるかもしれない、と言う。悪いことなんてそれでなくても起きるのに。
 グーグルニュースの記事検索で「プライバシー擁護派」を検索すれば、彼らが慢性心配性の匿名集団として、メディアにたびたび引用されていることがわかるだろう。「プライバシー擁護派、吠える」「プライバシー擁護派、非難の声を上げる」「プライバシー擁護派がその矛先を向けていることは間違いない」「フェイスブック、プライバシー擁護派の怒りを買う」「電子小売法はプライバシー擁護派をやきもきさせている」「プライバシー擁護派、市民権活動家、社会学者たちは、疑いを抱いている」「プライバシー擁護派は、目を皿のようにして監視している」「消費者とプライバシー擁護派は、ネット履歴による追跡方法をいつまでも懸念し続けることになる」。彼らは、吠え、叫び、矛先を向け、怒り、やきもきし、疑いを抱き、懸念し、監視し、非難する。それがプライバシー擁護派だ。『プライバシーを理解する』(Understanding Privacy)でダニエル・J・ソロヴは、ヴァンス・パッカードが一九六四年に著した『裸の社会』〔ダイヤモンド社〕のなかでプライバシーが「蒸発しつつある」と懸念したことや、心理学者のブルーノ・ベッテルハイムが一九六八年に「プライバシーは絶えず攻撃にさらされている」と公言したことを引き合いに出しながら、プライバシー侵害に対して人々が抱く恐れについてまとめている。


 多くの評論家が、プライバシーは「包囲され」「攻撃され」ていると言う。それが、「危機」「損害」「危険」にさらされていると。そして「浸食され」「蒸発し」「死滅し」「縮小し」「こぼれ落ち」「衰退し」「消滅し」つつあると言う。「失われ」「死んでしまった」とも言う。本も雑誌もこぞって、プライバシーの「破壊」や「死」や「終焉」を警告する。デボラ・ネルソン教授が言うように、「プライバシーは単に死んだわけではないようです。何度も繰り返し死んでいるのです[1]」


 果たしてそうだろうか? 口を開けばプライバシーが議論され、未だかつてないほど僕らのプライバシーは保護されているように思える――おそらく過保護なほどに。もちろん、僕は、プライバシーヘの権利や、それを保護する必要があること、そして自分たちの悄報や作品やアイデンティティをきちんと自分たちで管理し続けるべきことに、一〇〇パーセント賛成する。だから、こうした点について僕たちのかわりに議論している自称プライバシー擁護派たちの軍団と闘うつもりはない。だが、プライバシーについての感情的な表現や、根拠のない恐れや、漠然とした言い回しを避け、プライバシーについて語る時にそれがどういう意味なのかを検証してみたい。秘密にする必要があるものは何で、それはなぜか。プライバシーが侵害されると、どんな害があるのか。プライバシー侵害への僕らの恐怖の根源はなんだろう。人によって期待値がさまざまに異なるプライバシーの感覚とどう折り合いをつけたらいいか。たとえば、グーグルのストリートビューに近所の通りを写されるのを嫌がるドイツ人もいれば、みんなに見てもらおうとグーグルの車に写真を撮ってほしがるアメリカ人がいるのはなぜだろう?
 プライバシーとパブリックネスは互いに相容れないものではない。実際、そのふたつは互いに支え合うものだ。「公か私かっていうのは相対的な言い方でしょう。暑い寒いとか、明るい暗いといったように。片方がもう片方を決めるのです[2]」とカナダの公共放送局CBCのラジオ番組『アイデア』の司会者、ポール・ケネディは言う。マイケル・ワーナーも、『公共性と反公共性』(Publics and Counterpublics)のなかで、「ほとんどのものはある面で私的であり、別の面では公的である[3]」と書いている。たとえば、書籍は私的な考えを公に表現するものだ。僕らは私的なアイデンティティをパブリックな行動に反映させる――ある事柄についての私的な立場を決め、それを公開することで、同じ考えをもつ人とつながり、アイデアを共有し、組織的に行動する。同時に、みんなのなかでの僕らのパブリックな生活――他者の考えや、議論や根拠に耳を傾けること――が私的な判断を左右する。つまり、パブリックかどうかはプライバシー次第なのだ。
 公私の境目は、僕らが選ぶことだ。人目にさらすかどうか、シェアするかどうか、参加するかどうか。それぞれにメリットがあり、それぞれに危険が伴う。僕らはその間のちょうどいいバランスをいつも探している。今こそテクノロジーによって新しい選択や危険やチャンスがもたらされている。できる限り、自分でそれを選択したいし、他の誰かに――企業や政府や噂話に――かわりに決めてほしくない。その決断をする時には、プライバシーの危険を考えるだけでなく、パブリックであることのメリットも心にとどめてほしいと思う。プライバシーだけが僕らの心配事であってはならない。プライバシーにはそれを擁護する人がいる。〈パブリック〉にも、それを守る存在が必要だ。
 僕はこの本をとおして、もしプライバシーに固執しすぎればこのリンクの時代にお互いにつながり合う機会を失うかもしれない、と言いたい。インターネットのリンクは、奥深い影響をもつ発明だ。リンクは僕らをウェブのページにつなげるだけでなく、人や情報や行動や取引につなげてくれる。リンクは、僕らが新しい社会を形づくり、パブリックであることを再定義することに役立つ。未知なるものを恐れるあまり、リンクの網から自分を切り離す時、僕らは、人として、企業として、組織として敗北することになる。自らをオープンにすれば、僕らは学び、つながり、協力する機会を得る。トリップアドバイザー[TripAdvisor] やウィキペディア、グーグル検索やフェイスブックといった道具をとおして、僕らは集合知を手に入れる。僕らが集まれば、これまでにないパブリックな存在が生まれる――それが僕らの公共圈(パブリック・スフィア)だ。パブリックなものとは社会のためになるもの、オープンで自由な社会に必要なものだ。

パブリック 開かれたネットの価値を最大化せよ

パブリック 開かれたネットの価値を最大化せよ

◇イントロダクション――大公開時代
◇パブリックの預言者 マーク・ザッカーバーグ
◇パブリックの選択
 ◆プライベートなドイツ人
 ◆ドイツ人の矛盾
 ◆僕のパブリックな部分
 ◆僕のプライベートな部分
◇〈パブリックネス〉のメリット
 ◆つながりが築かれる
 ◆他人が他人でなくなる
 ◆コラボレーションが生まれる
 ◆集合知(と寛容さ)を解き放つ
 ◆完全神話が払しょくされる
 ◆偏見を解く
 ◆名声が得られる……か、少なくとも認知される
 ◆組織する
 ◆僕らを守ってくれる
◇プライベートとパブリック その歴史
 ◆忌まわしいコダックマニア
 ◆テクノロジーヘの恐怖
 ◆近代的なパブリックの成り立ち
 ◆公共圏
◇パブリック・メディア
 ◆グーテンベルクの――そして神の――贈り物
 ◆マスメディアの成り立ち――と崩壊
◇プライバシーとは何か?
 ◆プライバシーをどう定義するか?
 ◆プライバシーをどう守るか?
 ◆プライバシーとパブリックの倫理
◇僕らはどこまでパブリックだろう?
 ◆僕らは〈パブリック〉に出会っている――それは僕らのことだ
 ◆どこまでパブリックになれば「パブリックすぎる」のだろう?
 ◆シェアしすぎ
◇パブリックなあなた
 ◆アイデンティティと評判
 ◆パブリックであることの注意点
◇シェア産業
 ◆パブリック経済
 ◆エヴァン・ウィリアムズ――ブロガーとツイッター
 ◆デニス・クローリー――ドッジボールとフォースクエア
 ◆フィリッブ・カブラン――ブリッピー
 ◆ジョッシュ・ハリス――『ウィ・リブ・イン・パブリック』とワイ
  アード・シティ
◇スーパー・パブリックカンパニー
 ◆想像してみよう
 ◆オープン=クローズ ケーススタディ
  ・製造業――「ホーマー」をつくる
  ・テクノロジー業界――裸のギーク
  ・メデでア――もうひとつの体制
  ・小売業――ソーシャルストア
  ・究極のオープン性
◇人民の、人民による、人民のための……
 ◆秘密をなくす
 ◆〈オープン〉の先にあるもの
◇新しい世界
 ◆誰がパブリックを守るのか?
 ◆〈パブリック〉の原則
 ◆日本語版解説 小林弘人
[巻末]
 ■原注
 ■参考文献

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