西洋美術史入門 - 池上英洋
1 美術史とはなにか
大学での初回講義で「美術史とは何だと思うか」と学生に尋ねたことがあるのですが、ある芸術作品があるとして、それは「なんというタイトル」の作品で「誰が」「何年に」つくったかを覚えるものかなあ、という反応がたいてい返ってきます。つまりは、高校における歴史授業のテスト勉強の記憶があまりに強いのか、「何年に」「どことどこの国が」「何という戦場」で戦って「何々条約」を結んだといった塩梅に、やたらとデータを暗記するだけのものというイメージを持っているのです。
データの蓄積が悪いとはもちろん言いません。ある程度必要なのは確かです。しかし、たとえば先ほどの「何々戦争」のようなケースにおいて、「なぜその二国が戦う必要があったのか」、さらには「その結果がその後の社会にいかなる影響を及ぼしたのか」といった、事象の構造を理解するところまで考えたことのある新入生を、私はほとんど見たことがありません。そこまで求められてこなかったのですから当然です。しかしより重要なのは、単なる固有名詞や年号を暗記することよりも、構造について思考することにこそあるはずです
美術史でも同じです。先の例でいえば、「なぜそのような作品がその時代にその地域で描かれたのか」、また「なぜそのような様式がその時代にその地域で流行したのか」という点を思考することこそ、「美術史」という学問でなされるべき内容なのです。
2 なぜ美術を学ぶ必要があるのか
さて美術史講義をうけはじめた学生が次に抱く疑問は、「こんなこと学んでいったい何になるのか」というものです。よくわかります。実は私自身も過去に同じ疑問を抱いた経験があるからです。これがたとえば医学であれば、病で苦しんでいる人を助けるといったような、ごくわかりやすい〝意義〟を即座に見出すことができます。一方、美術史の場合は簡単ではありません。まあ、人文系の分野は多かれ少なかれそのようなものかもしれませんが。
鍵は、〝識字率〟というパラメーターにあります。一般的に私たちは、ふだん話したり聴いたりしている〝言語〟を、書いたり読んだりすることもできます。しかし、たとえば一〇〇〇年前のヨーロッパなどでは、政治を動かしているような上流階級や、教会で働いている人、あるいは法律や商売に深く関わっている人でないかぎり、自分が話している言葉であっても〝書く〟ことはおろかほとんど読むことさえできません。私たちは非常に恵まれたた時代に生きていて、そしてこのような時代は人類の長い歴史の中ではごくごく最近になってからのことでしかありません。
現代であれば、私が皆さんにお伝えしたいことは、こうして文字にすればすんでしまいます。しかし、たとえば昔の西洋世界で本など読めたのは社会のごくごく一部の層にすぎません。では大衆に伝えたいことがあれば何を用いたか――それが絵画だったのです。つまり絵画は、今よりもっと「何かを誰かに伝えるためのもの」という機能を強く持っていました。個人が、ごく私的な趣味のためだけに自由に絵を描くという行為は、ごく近代的なものにすぎません。であれば、私たちがもし過去の社会のことを知りたいと思えば、テレビやラジオの無い時代における最大のメディアだった絵画にあたる必要があるのは当然ですね。
絵にこめられたメッセージを読みとってはじめて、私たちはその絵が描かれた当時の人々の考え方を理解することができます。つまり美術史とは、美術作品を介しで「人間を知る」ことを最終的な目的としており、その作業はひいては「自分自身のことを知る」ことにいつかはつながるでしょう。だからこそ、美術史は哲学の側面を有しています。そのため、たとえば私は勤務している大学で哲学科に所属しています。もちろん、美術〝史〟というからには歴史学の一部でもあるため、大学によっては史学科に美術史教員が所属しているところも多いです。
以下、本書で推薦されていた書籍(比較的入手しやすいものが選ばれている)を掲げる。
- 美術史のやさしい入門書
岡田温司『『ヴィーナスの誕生』視覚文化への招待 (理想の教室)』みすず書房、2006 ― ルネサンス限定
藤原えりみ『西洋絵画のひみつ』朝日出版社、2010 ― 簡潔、多面的
高橋裕子『西洋美術のことば案内』小学館、2008 ― 専門的 - 絵を読む実例
若桑みどり『絵画を読む イコノロジー入門 (NHKブックス)』NHKブックス、1993 ― 他著もおすすめ
千足伸行『すぐわかる西洋絵画よみとき66のキーワード』東京美術、2008 ― 主要な主題リスト
高階秀爾『名画を見る眼 (岩波新書)』岩波書店、1969 ― 少し高度
高階秀爾『続 名画を見る眼 (岩波新書 青版 E-65)』岩波書店、1971 ― 少し高度
高階秀爾『Art 1 誰も知らない「名画の見方」 (小学館101ビジュアル新書)』小学館、2010 ― 難易度高し - 絵を読むためのアトリビュート辞書
木村三郎『名画を読み解くアトリビュート』淡交社、2002 ― 少ないが専門的
ジュイムズ・ホール『新装版 西洋美術解読事典』河出書房新社、2004 ― 語学の辞書のよう - 西洋美術史の通史
北澤洋子監修, 中村るい, 宮下規久朗ほか『西洋美術史』武蔵野美術大学出版局、2006 ― 通史の入門
千足伸行監修,石鍋真澄,諸川春樹ほか『新西洋美術史』西村書店、1999 ― 入門の次
高階秀爾監修『カラー版 西洋美術史』美術出版社、2002 ― カラーが貴重 - それぞれの主要画家、主要作例
高階秀爾、三浦篤編『西洋美術史ハンドブック (ハンドブック・シリーズ)』新書館、1997 ― 各時代区分の主要画家を押さえている
諸川春樹監修『西洋絵画史WHO’S WHO―カラー版』美術出版社、1996 ― 280人の主要画家をざっと
『週刊西洋絵画の巨匠1 ゴッホ (小学館ウイークリーブック)』(シリーズ)小学館 ― 主要画家50人、簡潔
『もっと知りたいクリムト 生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)』(シリーズ)東京美術 ― 冊数少ないが内容充実 - 主要作例
朝日美術鑑賞講座『15世紀ルネサンス絵画 (名画の見どころ読みどころ―朝日美術鑑賞講座)』(シリーズ)朝日新聞社 ― 執筆者によって紹介と読解のバランスが…
『西洋絵画300選』大塚国際美術館カタログ、1998 ― 陶板コピー作品のリスト、主要作例の選び方、解説が適切 - 社会と美術の関わり
蜷川順子『美術でたどる世界の歴史 (図解雑学シリーズ)』ナツメ社、2004 ― 社会と美術の関わりを簡潔に把握
宮下規久朗『裏側からみた美術史 (日経プレミアシリーズ)』日本経済新聞出版社、2010 ― マイナーなジャンルから美術の面白さを教える - キリスト教やギリシャ神話の主題
千足伸行監修『すぐわかる キリスト教絵画の見かた』東京美術、2005 ― 主要な主題と代表作例一点
千足伸行監修『すぐわかるギリシア・ローマ神話の絵画』東京美術、2006 ― 同上
諸川春樹監修『西洋絵画の主題物語〈1〉聖書編』美術出版社、1997 ― 主要な主題と作例数点
諸川春樹監修『西洋絵画の主題物語〈2〉神話編』美術出版社、1997 ― 同上 - 実際に観に行くために有益な本
『画家名で探す 日本で見られる西洋名画』小学館、2010 ― 画家別の所蔵先リスト
『最新保存版 週刊 世界の美術館【第1号】 ルーヴル美術館 [1]』(シリーズ)講談社 ― 旅行前の一読で見落としを減らす - 美術史を専門にしたい人向けの本
木村三郎『美術史と美術理論―西洋十七世紀絵画の見方 (放送大学教材)』放送大学教育振興会、1996 ― 美術史研究の方法論多数
ヴァーノン・ハイド・マイナー『美術史の歴史』ブリュッケ、2003 ― 各学派の理論
益田朋幸、喜多崎親著『岩波 西洋美術用語辞典』岩波書店、2005 ― 専門用語
H・W・ジャンソン『西洋美術の歴史』創元社、2001 ― 基本書
エルヴィン・パノフスキー『イコノロジー研究〈上〉 (ちくま学芸文庫)』筑摩書房、2002 ― 要一読
エルヴィン・パノフスキー『イコノロジー研究〈下〉 (ちくま学芸文庫)』筑摩書房、2002 ― 同上
佐々木英也監修『オックスフォード西洋美術事典』講談社、1989 ― 大学院を受験する段階の人向け
柳宗玄、中森義宗『キリスト教美術図典』吉川弘文館、1990 ― 同上 - 番外編
アルチャーティ『エンブレム集』(p.37)
リーパ『イコノロギア』(p.37)
関根正雄「トビト書」(『旧約聖書外典(上) (講談社文芸文庫)』)(p.56)
ヴィンケルマン『ギリシア美術摸倣論 (1976年)』(p.170)
- 作者: 池上英洋
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2012/12/05
- メディア: 新書
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はじめに
第一章 美術史へようこそ
1 美術史とはなにか
2 なぜ美術を学ぶ必要があるのか
3 絵を〝読む〟ということ
4 絵を読むための手続き(一)――スケッチ・スキル
5 美術作品が持つ〝ふたつの側面〟
6 絵を読むための手続き(二)――ディスクリプション・スキル第二章 絵を〝読む〟
1 記号としてのイメージ
2 イメージとシンボル
3 シンボルとアレゴリー
4 アトリビュートとイコノロジー
5 イコノグラフィーとイコノロジー
6 〝後段階〟におけるイコノロジー――主題と社会背景
7 〝前段階〟におけるイコノロジー――図像の成立背景第三章 社会と美術
1 社会を見るための〝窓〟
2 トビアスの冒険――ルネサンスを開花させた金融業
禁止れていた〝高利貸し〟/両替商のシステムと主題の流行
3 法悦の聖女――バロックの劇場
無原罪の御宿り/幻視/観る者を観客として参加させる〝劇場型〟バロック
4 フェルメールのアトリエ――一七世紀オランダ社会の特質
世界地図/ラヴ・レター
5 大英帝国がかかえるコンプレックス
一八世紀の修学旅行
6 悲しき《落穂拾い》からルノワールのレストランへ――階級差・鉄道・レジャー
〝描かれた貧困層〟を買う人々/みずからの善行をアピールするために/汽車というモチーフ/鉄道に見る階級差/オリエンタリズムの流行/レジャーとしての旅第四章 美術の諸相
1 美的追求と経済原理
2 パトロンのはなし
皇帝と教会による独占/再び市民パトロンへ/パトロンの移り変わり
3 技法のはなし
壁画の主流となったフレスコ/板絵の主流となったテンペラ/油彩+カンヴァスという最終形/番外編〝印象派〟という一大技法実験
4 ジャンルのはなし
風景画――画家はいつだって風景を描きたいと思っていた/風景画を創り出すもの――制作意図と純粋性/静物画――もうひとつの〝ニュートラル〟主題/風俗画――食事・モデル・注文主第五章 美術の歩み
【エジプトとメソポタミア】【エーゲ文明と古代ギリシャ】【エトルリアとローマ】【初期キリスト教時代とビザンティン】【ロマネスクとゴシック】【プロト・ルネサンス】【ルネサンス】【北方ルネサンス】【マニエリスム】【バロック(イタリア・フランス・スペイン】【バロック(17世紀オランダ)】【ロココ】【新古典主義とロマン主義】【印象派】【後期印象派と新印象派(点描派)】【世紀末芸術】【フォーヴィスムとキュビスム】【その後〜現代美術】おわりに
さらに学びたい人へ――目的別推薦文献リスト