人間の生活?

マーク・ピーターセン氏の『ニホン語、話せますか?』(2004)によれば、故・伊藤和夫英文解釈教室』に出てくる訳文は、日本語として相当おかしいのだ。例えば、「1.1 例題(1)」の次の英文がある。

A sensitive and skilful handling of the language in everyday life, in writing letters, in conversing, making political speeches, drafting public notices, is the basis of an interest in literature. Literature is the result of the same skill and sensitivity dealing with a profounder insight into the life of man.


日常生活において、つまり手紙を書いたり、会話や政治演説をしたり、公式の通知を起草したりするときに、気をつけてたくみに言葉を使うことが、文学への関心の基礎となる。文学は、同様な技巧と感受性が人間の生活に対するもっと深い洞察を取り扱うところから生まれるのである。

ここでは、"the life of man" を本来なら「人生」と訳すべきだが、伊藤氏は「人間の生活」と訳している。「人生」と「人間の生活」では、読んで受ける印象が全く違うことはいちいち説明するまでもないだろう。また、「技巧と感受性が人間の生活に対するもっと深い洞察を取り扱う」(伊藤訳)の部分も、ピーターセン氏によれば、英語では「文章力と感受性によって、作家は、自分で見抜いた“人生の真実”をうまく表現できる」と言っていることが素直に伝わってくるという。つまり、原文からは素直に伝わってくる意味が、伊藤氏の日本語からはほとんど伝わってこないどころか、読み手はこの奇怪な日本語を解きほぐした上で、これはいったいどういう意味なんだろうか?と、しばらく考える必要があり、熟考の結果、果たして原文が伝える意味に辿りつけるのかどうかさえ不明だということだ。

減点を気にして無理に作られた訳文は、「こなれ具合が悪い」だけでなく、意味すらよくわからないものになってしまっている。では、せめて大学に無事合格した後は、そうした訳し方を止めればよい、

まったくピーターセン氏の主張されるとおりだが、これだけ血道を上げるかのように一心不乱に習得した「減点を気にし」た訳し方を日本人がそうやすやすと捨てられるわけもなかろう。そうやって英語嫌いや英語の苦手な日本人が増えていくのだと思う。日本の英語教育は、原文理解よりもテスト効率を重視しために歪んでしまっていると思わざるを得ないし、その歪みは、社会人が英語を巧み使いこなそうとする途上に立ち塞がる障害となっている気がしてならない。