強く生きるために読む古典 - 岡敦
3 「悪霊」(ドストエフスキー) もしも世界が一編の美しい文章なら文脈を見なければ、意味はわからない。
たとえば「バラ」。
この言葉の意味は、それが置かれている文脈による。
「バラ」とは、花の名だろうか。
美しいヒロインのことかもしれない。
あるいは、バラ積みの荷物?
「馬鹿」と言おうとして舌がもつれたのか。
「バラ」という文字を何時間見つめても、その意味は決してわからない。その言葉を含む文脈全体を把握し、その中でどのような位置を占めているかを見ることによってのみ、言葉の意味はわかるのである。
生きることの意味も同じだ。
自分自身をどれほど見つめても、それは「バラ」という文字を見つめているのと同じこと。自分の生活や人生がどんな意味を持っているかなんて、わかるはずがない。
自分の生に意味を感じるためには、言葉と同じように、まず、自分がどのような文脈の中で生きているかを理解しなけれぱならない。次に、その文脈における自分の位置を確認して、そこで何らかの働きをしなければならない。その働きの自覚が意味だ。
そんなふうに「自分の生に意味を与える文脈」をしっかりつかんで、それに適合した生き方をすることで、はじめて自分の生活や人生を意味のある、充実した、かけがえのないものとして感じることができるのである。
動機がない、やる気がない、判断もできない
「自分の生に意味を与える文脈」と言えば、たとえば、家、社会、国、人類、宇宙など、さまざまなものが思い浮かぶ。それぞれに歴史があり、神話があり、まるで一編の物語のように構成されている。ひと筋の「文脈」がたどれるかのように思える。その文脈に適合した生き方をすれば、ぼくらの生は肯定されるはずだ(そして、文脈にそぐわない生き方をすれば否定されるはずだ)。
しかし、本当にそんな「文脈」があるのだろうか?
あればいい、と思う。
あると信じたい、とも思う。
しかし正直に言えば、ぼくらには「文脈」が、よく見えないのではないか。
ときどき見える気がしても、すぐに見失ったり、実感や確信が持てなかったりするのではないか。
だからぼくらは、どう生きていいかわからず、とまどってしまう。「文脈」が見えないのだから、ぼくらは何をやっても、「文脈」に合っているとも合っていないとも判定できない。どう生きたとしても、「そんな生き方は駄目だ」と否定されることはないが、その代わりに、肯定されることもないのである。
言い換えれば、ぼくらは「何をやってもいい」「自由」ということだ。そう言うと、とてもいい状態のように思いがちだが、もしかしたらこれは、「不自由」と同じくらい、生きにくいのではないか。
ちょうどテーマも枚数も自由な作文が宿題に出て、書いては消し書いては消しを繰り返す小学生のようだ。「何でもいい」という自由さに、のびやかさや解放感よりも、むしろ頼りなさ、手応えのなさを感じて、苛立ち、焦っている。
「何でもいい」のだから、何をやっても達成感も充実感もない。
「何でもいい」のだから、動機もやる気も持ちようがない。
「何でもいい」のだから、本気で判断する必要がない。たとえ何らかの判断をしても、少しも重みや切実さがない。だから、ぼくらの気持ちや行動は方向が定まらず、いつも不安定だ。ぼくらの生には切実さも「リアルさ」もない。
「文脈」が見えず、生きる意味が感じられない。こんな時代に、ぼくらの生はどうすれば肯定されるだろう。それこそが、十九世紀ロシアの小説家フョードル・ドストエフスキー(一八二一―八一)が書いた『悪霊』のテーマである。
引用文献
- はじめに
- 『失われた時を求めて』(プルースト)かけがえのない時間
- マルセル・プルースト『失われた時を求めて』(全一〇冊)井上究一郎訳、ちくま文庫、一九九二−九三年
- 『野生の思考』(レヴィ=ストロース)ゴミ捨て場からの敗者復活戦
- クロード・レヴィ=ストロース『野生の思考』大橋保夫訳、みすず書房、一九七六年
- 『悪霊』(ドストエフスキー)もしも世界が一編の美しい文章なら
- フョードル・ドストエフスキー『悪霊』(全二冊)江川卓訳、新潮文庫、一九七一年
- 『園遊会<ガーデン・パーティー>』(マンスフィールド)今日、リアルな死に触れて
- キャサリン・マンスフィールド『マンスフィールド短編集』安藤一郎訳、新漸文庫、二〇〇八年
- The Collected Stories of KATHERINE MANSFIED, Wordsworth Editions, 2006
- キャサリン・マンスフィールド『マンスフィールド短編集』安藤一郎訳、新漸文庫、二〇〇八年
- 『小論理学』(ヘーゲル)気がつくと見知らぬ土地に立っていた
- 『異邦人』(カミュ)夕暮れ、場違いな人
- Albert Camus, L'Étranger, Gallimard, 1942
※本文中の『異邦人』の引用は著者訳。訳出にあたっては、窪田啓作訳(新潮文庫、一九九五年)を参照した。
- アルベール・カミュ『シーシュポスの神話』清水徹訳、新潮文庫、二〇〇六年
- シャルル・ボードレール『ボードレール パリの憂鬱』渡辺邦彦訳、みすず書房、二〇〇六年
- Albert Camus, L'Étranger, Gallimard, 1942
- 『選択本願念仏集』(法然)最低の人間に贈られた最高の方法
- 『選択本願念仏集−法然の教え』阿満利麿訳、角川ソフィア文庫、二〇〇七年
- 「一枚起請文」の引用は、『日本の名著5 法然』(塚本善隆責任編集、中公バックス、一九八三年)所収の「御誓言の書」(石上善応訳)
- 『法然上人絵伝』(全二冊)大橋俊雄校注、岩波文庫、二〇〇二年
- 『選択本願念仏集−法然の教え』阿満利麿訳、角川ソフィア文庫、二〇〇七年
- 『城』(カフカ)成し遂げられていない物語
- 『自省録』(マルクス・アウレーリウス)春の季節に生まれいづ
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一九五九年、東京生まれ。八二年、早稲田大学第二文学部卒業。八〇年代にはイラストレーターとして山本寛斎のパリコレ招待状や同国内ブランドのテキスタイルデザイン、劇団第三エロチカやコント赤俳号の演劇ポスターなどを手がける。九〇年代以後、雑誌の編集を経て文筆家。美術関係の文章や『聞きまくり社会学』(共著、新泉杜)などを執筆。目次
はじめに 「できそこない」のためのブックガイド
1 『失われた時を求めて』(プルースト)
かけがえのない時間
2 『野生の思考』(レヴィ=ストロース)
ゴミ捨て場からの敗者復活戦
3 『懸霊』(ドストエフスキー)
もしも世界が一編の美しい文章なら
4 『園遊会<ガーデン・パーティー>』(マンスフィールド)
今日、リアルな死に触れて
5 『小論理学』(ヘーゲル)
気がつくと見知らぬ土地に立っていた
6 『異邦人』(カミュ)
夕暮れ、場違いな人
7 『選択本願念仏集』(法然)
最低の人問に贈られた最高の方法
8 『城』(カフカ)
成し遂げられていない物語
9 『自省録』(マルクス・アウレーリウス)
春の季節に生まれいづ
引用文献
あとがき
初出