第151回芥川賞候補その5 - 横山悠太「吾輩ハ猫ニナル」


 ある日わたくしの数少ない友人である馬さんが家へひょっくり遣ってきて、自分の今の日本語の水準にして辞書をほとんど使わなくとも読み進められるような小説があるならば、是非とも紹介してほしいと云うのでした。近来の日本の小説は片仮名で表された外来語が多く用いられており、それは馬さんにとっては呪文か暗号のようにしか読めないと云うのです。そしてそれは日本語を学ぶ中国人にとって、共通の悩みでもあるそうなのです。このことは日本語を母語とするわたくし共にとっては、客易には気付かないことでありました。なるほど、中国人から見た日本語というのはそのように映るのだな、とわたくしにはそのことが大変面白く思えました。ご年配の方が電化製品の取扱説明書を慣れない片仮名と格闘しながら読み解いていく感覚、と似たようなものなのでしょうか。
 彼と日本語で談話している限り、わたくしは彼がわたくし以上に日本語の言葉を多く知っているようにも感じられましたし、「されば」「とまれ」「いわんや」「ずんば」などの高等句が会話中に無理なく口から出てくるような人は、彼以外には日本人でさえ出会ったことがありませんでしたから、彼のその要求はわたくしにとって全くもって意外なことでした。彼の年齢はわたくしより一回り上なのですが、大学生の頃から独学で日本語を学び始め、日本へは一度も行ったことがないのだそうです。それだのにこれだけの日本語が話せるというのですから、全くの驚きであります。
 わたくしは迷わず、それなら一昔前に書かれた小説を読めばよいですよ、と数冊の文庫本を本棚から無造作に引き抜いて彼に貸してやりました。うちの本棚に並んでいる本のほとんどはそういうものでしたから、都合のよいことだったのです。
 三日後、再び馬さんが遣ってきて、うちへ上がるなり鞄からわたくしの貸した本を取り出しました。ずいぶんと速読なのか、それともわたくしの貸した本が彼の嗜好に合わなかったのだろうか、などと憶測しましたが、彼はこのように云ったのです。片仮名が少ないのはよいが、今度は言葉や表現が古く、こちら中国でも使わなくなったような時代遅れの漢語が出てきて、読むに堪えない、夏なんとかという作家の書いたものなどは漢字の使い方からして出鱈目である、ああいうのを中国語では「(マア)(マア)(フー)(フー)」と云うのだ、と。
 わたくしは面前で我が国を代表するほどの某作家を侮辱されていい気はしませんでしたが、同時にふとあることを思いつきました。しかし、それはあまりに荒唐無稽で、突飛で、それこそ「(マア)(マア)(フー)(フー)」なことでしたから、わたくしは馬さんにそのことを伝えずにおきました。わたくし自身もそれはあくまでただの思いつきで、まさかそれを実行に移す日が来るとは思いもしませんでした。
 それから半年後、上海では万国博覧会が真っ盛りの時期でした。わたくしは三度目の失業を経験しました。期せずして時間がぽっかり空いてしまった自分は、最初のうちは何をするにも面倒でただうつうつとした日々を過ごすばかりでした。気分転換に黄山でも登りにいってみようかと思ったこともありましたが、その頃の天気は朝方晴れていたかと思えば午後から急に雨模様となったり、晴れたら晴れたで今度は息をするのも苦しいほどの蒸し暑さになったりで、いつの間にか外へ出るのも億劫な体になってしまっていたのでした。床に投げ出されたままの中国語の教科書は手に取る気にもなりませんでしたし、読書でもしようと思っても家にある本は全て読んでしまっていましたし、靴下の穴も全て針と糸で塞いでしまっていましたので、もう何もすることが見つかりませんでした。本来なら早く新しい就職先を探すところですが、それもやはり生来の面倒臭がりから、しばらくお預けにしておきたいと思ってしまうのでした。ときが来れば仕事のほうからわたくしを探しに追ってくるだろう、とのんびりなことを云っていました。こうしてわたくしは、茫漠とした退屈に包まれていったのでした。「吾輩ハ猫ニナル」という作品は、この退屈という名の肥沃な土壌から、わたくしの格好の暇つぶしとして生まれたものなのであります。
 わたくしは今まで小説を書いたことなどありません。ただ、読むことは好きでした。小説を読み続けるうちに、一度は自分でも書いてみたいと思うようになり、勢いにまかせて小説めいたものを拵えてひっそり世に公開したこともありました。一ヵ月後にその場を訪れてみますと、全く読まれた形跡がありませんでした。わたくしはそれを自分で読み返してみました。それは本当に読むに堪えない代物でした。わたくしは慌ててそれを削除しました。誰にも読まれていなくて本当によかったと思いました。
 馬さんがあのとき図らずもわたくしに与えてくれた暗示のようなものが再び頭をもたげたのは、わたくしの精神が退屈に埋もれて死に至ろうとする手前のことでした。その暗示のようなものとは即ち、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、ということでした。そのような需要に応えようとした小説は、わたくしの知る限り存在しません。そのような小説が書かれることが、この世に必要とされていたのです。暗示はわたくしの中で明示されました。ここにわたくしは、需要と供給が一致することを見出したのであります。わたくしの消えかかっていた精神は、再び人並みの活気を取り戻しました。自分でも不思議なぐらい力が湧いてきたのでした。この時わたくしは勝手ながら、その需要に応えるという淡い使命感のようなものさえ抱いてしまったのです。
「吾輩ハ猫デアル」という小説は、どなたもご存知かと思います。あのとき馬さんによってこっぴどく批評された人によって書かれた、初めての小説です。わたくしはこの作品を愛読しておりましたので、軽率にもそれをもじって、「吾輩ハ猫ニナル」という題名にさせていただきました。題名はこうしてすぐに決まったのですが、内容のほうは一向に空っぽのままでした。会社の業務日報の書き方であれば心得ておりましたが、小説の書き方となるとそう単簡にはいかないのです。
 わたくしは近くの公園へ出かけて、猫をよく観察しました。さて、どうやって猫になったものでしょう。猫はいつも何を考えているのでしょう。そもそも猫に()()というのは、一体どういうことなのでしょう。草むらに足を踏み入れて、小声で「にゃー」と云ってみました。(ひと)()のない所で四つん這いになってみました。それでも、わたくしには何の発想も浮かんできませんでした。
 そんなある日、わたくしの上海での唯一の日本人の知人である、藤本という男から電話があって、飲みに行こうと誘われました。彼はわたくしに、日本の土産を持ってきてくれました。七福神の顔を模した人形焼でした。彼は上海のとある学校で中学生に日本語を教えているのですが、一週間ほど前に中国人の生徒を連れて日本へ旅行に行ってきたというのです。彼はその旅行中の学生たちの反応を、わたくしに面白おかしく語って聞かせました。わたくしはその日も小説と猫のことで頭がいっぱいだったものですから、実のところ何を聞いても上の空でした。
 ところが、その中で彼が話した一人の青年の話だけは、妙に耳に残っていました。ひょっとすると、これは小説になるかもしれない……。そう思ったのは、深夜に天山路と馬当路

群像 2014年 06月号 [雑誌]

群像 2014年 06月号 [雑誌]

横山悠太(よこやま ゆうた)
1981年岡山県生まれ。岡山城東高校卒業。日本語教師などを経て、現在は留学生。2014年「吾輩ハ猫ニナル」で第57回群像新人賞受賞。

〈作品〉「吾輩ハ猫ニナル」2014年群像6月号。