愛する娘は、バケモノでした。

中島哲也監督の新作『渇き。』。
本作は6月27日に封切られ、賛否両論を巻き起こしている。
その原因は、R15+指定とは思えないほどのバイオレンス描写だ。
今まで観た映画で最悪。自分の脳から消し去りたい」「気持ち悪くなったし気分が悪くなった」といった意見が出る一方で、「映画の力を感じる」と絶賛されるなど、意見が真っ二つに割れている。
事態に対し、監督はメッセージを発表した。

中島哲也メッセージ全文>

人間の愛と、憎しみの感情は決して対極にあるものではない。
日々を生きながら、そして「告白」という映画を作りながら強く感じたその気持ちは、僕の次なる映画のテーマになりました。
映画『渇き。』
僕が初めて、どうしても撮りたい、撮らなければならないと思った映画です。
この映画の主人公は、暴力でしか人とつながれない。でも、つながった途端、その人を傷つけ、壊し、失ってしまう。
そんな人間の孤独は悲劇であり、喜劇です。ロクデナシの父・藤島とアクマの娘・加奈子の愛と憎の物語をぜひ劇場でご覧下さい。
グロ過ぎたらホントに申し訳ありません。
『渇き。』監督 中島哲也

本作のキャストは主演の役所広司を始め、小松菜奈(本作で映画デビュー)、オダギリジョー中谷美紀など。

原作は、第3回「このミステリーがすごい!」大賞を受賞した深町秋生の『果てしなき渇き』である。

 プロローグ


 濡れそぼった顔をタオルで拭いて、エンジンをかける。
 フロントウィンドウの水をワイパーで一掃させる。風の勢いを借りた雨滴は、間断なくウィンドウを叩きつづける。視界は限りなくゼロに近く、暗闇とあたりの照明が溶け合っている。
 無線で通信センターに連絡。旅行で無人となっている契約者の家の窓がきちんと施錠されていなかった。暴風雨で窓が開け放たれ、警報機が誤作動したことを伝える。今夜だけでなんべん、同じせりふを唱えただろうか。
 八月。早い台風シーズンの訪れだった。夜になってからはいっそう、湿気と熱気がひどくなっていた。警備員の男にとっては、かつてない忙しさとなる。風に吹き飛ばされた木切れや鳥が、ビルや住居のガラスを直撃する。センサーが頻緊に異常を告げる。つめているべき事務所には、夕方の出所以来、一度も戻ってはいない。
 目の下には大きく隈が浮かんでいる。夜勤が身体にこたえるようになった。ハンドルを片手で握り、凝り固まった肩をほぐす。アクセルを踏む足がひどくだるい。目の奥にしこりのようなものを感じる。焦点を合わせるのにさえ苫労する時もある。歳をとった。男は諦観したようなため息をついた。
 無線がまた新たな警報作動を知らせる。心はすっかりうんざりしていたが、マイクを取って了承する。全員がフル稼動で動いているため、文句もいえない。飯を食う暇さえもない。時間はすでに深夜二時を過ぎている。
 ファイブマーケット深作店。二十四時間営業のコンビニ店だ。男がいる東大宮から目と鼻の先。国道十六号に近い住宅街の中にある。無線は、すでに最寄りの警察署に通報済みだと告げる。馬鹿野郎が。知った顔の連中と面を突き合わせるかもしれないと男は思う。
 区画整理中の新興住宅地にいたる。コンビニのオレンジ色の照明が雨粒越しにうっすらと見えてくる。紫の誘虫灯の隣で、警報作動を示す赤色ランプが回転している。駐車場に車が二台、店の軒下にはスクーターが停めてある。
 ヴァンを駐車場に停め、後部座席に転がしておいたヘルメットをかぶり、ドアを開ける。真横に吹きつける雨が音を立てて風防に当たる。濡れていたシャツの袖が、さらに水を吸って肌にまとわりつく。
 うなじの毛が逆立つ。
 大雨の中、店のガラスドアが開け放たれている。リノリウムの床は濡れ、入口近くに置いてあった新聞は風雨によって黒く変色している。人気はない。カウンターには店員すらもいない。雨ざらしとなっている己に気づき、足を踏み入れる。装備品として差していた腰の警棒を抜く。泥除けマットを踏みしめると雨水が染み出る。
 男は息をひそめて近づき、カウンターの中を見下ろす。はっとした。
 赤い制服をはおった青年がうずくまっている。はいているブルージーンズが黒く変色している。床は血溜まりができている。レジとカウンターには、赤いペンキを指で塗りたくったような跡がある。レジスターは開けっぱなし。小銭があたり一面にばらまかれている。
 男はカワンターに身を乗り出す。声をかけようとして思いとどまる。濃い血液と排泄物の動物的な臭いが鼻を襲う。青年の腹は制服とその下のTシャツごと大きく裂かれ、あふれ出た内臓を抱えるようにして背を丸めている。抵抗の跡を示すかのように制服のいたるところを切られ、ちぎられ、腕や胸にも深い切り傷が赤く大きく口を開け、脂肪とピンク色の肉を露出させている。
 背後の棚に置かれていたはずのゲームソフトやDVDが床の血に浸っている。凄惨な様子とは裏腹に、店内は能人気なポップスとおでんの香りが満ちている。煮物と生々しい死の臭いに、男は吐き気を覚える。
「おい」
 男は青年に駆け寄る。その途中で、店の奥で横倒しになった人らしき頭に気づく。茶色い髪を束ねた中年女性が床に投げ出されている。ノースリーブと、ショ−トパンツという簡素な格好。籠が放り出され、乾きもののツマミやペットボトルだのが散乱している。
 膝をついて声をかける。同時に顔をしかめざるを得ない異臭に気づく。血走った眼球が、眼窩からせり出している。床に届きそうなほど垂れ下がった舌。首には紫のうっ血を示す紐状の痕がある。股間がびしょびしょに濡れている。
 男は店内を半周する。乳製品の棚に寄りかかった眼鏡の少年。糸の切れた操り人形のようにだらりと手足を伸ばしたまま微動だにしない。白かったであろうコットンのタンクトップは、赤黒く変色している。首には大きな裂け目がある。まるで妖怪の微笑み、胸にはいくつもの穴が穿たれ、あたりはスプレー缶を破裂させたように血のしぶきに染まっている。赤い雫を滴らせた菓子パン、牛乳、チーズ、コーンフレーク。
「誰か」
 死体には免疫がある。だがそんな男の声にも、不安と恐怖の色が混じる。しのびよる悪夢を振り払い、バックヤードの扉を蹴る。得体の知れない昂ぶりと恐怖を覚える。コンクリと鉄骨がむき出しとなった狭い倉庫だ。ジュースやカップ麺の段ボールが山のように積まれている。何者も存在しないことを確認し、安堵し、落胆する。ヘルメットの風防を開けて、額から垂れる汗を袖でぬぐう。
 スーパーカブのエンジン音が近づく。彼はバックヤードを出る。二人の制服警官が見えた。黒い合羽を着た若い警官は、入口で石のように固まっている。もう一人は、腹のせり出した三十代の警官。見知った頗だ。駅前の派出所につめている。
 彼に向かってうなずく。若い警官がカウンターの中の店員を見やり、少女のような金切り声をあげる。中年警官が無線機のマイクを握りながら切迫した声を出す。数十分後には、駐車場はあふれんばかりの警察車両で埋まることになるだろう。
 男は憂鬱になる。機捜隊、それに捜一や所轄。はたしていくつの顔と出くわすだろうか。店を出て、血と臓物と排泄物の混じった殺人の臭いから逃れる。店を出て豪雨の中を突っ切る。ヘルメットをはずして中の無線マイクをつかむ。激しい雨音をかき消すように、騒々しいサイレンの音が耳に入ってきた。

      1

 目に汗が入りこむ。
 藤島秋弘は袖で顔をぬぐった。太陽とアスファルトの照り返しが、容赦なく身体をあぶりつづけていた。汗は、くっきりと路上に映った藤島の影の上に藩ちた。さいたま市内、大成町の大型ショッピングセンターの一角。店の入口近くに設けられたATM内の現金を回収する。回収するのは若い中川の仕事だ。
 身長百八十センチの藤島が警棒を握り、それとなく周囲を威圧しながら警戒に当たった。ヘルメット、ジャケット、ホルスターのフル装備が、暑さをさらなる地獄へと変えていた。
 店の玄関に吊るされている風鈴が、自動ドアが開くたびに涼しげな音を奏でた。遠く離れた公園から秋の訪れを示すかのように、蜩がはかなげに鳴いた。特売日の夕暮れ時だ。数百台は収容できるであろうコンクリートの平原は、陽炎を昇らせながらやって来る車の波で埋めつくされていた。中がそばを通り過ぎるたびに、身震いするほどの熱気を投げかけていく。中川が現金をケースに入れ、ATMに施鍵した。銀色の輸送車に乗りこむ。
 冷房を全開にさせた。ガラス越しの紫外線が肌を突き刺した。ブルーの制服が汗でにじみ、まだら模様をつくっていた。煙草をくわえ、車内を燻蒸した。充満する汗の臭いをニコチンのカビ臭さで中和した。二人とも口数は少ない。たとえ現金の回収が終りったところで、今日は通しの夜勤が侍っている。
 沈黙に耐えきれなくなったのか、中川はラジオをつけた。藤島はうんざりした。偶然とはいえ、ラジオのニュースショーはあの事件について語っている。
 三名が惨殺されたコンビニ強盗事件だった。もしくは強盗に見せかけた大量殺人。一週間がすでに経過しているが、警察は容疑者の特定にはいたっていなかった。ラジオはそれほど多くを語らずに次の話題に移った。早くもニュースとしての価値は薄れつつあるのだろう。消費されるセンセーショナル。少額の金のために三人もの人間を無差別に殺害した。警察が匂わせ、それに呼応するようにマスコミはアジア系外国人の犯行を示唆していた。それもいつのまにか立ち消えになりつりあった。事件は外国人への偏見、排斥だのといった問題にすり替えられつつあった。
「刑事、今日もまた来てるんじゃないですか」
 中川が口を開いた。
「どうだろうな」
 藤島はただ虚ろな目で外を見やり、心ここにあらずといった調子で答えた。
「結局のところ、犯人、誰なんすかね」
「さあな」
「おれ、やっぱ外人だと思いますよ。売上げ、八万程度だったらしいじゃないすか。そんなはした金で三人殺すなんて、うちらの感覚じゃふつう無理でしょ。なに考えてんすかね」

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