第152回芥川賞候補その3 - 高橋弘希「指の骨」

 黄色い街道がどこまでも伸びていた。
 その道がどこへ繋がっているのか、私は知らない。サラモウアには繋がっていないのかもしれない。しかしいずれにせよ、我々はその道を歩くしかなかった。
 尤も、私はもう歩くことを止めていた。街道沿いの、一本の欅に似た樹木の下に身を預けて、目の前を通り過ぎていく、虚ろな人々を眺めていた。人々は重い荷物でも背負うかのように、身体をやや前屈みにして、足の裏で、黄色い土を擦るようにして、ゆっくりと歩いていた。長い影を引き連れて、その影が、あるとき足首へと縮んでいく。人間のほうが、前方へと倒れているのだ。そして、ドサリ。影と人間が、重なり合う。人間はもう動かない。影だけが、日時計のようにして、人間の周りを動く。
 私の腹の上には、小さな鉄の塊があって、私はそれを、両手で強く握り締めていた。あたかもそれが、私の魂であるかのように。そして背囊のどこかにあるだろう、指の骨のことを思った。アルマイトの弁当箱に入った、人間の、指の骨。私はその指の骨と、指きりげんまんをしたのだ。
 やはり私は、あの夜の穴で死ぬべきだったのだろう。鉄片で腹をやられて死ぬべきだったのだろう。それが果たせなかったから、私の運命は、この黄色い街道と結びついてしまったのではないかと、今では思う。

 あの穴の中で、私は左の肩口に焼けつく重みを感じていた。その場所に触れてみると、ぬるりと温かいものが掌に伸びた。掌は、赤い泥で汚れていた。繃帯包から三角巾を取り出し、腋の下から肩口へ、幾重にも巻きつけた。結び目の片方を強く噛み、もう片方を右手で持ち、思い切り引く。溜息のような呻き声が、自然と口から洩れた。顔中に、脂汗がふつふつと噴き出す。焼けつく重みは、骨が割れる激しい痛みに変わっていた。その痛みは心臓の拍動に合わせて、遠のいたり近づいたりした。
 タコ壺の近くで榴弾がギャンと弾けると、頭上から、赤土やら、小枝やら、乾いた椰子の葉やらが、ぼたぼたと落ちてくる。やはり私は死ぬだろうか、そう思った。死ぬ役割を担っているのだから、やはりここで死ぬだろうか。かつての級友でもある古谷は、その少し前に死んでいた。古谷の死体は、頭の半分を無理やり捥がれた姿で、草地に横たわっていた。叩きつけたような血痕が、数米も草地に伸びていた。私もあのようにして死ぬだろうか。小銃を抱きかかえ、穴の中で蹲っていた。
 日暮れを前にして、銃声と砲声は途絶えた。イスラバの山腹は静まり返り、私は逆に死の気配を感じた。音も無く、私が蹲る穴に、死が近づいていると。片手で鉄帽を押さえつつ、穴の縁からそっと顔を出した。
 耳元で二発、銃声が轟いた。撃たれたのは、私ではなかった。前方のタコ壺の縁で、田辺分隊長が銃剣を握ったままうつ伏せに倒れていた。軍服の背には赤い染みが広がっている。田辺分隊長に銃口を向けた姿で、一人の濠軍兵が草地に立っていた。濠軍兵は、まだ私に気づいていなかった。私は穴の中で槓杆を握り、穴の中で遊底を動かした。銃口を、穴の外へ出そうとしたとき、銃身が上につかえた。痛みのために、私の左腕は大きく震えていたのだ。情けない金属の音が、穴の外に響く。その物音で、濠軍兵は顔だけをこちらへ向けた。その年若い白人兵はきょとんとして、穴の縁から顔を出す私の姿を、青い瞳で見つめていた。私は引鉄を引いた。銃弾は若者の白い首の根に減り込み、彼は英語で鳥の鳴き声のように何か喚き、血液の溢れる首筋を掌で押さえたまま、後方へと倒れた。死んだ。西日の草地に黒い血が広がっていく。私はそれを見届けると、再び穴の中へと引き返した。
 赤道も越えた南島の密林の奥地で、日没を迎えた。一人用の狭く薄暗いタコ壺の中は、次第に自分の掌すら見えない、濃密な闇で浸されていった。しかし少しすると、頭上の椰子の葉の向こうに月が昇った。月の白い光の中に、紅色に染まった肩口の三角巾が見えた。一方で掌の血は凝固しており、黒ずんだ砂鉄の色をしていた。私は月光の下に、生の血の匂いと、砂鉄の匂いを、同時に感じていた。土の壁からは、植物の細長い根が幾つか顔を出していた。穴の底には、大量の薬莢、煙草の吸殻、褐色の椰子の葉、赤土の塊が散乱している。
 私は何度かタコ壺から這い出ようと試みたが、失血のためか、身体に力が入らなかった。片腕で、自分の体重を持ち上げることができない。友軍の部隊が私を見つけてくれることを願ったが、私を見つけるのは濠軍兵かもしれなかった。濠軍兵に見つけられた場合、私は穴の中で自決せねばならない。一つだけ残していた手榴弾を、血で汚れた両手に握り締めた。九九式手榴弾は、栓を抜いて信管を打撃すれば四秒で炸裂する。そのときは鉄の塊を腹に抱え込んで、団子虫のように身体を丸め込もうと思った。四秒間、何も考えてはいけない。自分の温かい腹が暗い穴の底で破裂する光景を描いてしまえば、私は一つしかない手榴弾を穴の外へ放り投げてしまうかもしれない。タコ壺は、前日の夜に私自身が掘ったものだった。この穴で死ねば、自分で自分の墓穴を掘ったことになるな、そう思い一人苦笑した。そして腹に手榴弾を抱えたまま、穴の底で浅い眠りについたのだ。

 明くる日、陽光に満たされて意識を取り戻した。目の前に、青く濃い、南方の空が広がっていた。ときに人影が、私を覗き込み、人影が消えると、また空が広がる。人々の話し声が、どこか遠くのほうから聞こえた。腹の手榴弾はどこへいっただろう。しかし身体を動かすことができなかった。

新潮 2014年 11月号 [雑誌]

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指の骨

指の骨

高橋弘希(たかはし ひろき)

1979年青森県十和田市生まれ。文教大学卒業後、大手予備校講師として勤務。また自身が所属するオルタナ系ロックバンドにて、作詞、作曲を担当。作品多数。2014年「指の骨」で第46回新潮新人賞受賞。

〈作品〉「指の骨」2014年新潮11月号。