第154回芥川賞受賞作1 異類婚姻譚(いるいこんいんたん) - 本谷有希子

 ハコネちゃんは、もぐもぐ口を動かしながら言った。
 そうだ、おねえさん、蛇ボールの話、知ってます? 私、それ、何で読んだのかなあ。昔、誰かに教えてもらったんだっけかなあ。二匹の蛇がね、相手のしっぽをお互い、共食いしていくんです。どんどんどんどん、同じだけ食べていって、最後、頭と頭だけのボールみたいになって、そのあと、どっちも食べられてきれいにいなくなるんです。分かります? なんか結婚って、私の中でああいうイメージなのかもしれない。今の自分も、相手も、気付いた時にはいなくなってるっていうか。うーん、でも、それもやっぱ、違うのかなあ。違う感じもするなあ。
 ふーん、蛇ボール、ねえ。私はうろこでびっしり覆われたまっ白な球を思い浮かべながら、白米の上に載った蒲焼きを箸の先でつついた。なかなか鋭い結婚観だねえ。
 あれっ、そうですか。自動販売機で買った焙じ茶で、喉を潤しながらハコネちゃんは言った。でも、それって蛇が同じスピードで相手を呑み込んだら、の話ですから。私とセンタだと、私が向こうをひと呑みにしちゃうかもしれない。
 なるほどねえ、と私は七味のたっぷりかかった蒲焼きをロの中に放り込んだ。浜名湖の鰻のほうが、三河のものより身がしまって、しっとりしているな、と思った。


 ハコネちゃんの話には、ひそかに感心させられた。
 というのも、これまで私は誰かと親しい関係になるたび、自分が少しずつ取り替えられていくような気分を味わってきたからである。
 相手の思考や、相手の趣味、相手の言動がいつのまにか自分のそれに取って代わり、もともとそういう自分であったかのように振る舞っていることに気付くたび、いつも、ぞっとした。やめようとしても、やめられなかった。おそらく、振る舞っている、というような生易しいものではなかったのだろう。
 男たちは皆、土に染み込んだ養分のように、私の根を通して、深いところに入り込んできた。新しい誰かと付き合うたび、私は植え替えられ、以前の土の養分はすっかり消えた。それを証明するかのように、私は過去に付き合ってきた男たちと過ごした日々を、ほとんど思い出せないのである。また不思議なことに、私と付き合う男たちは皆、進んで私の土になりたがった。そして最後は必ず、その土のせいで根腐れを起こしかけていると感じた私が慌てて鉢を割り、根っこを無理やり引き抜いてきたのだった。
 土が悪いのか、そもそも根に問題があるのか。
 旦那と結婚すると決めた時、いよいよ自分がすべて取り替えられ、あとかたもなくなるのだ、ということを考えなかったわけではない。
 が、結婚して四年経った今も、私は旦那という土から逃げ出そうとはしていない。蛇ボールの話をハコネちゃんから聞かされて、私はこれまでずっともやもやしていたことが、ようやく腑に落ちたと感じた。恐らく私は男たちに自分を食わせ続けてきたのだ。今の私は何匹もの蛇に食われ続けてきた蛇の亡霊のようなもので、旦那に呑み込まれる前から、本来の自分の体などとっくに失っていたのだ。だから私は、一緒に住む相手が旦那であろうが、旦那のようなものであろうが、それほど気にせずにいられるのではないか。
 駅前の豆腐屋の店先で、蚊取り線香が焚かれている。
 ショーケースに並んだ卯の花やがんもどきを覗き込むふりをしながら、私はその煙を鼻から吸い込んだ。懐かしい匂いのせいなのか、なぜか、心底ほっとした。
「何してるの、それ。」
 夕食後珍しく、旦那が点けっ放しのテレビではなくiPadに夢中になっているので、気になって手元を覗き込んだ。
「ん?」
「ゲーム?」
「ゲーム。」
「どんなゲーム?」
 少し待ってみるが、返事はない。諦めて食器を片付け、風呂に入り髪を拭きながら戻ってくると、旦那はさっきと同じ体勢のまま、ソファに座っている。
 「ねえ、お風呂空いたよ。」
 分かった、というくぐもった声が聞こえたが、見事なまでの空返事である。髪を乾かし、昼間干しておいた洗濯物を取り込むためにベランダへ出た。手擦りの向こうに数本まとめて植えられている欅が、伸びすぎた髪の毛のように緑の葉を生い繁らせている。集合ポストの中に、植栽の剪定のお知らせのチラシが入っていたことを思い出した。
 リビングの床に座って、洗濯物を畳んでいると、ようやく旦那が、「これさあ、ウワノが勧めてきたんだけどさあ。」と声をかけてきた。
「ウワノね。最近仲いいね。」
「サンちゃんもちょっとやってみな。おもしろいから。」
「やだよ、私、ゲーム好きじゃないもん。」

「俺も最初、同じことウワノに言ったんだって。ほら。」
「洗濯物、畳んでるの。」
「そんなんゾロミにやらせりゃいいんだよ。ほら、ゾロミ。やってあげな。」
 旦那は隣で寝ていたゾロミをどかし、手招きした。いつもならここまでしつこく誘わないので、今口は甘えたい気分なのだろう。
 旦那はむしろ、一刻も早く、私と蛇ボールになりたがっているように見える。バラエティ番組を観る時も、一人で観るより楽しいからと、しっこいぐらい私を付き合わせるのは、自分に注がれる私の冷ややかな視線を消してしまいたいからに違いない。私と旦那が同化すれば、もう他人はいなくなるとでも思っているのだろう。
 仕方なくソファに座り、iPadの画面を覗き込んだ。何かよほどすごい最新のゲームなのかと思っていたら、昔のファミコンのような単純な線で描かれた海と大陸らしき光景が広がっていて、そのほうぼうに色の異なる小さな円がピカピカ光っている。
「これは何?」私が尋ねると、「あ、それね、コイン。」と肩を回しながら、旦那は答えた。
「で、このコインをどうすればいいの?」
 触ってみな、と言われ、私は指先で茶色のコインを押してみた。チャリンチャリン、とさっきから引っきりなしに聞こえていた貯金箱に小銭を落とすような音がして、何か起こるのだろうかと身構えたが、それだけだった。
「何これ。何も起こらない。」
「画面の下のほう。ちゃんと見た? お金貯まってるでしょ。」
 言われた通り画面の右下を見ると、確かに数字が記されている。
「お金を集めるゲームなの?」
 私が聞くと、旦那はつまみのスルメをしゃぶりながら、「そお。」と浅く頷いた。
「敵は出てこないの?」
「は? 敵? 出てこないよ。」
「お金を集めて、どうするの?」
「お金が集まったら、自分の土地が買えるんだよ。」
「土地を買って、それで? どうするの?」
「土地があれば、またそこにコインがピカピカ光るでしょ。」
「光るの?」
「光るの。そしたら、それを集めて、またお金を貯められるんだよ。そしたら、また土地が買えるの。」
 私は何も言わなかったが、空気を感じ取ったのだろう。スルメを口から出しながら、旦那は「サンちゃんは主婦だからなあ。」と偉そうに言った。
「家じゃなんにも考えたくないって男の気持ちが分かんないんだよなあ。」
「何をそんなに考えたくないの?」


本谷有希子 もとや・ゆきこ
1979年石川県生まれ。2000年より「劇団、本谷有希子」を主宰。作・演出を手掛ける。07年『遭難、』で第10回鶴屋南北戯曲賞を受賞。09年『幸せ最高ありがとうマジで!』で第53回岸田國士戯曲賞を受賞。11年小説『ぬるい毒』で第33回野間文芸新人賞、13年『嵐のピクニック』で第7回大江健三郎賞、14年『自分を好きになる方法』で第27回三島由紀夫賞を受賞。

異類婚姻譚

異類婚姻譚

群像 2015年 11 月号 [雑誌]

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