マイナス金利 - 徳勝礼子
5 円を犠牲にしてもドルが欲しいと円金利はマイナスに円負債のある日本企業はドルを買うより借りる邦銀を筆頭とする本邦企業がドルを入手する場合、ドルを買うか、借りるかのいずれかの方法がある。それほど差がないように見えるかもしれないが、この二択の経済的意味合いは全く異なる。
まずドルを買ったとして、邦銀はそのドルで国際ビジネスを行う。具体的には融資などの形で資産を買うことになる。一方で、邦銀はバランス・シートの負債側に円預金を持っている。資本も円建てだ。ドルを(円で)買ってしまうと、バランス・シートの資産と負債の通貨が異なり、為替リスクをまるまるとってしまう。為替は年間10%以上簡単に動くため、そのようなリスクをとることはできない。たとえ仮に長期的なドル高見通しがあったとしても、それはあくまで見通しであり、実現するとは限らないし、短期的に逆方向に相場が動くことも十分にあり得る。これに対しドルを借りたとすると、ドルの負債を持つことになる。借りたドルでドル資産を買うことによって、為替リスクは損益に対する分だけに限定される。
邦銀は円預金を取らないわけにはいかない。したがって、為替リスクの回避という観点から、ドル資産に投資するためにはドルを買うのではなく、借りなければならない。
ドルを借りるために円を貸すではドルをどうやって借りてくるか。ドル圏に現地法人や支店があればそのドル預金を使うこともある程度は可能だ。しかし、それだけでは足りない。ドル調達のために活用されている手法は大量にある円を貸してドルを借りてくる、「貸し合い」である。何もなくてドルを借りるよりも、貸し合いの方がお互いに少ないリスクで取引ができる。
貸し合いの場合、後で返済し合うこともしなければならないので、為替市場でバイセル(Buy-sell)と呼ばれる取引を行う。ドルを調達したい邦銀は、まず「スポット」と呼ばれる現時点でドルを買い円を売る。同時に、「フォワード」と呼ばれる将来時点で元本を金利込みで返済し合う約束をする。
この時、大量に円はあるがドルがなかなか手に入らなければ、円を貸す時の金利をうんと低くしてもいいからドルを借りたいと考える。この場合、「貸し合い」とはいえ、円は貸しているというよりも、経済的には担保として差し入れるような位置づけになってしまうわけだ。
したがって、このような取引における円金利は、円市場内で取引されている水準よりも相当低いものになりやすい。要するに円金利を値引きするわけである。
逆にいうと、円を貸してドルを借りる時にドルの借り料が割高になっていることから、「ドル調達プレミアム」が付いているとも表現できる。「ドル調達プレミアム」はこの値引き幅(円を単独で借りる時の円金利と、貸し合う時の金利の差)を指している。
大量に円がある状況は、2013年の日銀の異次元緩和導入後「マネタリー・ベースを2年で2倍にする」という流動性拡大政策の下で加速的に進行した。一方で、 FRB はテーパリングと呼ばれる量的緩和を縮小する政策に転じた。この流動性供給の変化の差は、ドル調達プレミアムが急拡大することにつながった。それ以前の2010〜12年においては FRB も相当な量的緩和を行っていたため、ドルの流動性の供給も増加しており、相対的な意味でのドル不足は現在よりも軽度なものであった。
ドル調達プレミアムが発生している中で、円を貸してドルを借りる「貸し合い」をすると、実際に邦銀がどれだけの金利で円を貸し、ドルを借りることになるかをみてみよう。異次元緩和が始まった2013年4月、Libor(ライボ)と呼ばれる代表的な銀行間金利での円金利は 0.15% 程度で、一方、ドル調達プレミアムは3か月満期で 0.1% 程度だった。円を貸す邦銀が受け取る円金利は 0.15% − 0.1% = 0.05% となる。
ドル調達プレミアムは2014年6月ごろからじわじわと拡大し、9月には 0.3% になった。Liborの方は淡々と低下を続けて、そのころ 0.1% になっていた。貸し合いの円金利は 0.1% − 0.3% = マイナス 0.2% ということになる。邦銀が「貸した円資金についてマイナス 0.2% の金利を受け取る」ということは、すなわち、「貸した円資金についてプラス 0.2% の金利を支払う」ということだ。海外投資家の立場からいえば「借りた円資金についてプラス 0.2% の金利を受け取る」ことになる。お金を借りているのに、金利をもらっている状態である。
この時、円の金利は単独ではマイナスになっていない。しかし、ドル資金と貸し合うという取引をすることで、円の金利が実質的にマイナスになってくるのである(図表1-8)。
実はこの取引関係は、先ほどのレポ取引やレンタル料と借金の逆転例に通じるものがある。国債の借り料やレンタル料の方が金利よりも高くなるようなスペシャルな銘柄の国債や着物があった場合、ネットの金利はマイナスになる。同じように、円に対してドルはスペシャルなのである。
徳勝礼子(とくかつ れいこ)
BNPパリバ証券債券調査部レラティブ・バリュー・アナリスト
1986年東京大学経済学部卒、1991年米シカゴ大学MBA(統計)。英モルガン・グレンフェル(現ドイツ証券)をはじめとしてソロモン・ブラザーズ・アジア証券(現シティグループ証券)、ドイツ証券などに勤務し、マーケット業務にリサーチ側から従事。途中2005〜07年はバークレイズ・グローバル・インベスターズ(現ブラックロック)においてポートフォリオ・マネージャーも務めた。2014年から現職。CFA協会認定証券アナリスト。目次
- 作者: 徳勝礼子
- 出版社/メーカー: 東洋経済新報社
- 発売日: 2015/11/27
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序
章マイナス金利からの 警告
第
1
章なぜ世界的に マイナス金利が 発生しているのか 1 強制的にマイナス金利を導入した欧州の中央銀行
2 付利が政策金利の主役になった
[COLUMN1] 裁定とは
3 モノもお金も欲しい人が少なければ“値段”が下がる
4 日本の信用リスクはドルを借りる時に試される
5 円を犠牲にしてもドルが欲しいと円金利はマイナスに
6 マイナス金利がマイナス金利を呼ぶメカニズム----国債のコモディティ化
7 お金の値段を下げる異次元の金融と財政緩和
第
2
章マイナス金利の 序盤戦である 金利低下 1 マイナス金利はファンダメンタルかテクニカルか?
2 経済成長があるから金利がある
3 成長とインフレがどちらも趨勢的に低下
4 成長にこだわる社会のしくみ
5 低金利は低成長を招く
6 財政のつじつま合わせとしての低金利
第
3
章マイナス金利の世界へ ようこそ
第
4
章密かに進む 金融・経済の浸蝕
第
5
章ジャパン・プレミアムが 映す日本経済 1 ジャパン・プレミアムとは
2 為替フォワードとクロス・カレンシー・ベイシス
[COLUMN2] 為替フォワード・トリビア
3 ジャパン・プレミアム事始め
4 日本の格下げ時のジャパン・プレミアム
5 サブ・プライム危機とユーロ危機時のジャパン・プレミアム
[COLUMN3] ドルはどこへ行った?――米国MMFの最新事情
6 円キャリー・トレードの盛衰とジャパン・プレミアム
[COLUMN4] 円キャリー・トレード、具体的にはどうやるの?
7 金融緩和がジャパン・プレミアムの根源に
終
章マイナス金利と マイナス成長の循環は 避けられるか? 1 低成長を受け入れなければマイナス成長が加速する
2 ゼロ成長を受け入れて幸せになるには?あとがき