「読まなくてもいい本」の読書案内:知の最前線を5日間で探検する - 橘玲

リンゴはなぜ赤いのか?

 フッサール現象学は、最後の大哲学者ハイデガーに引き継がれた。ハイデガーの『存在と時間』はフッサールよりさらに難しくて、日本でも“秘教的(カルト的)理論”が好きなひとたちに人気がある。でも現象学はそこからどんどん先細りになっていって、いまではほとんど顧みられることもない。自然科学の立場から意識を研究するひとたちも、デカルトにはしばしば言及するがフッサールハイデガーは完全無視だ。これは、「意識の還元」という方法論が行き詰まって、どこにも発展しようがない袋小路に落ち込んでいるからだ。
 とはいえ、「哲学の最高峰をパックマン一つで否定するのはあんまりだ」と思うひともいるだろう。そこで次に、現象学的還元などしなくても、進化生物学によって意識の謎が鮮やかに説明できることを示そう。
 リンゴを現象学的に還元すると、「赤」という純粋意識を取り出すことができる。では、リンゴはなぜ赤く見えるのだろうか。実はこの問いは、フッサールが思いもかけなかった方法で解くことができる。
 植物にとっての最大の制約は地面に固定されていることだ。自分の周囲でだけ繁殖を続けていては近親交配の弊害が避けられず、(山崩れなど)大きな環境の変化によってかんたんに絶滅してしまう。進化は、この難問をなんらかのかたちで解決した遺伝子を自然選択したはずだ。
 風媒花は花粉を風に乗せて遠くに飛ばし、虫媒花は蜜で昆虫を呼び寄せて受粉を媒介させようとする。それに対してリンゴなど果実を実らせる植物は、鳥や哺乳類などに種子を含む果実を食べさせ、遠く離れた場所で糞をさせることで、自らの遺伝子を遠くまで運ぶ戦略を採用した。
 植物が効率的に種子を拡散するには、よりたくさんの果実を食べてもらわなければならない。同時に果実食の動物たちは、森のなかで効果的にエサをみつける能力を身につけたはずだ。すなわち、(ここでは)植物と動物の利害は一致している。
 植物が、エサがあるというシグナルを動物に送るもっともシンプルな方法は、嗅覚と視覚を刺激することだろう。こうして多くの果実は熟すと甘い匂いを発するようになるが、色で目立つにはどうすればいいのだろうか。
 植物は光合成のため多くの葉を茂らせなければならず、森の背景色は常に緑になる。そのときにもっとも目立つのは、緑の反対色(補色)である赤やオレンジだ。
 このようにして、植物は種子がじゅうぶんに育つと果実を赤く変色させ、動物たちを誘うように進化した。動物たちは、マズくて栄養価の低い緑色の果実を避け、甘く熟した赤い果実だけを素早く見つけて食べるよう進化した。この“共進化”によってリンゴはますます赤くなり、(ヒトを含む)果実食の動物は色覚を発達させてそれを“赤”と識別するようになった。
 これは進化論の強力な説明能力を示す見本で、フッサール現象学では(というか、いかなる旧来の哲学でも)こんな論理を導き出せないし、そもそも「リンゴはなぜ赤いのか?」という問いを立てること自体、思いつくことができない。ところが進化論は、これ以外にも、「ひとはなぜ老いるのか?(思春期に繁殖能力を最大化するため)」「病気はなぜあるのか?(ウィルスと免疫との“軍拡競争”)」「神はなぜいるのか?(脳のシミュレーション機能の自然への拡張)」など、哲学が問うことすらできなかった問題に次々と「回答」を与えている。
 クリックは「哲学者は二〇〇〇年間、ほとんどなんの成果も残していない」と宣告したが、その理由は、(因果論と直観でつくられた)古いパラダイムで考えられることが、ソクラテス仏陀孔子の時代にすべて考えつくされているからだ。進化論や脳科学が切り開いた新しいパラダイムを知らなければ、そこから先へと進むことはできないのだ。


橘玲 たちばな・あきら
作家。1959年生まれ。国際金融情報小説『マネーロンダリング』(幻冬舎)でデビュー。投資、経済、社会時評に関するフィクション、ノンフィクションのどちらも手がける。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方2015』、小説『タックスヘイヴン』(共に幻冬舎)、『(日本人)』『残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法』(共に幻冬舎文庫)、『バカが多いのには理由がある』(集英社)、『臆病者のための株入門』『臆病者のための億万長者入門』(共に文春新書)、『橘玲の中国私論』(ダイヤモンド社)等、著書多数。

目次
はじめに なぜこんなヘンなことを思いついたのか?
1 複雑系

1 ― 一九七〇年代のロックスター
2 ― 「フラクタル」への大旅行(グランドツアー)
3 ― 世界の根本法則
追記 複雑系とカオス
ブックガイド
2 進化論
4 ― 一〇分でわかる「現代の進化論」
5 ― 「政治」と「科学」の文化戦争
6 ― 原始人のこころで二一世紀を生きる
ブックガイド
3 ゲーム理論
7 ― 合理性とMAD
8 ― 「行動ゲーム理論」は世界の統一理論か?
9 ― 統計学ビッグデータ
ブックガイド
4 脳科学
10 ― 哲学はこれまでなにをやってきたのか?
11 ― フロイトの大間違い
12 ― 「自由」はどこにある?
ブックガイド
5 功利主義
13 ― 「格差」のある明るい社会
14 ― 社会をデザインする
15 ― テクノロジーユートピア
ブックガイド
あとがき

本書に登場する文献等
1 複雑系 ブックガイド 2 進化論 ブックガイド 3 ゲーム理論 ブックガイド 4 脳科学 ブックガイド 5 功利主義 ブックガイド