茶色のシマウマ、世界を変える - 日本初の全寮制インターナショナル高校ISAKをつくった 小林りんの物語 - 石川拓治

2014年8月、長野県の軽井沢町に新しい高校が誕生した。
普通の高校ではない。
第一に、生徒は日本国内だけでなく、アジア圏を中心に世界中から募集する。
第二に、生徒全員が寮生活をする。
第三に、授業は原則としてすべて英語で行う。
つまり日本で初めての全寮制インターナショナルスクールなのだけれど、第四に、学校教育法の第一条に基づく正式な日本の高等学校でもある。その名をインターナショナルスクール・オブ・アジア軽井沢、略してISAK(アイザック)という。


この高校は世界のすべての子どもたちに向かって開かれている。
本当の意味で、日本人と外国人が一緒に学ぶ日本の高校なのだ。
日本に近代的学校教育制度が生まれて140年、前代未聞の学校と言っていいだろう。
これは、そういう学校をつくった、一人の女性についての物語だ。

1 「ナウシカの人」と出逢う。
 新しい学校をつくろうとしている女性がいる。
 最初に知ったのは、文章にすればただそれだけの事実だ。
 「学校って、つくれるものだったのか」
 頭に浮かんだ感想も、単純そのものだった。
 ただ、なんと言えばいいか、心の中をざわざわと風が吹き過ぎていったことを、よく覚えている。世界に風穴が開いたような気がした。
 2011年の秋という時節のせいもあったと思う。
 あの大震災から半年、何かことが起きるたびに、あるいは何も起きないがゆえに、この日本という国の政治や行政の脆弱性に暗澹たる気持ちにさせられていた。
 何もかもが、ちくはぐで、的外れだった。身も蓋もないことを言えば、この国には、こういう時に発揮されるべきリーダーシップの片鱗も見当たらなかった。
 たくさんのボランティアと人々の関心、莫大な義援金が被災地に集まっていた。世界第3位の経済規模の日本が、もしその国力をあげてことに当たっていれば、この災害がもたらした被害をもっと速やかに回復できないはずはない。少なくとも、人々の苦しみを大幅に軽減できるのではないか。多くの人が、そう感じていたはずだ。
 ところが、肝心のその国力が、ほとんど何も発揮されていなかった。
 政府は言い訳をし、政治家たちは言い争いをするばかりで、少なくとも私の目には、本当に必要なことが、十分になされていないように見えた。
 百歩譲って、平和な時はそれでもいい。
 けれど、何かことが起きれば、彼らだって一致団結して、この傷を癒やすべく、困っている人々を速やかに助けるべく、リーダーシップを発揮してくれるのではないか。心のどこかで、そういう淡い期待を抱いていた。
 淡い期待は、ほぼ完膚なきまでに裏切られた。
 それだけに、一人の女性が新しい学校をつくろうとしているという話に心を揺さぶられたのだと思う。
 遠回りのようだけれど、それこそが、こういう今の日本を変えられる数少ない可能性なのではないか。
 その人が女性であるということ以外は何も知らないうちに、どんな学校をつくるのかも聞かないうちから、頭は勝手なイメージを思い描いていた。
 宮崎駿映画の主人公のような女の子だ。あるいはミヒャエル・エンデの童話に登場する少女、時間泥棒から時間を奪い返すモモのような。
 灰色に塗りつぶされた社会に押し漬されることなく、みんなのためにやらなければならないことに真っ直ぐ立ち向かっていく、正義感と生命感にあふれた少女のイメージだ。
 いや、本気でそういう女性に会えると思ったわけではない。それはもちろん現実とはなんの関わりもない、個人的な空想に過ぎない。
 ただ、そういう空想をして、日頃の憂さを一瞬だけ晴らしただけだ。
 空想は、いつも現実に裏切られる。
 それくらい、よくわかっていた。


 私が彼女に初めて会ったのは、2011年11月1日のことだ。
 ある編集者から、その人の物語を書いてみないかと打診されたのだ。
 場所は、千代田区内幸町にある投資顧問会社の会議室。
 約束の午後3時を過ぎていたけれど、彼女はまだ姿を現していなかった。
 地下鉄霞ヶ関駅から歩いて数分の、大手銀行の支店が入っていてもおかしくないような巨大なオフィスビルの6階に、その投資顧問会社はあった。
 ニューヨークの法律事務所みたいなそのエントランスや、身のこなしに隙のない美しい秘書、案内された会議室の洗練されたインテリアを眺めれば、その会社がどれくらいの社会的信用や力を持っているかは想像ができた。
 同時に、まだ会ってもいないのに、学校をつくろうとしているその女性への興味も、少し薄れるような気がした。
 いずれにしても、一人の女性が学校をつくろうとしているという話は、この現実的な力を背景にしているのだ。お金さえあればなんでもできるとは、言わないけれど、それなりの資金力があれば、学校をつくるという話は、少なくとも荒唐無稽な夢ではないはずだ。
 案の定なんて言ったら、相手に失礼なのはわかっている。ナウシカやモモのような少女を勝手に想像したのは私なのだから。
 けれど、とにかく彼女たちの出番はそこにはなさそうだった。
 前の晩にインターネットでざっと予習したその女性の経歴から考えれば、もちろんそれはわかっていたはずのことでもある。


 1990年 東京学芸大学附属高等学校入学
 1991年 同校を中退し、カナダのピアソン・カレッジに入学
 1993年 国際バカロレアディプロマ資格取得
 1994年 東京大学文科二類入学
 1998年 東京大学経済学部卒業
 1998年 モルガン・スタンレー日本法人勤務
 2000年 インターネット系ベンチャー企業 ラクーン取締役・悄報戦略部長就任
 2003年 国際協力銀行JBIC)勤務
 2005年 スタンフォード大学国際教育政策学修士号取得
 2006年 国連児童基金(UNICEF)プログラムオフィサーとしてフィリピンのストリート・チルドレンの非公式教育に取り組む
 2009年 インターナショナルスクール・オブ・アジア軽井沢(ISAK)設立準備財団代表理事就任


 なかなかの経歴だ。
 最高の輝きを放つべく計算されたブリリアントカットのダイアモンドのように、傷のない美しいキャリア。
 親の人脈や人間関係などに頼ることなく、生まれ持った高い知性を努力で磨き、人格の力を発揮して獲得したポジション。
 しかもその間にその女性はほぼ完璧な英語を身につけ、スペイン語も同じくらい流暢に話せるようになっているらしい。
 こういうキャラクターをもし小説の登場人物にしたら、少しつくり過ぎだと批評されるかもしれない。ジブリ映画向きでもない。
 もっとも、そういう経歴の日本人が彼女以外に存在しないわけではない。というより、このタイプの経歴は、現代日本のエリート層のひとつの典型でもある。
 わかりやすくいえば、東京大学をはじめとする側差値の高い日本の大学を卒業し、外資系企業、あるいは国連機関に就職し、数年で退社し、アメリカやイギリスの有名大学の大学院で修士号や博士号を取得し、そこで培った業績や人脈を生かしてさらにキャリアアップしていくというような生き方だ。
 早い話が、その投資顧問会社の代表、谷家衛もそういう一人と言っていい。
 彼は留学こそしていないが、灘高から東大法学部、ソロモン・ブラザーズ・アジア証券(現ソロモン・スミス・バーニー証券)マネーシング・ディレクター、チューダー・キャピタル・ジャパン運用担当ディレクターを経て、2002年にチューダーに対するMBO(経営陣買収)を行い、あすかアセットマネジメントCEO(当時)に就任した。
 ちなみにソロモン・ブラザーズは、ウォール街の帝王と呼ばれたアメリカの投資銀行だ。
 谷家は彼女がつくろうとしている学校、ISAKの設立発起人で、その日の取材にも同席することになっていた。
 つまりこれは、どこにでもいる普通の女性が、新しい学校をつくろうとしているというような話ではないのだ。
 おそらくは学校をつくるというプロジェクトと資金があらかじめ存在して、スタンフォード大学の教育学修士号ユニセフのオフィサーとしての経歴を買われた彼女が、その学校の設立準備財団の代表に抜擢されたという話なのだろう。
 投資顧問会社の空調の効いた会議室で、人間工学に基づいて設計されたらしい極めて快適な椅子に座り、女性を待ちながら、私はそういうことを考えていた。
 それだけに、彼女の第一印象は予想外だった。


 約束の時間に遅れたことを、猛烈な早口で詫びながら、大きなバッグを肩にかけ、髪の毛を振り乱して会議室に入って来た彼女は、そんなことがあるのかというくらい、私が空想していた通りの架空の少女のおもかげを宿していた。
 最初の30分で、すっかり彼女の熱に感染していた。
 その時すでに一人の男の子の母親となっていた彼女は、少女と呼んでいい年齢ではもちろんなかったのだけれど。
 空想は、現実に裏切られる。
 けれど、いつも裏切られるわけではない。


石川拓治(いしかわ・たくじ)
1961年茨城県水戸市に生まれる。早稲田大学法学部卒業後、フリーランスライターに。著書に『奇跡のリンゴ』『37日間漂流船長』『土の学校』(幻冬舎文庫)、『三つ星レストランの作り方』『国会議員村長』『新宿ベル・エポック』(小学館)、『ぼくたちはどこから来たの?』(マガジンハウス)、『HYの宝物』(朝日新聞出版社)などがある。

プロローグ
第1章 世界のために何かをしたい。
第2章 世界の果てで自分と出会う。
第3章 日本を知り、天命を知る。
第4章 学校づくりの夢が動き出す。
第5章 壁を乗り越える。
第6章 ISAK開校