『古代への情熱』
語学の天才といわれたシュリーマンの語学習得法はいたってシンプルだ。もっとも、その方法を教えてもらったところで、実際にやり遂げられるかどうかは本人の資質によるのだが。
私はどんな言語でもその習得を著しく容易にする方法を編み出したのである。その方法は簡単なもので、まず次のようなことをするのだ。大きな声でたくさん音読すること、ちょっと翻訳をすること、毎日一回は授業を受けること、興味のある対象について常に作文を書くこと、そしてそれを先生の指導で訂正すること、前の日に直した文章を暗記して、次回の授業で暗誦すること、である。(シュリーマン・関楠生訳『古代への情熱』新潮文庫)
発音の訓練はこんな感じで行なったらしい。
できるだけ早く速くよい発音を身につけるために、日曜には定期的に二回、イギリス教会の礼拝式に行き、説教を聞きながらその一語一語を小さな声で真似てみた。(前掲書)
また繰り返し読んで暗誦することの重要性を強調していた。
使いに行くときはいつも、雨が降るときでも、手に本を持って行って、少しでもそれを暗記した。郵便局で待っているときにも、本を読まないことはなかった。(中略)そして三カ月後にはもう、あらかじめ三回注意深く読んでおけば、毎日どの授業時間にでも先生のミスター・テイラーとミスター・トンプソンの前で、印刷した英語の散文二十ページを、やすやすと言葉どおりに暗誦できるようになった。(前掲書)
シュリーマンの暗記は徹底していた。
こういうやりかたで、私はゴールドスミスの『ウェークフィールドの牧師』とウォルター・スコットの『アイヴァンホー』を全部そらで覚えてしまったのである。頭がひどく興奮していたために夜も少ししか眠らず、夜起きている時間はすべて、晩に読んだものを頭の中でもう一度くり返してみることに使った。記憶力は日中より夜のほうがはるかに集中しやすいから、私はこの夜の反復練習にもきわめて大きな効果を認めた。この方法はだれにでもおすすめしたい。かくして私は、半年の間に英語の基本的知識をすっかり身につけることができたのである。(前掲書)
その後、同じ方法を使ってシュリーマンはフランス語を習得する。
同じ方法を私はフランス語の勉強にも適用して、この言葉も次の六カ月でマスターした。フランス語の作品ではフェヌロンの『テレマコスの冒険』とベルナルダン・ド・サン=ピエールの『ポールとヴィルジニー』を暗記した。
英語、フランス語の学習に半年かかっていたシュリーマンが、続いて学んだオランダ語、スペイン語、イタリア語、ポルトガル語においては、流暢に話したり書いたりできるまでに、なんと六週間以上かからなかったというから驚く。
ロシア語の勉強でシュリーマンは再び『テレマコスの冒険』を援用した。
私はロシア語ができればもっと有用な存在になれると思ったので、この言語をも勉強し始めたのだ。ロシア語の書物で手に入れることができたのは、古い文法書と辞典と『テレマコスの冒険』のまずい翻訳本だけであった。さんざん骨を折ってはみたものの、ロシア語の先生を見つけることはうまくゆかなかった。というのも、ロシアの副領事タンネンベルク氏はロシア語を教えることを承知してくれなかったし、当時アムステルダムには、彼以外にロシア語が一語でもわかる人は一人もいなかったのだ。それで私は先生なしで新しい勉強を始め、幾日もたたないうちに、文法書によってロシア文字とその発音を頭の中に叩き込んだ。それからまた以前のやりかたを踏襲して、短い作文や物語を書いてはそれを暗記した。書いたものを直してくれる人はいなかったのだから、それがへたくそだったことは疑いない。しかし私は、『テレマコスの冒険』のロシア語を暗記することによって、実用練習で誤りを避けることを覚えようと努力した。だれかにそばにいてもらって、その人に『テレマコスの冒険』を話して聞かせることができれば、進歩が早くなると思ったので、私は貧しいユダヤ人を一人、週四フランで雇い、ロシア語はひとこともわからないその男に、毎晩二時間私のところへこさせてロシア語の朗読を聞かせた。
(中略)
大声でする私の朗読が、まもなく他の間借人たちにはやりきれなくなって、家主に苦情が持ち込まれた。それで私は、ロシア語の勉強の間に二度も住いを変えなければならなかった。しかしこんな不便もものかは、私の勉強熱心は少しもおとろえず、六週間後にはもう、インド藍を扱う豪商、モスクワのM・P・N・マルティン兄弟商会のロンドン代理人ワシーリー・プロトンコフ氏に、はじめてのロシア語の手紙を書くことができたのだ。また、この人や、藍の競売でアムステルダムにきていたロシア商人マトヴェーイェフやフローロフなどと、ロシア語で流暢に語り合うこともできた。(前掲書)
その後の現代ギリシア語の習得でシュリーマンは『ポールとヴィルジニー』を再び使った。
語彙の習得はロシア語のときよりむずかしく思われたが、それを短時日で果たすために、私は『ポールとヴィルジニー』の現代ギリシア語訳を手に入れて、それを通読し、この際、一語一語を注意深くフランス語原文の同意語と対比した。この一回の通読で、この本に出てくる単語の少なくとも半分は覚え、それをもう一度くり返したのちには、ほとんど全部をものにした。しかも、辞書を引いて一分たりとも時間をむだにするようなことはしなっかったのである。このようにして六週間という短い期間のうちに、現代ギリシア語をマスターすることに成功し、それから古典ギリシア語の勉強に取りかかった。(前掲書)
それからシュリーマンは自身のライフワークに欠かせない古典ギリシア語の習得に励み始める。
そして三カ月後には古代の二、三の著作家と特にホメーロスを読めるのに十分な知識を獲得した。ホメーロスは、夢中になって何度もくり返して読んだ。
それから二年間、私はもっぱら古代ギリシア文学に没頭した。この間、ほとんどすべての古典作家に一通り目を通したが、『イーリアス』と『オデュッセイア』は何回も読み返した。ギリシア語文法は格変化と規則動詞および不規則動詞だけを覚えた。一瞬たりとも、文法規則の勉強で貴重な時間をむだにはしなかったのである。というのは、すべての子どもたちがギュムナージウムで八年間ずっと、いや、ときにはもっと長い間、退屈な文法規則に悩み苦しんだあげく、ギリシア語の手紙を一通書けば、何百ものひどいまちがいを犯さずにはすまないことを私は見てきていたから、学校で行われている勉強法はまったくまちがっていると考えざるをえなかったのだ。私の考えでは、ギリシア語文法の根本的知識は、実地練習、つまり古典の散文を注意深く読むことと模範的作品を暗記することだけで身につけることができる。私はこのきわめて簡単な方法に従って、古典ギリシア語を生きた言語のように学習したのである。だから私は、決して言葉を忘れることなく、完全にすらすらと書き、どんな対象についてもらくらくと思うことを表現することができるのだ。文法書に記載されているかどうかを知らなくても、私は文法の規則はすべて熟知している。だれかが私の書いたギリシア語の文章の中に誤りがあると言いだすようなことがあれば、いつでも私は古典作家を引用し、私が使ったのと同じ言い回しの出てくる個所を読みあげて、私の表現の正しさを証明することができる。(前掲書)
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