私の履歴書(鳥羽博道-16)

 コロラドを始めた一九七〇年代前半、日本の経済成長と共にコーヒー一杯の値段は毎年のように値上がりしていった。諸資材や人件費が上がるのだから至極当然だ。この事を不思議に感じる人は業界に殆どいなかった。
 危機感の強い私は、値上げをしていくうちに、お客様がやがてその値上げを受け入れなくなる時があるのではないか、将来の喫茶業は、そして焙煎業はどうなるんだろうという不安が起こってきた。
 一方、一つの業態には寿命がある。やがてコロラドという業態の寿命が尽きた時に、オーナーの方々に「次はどうしたらいいんですか」と問われた時「私は分かりません」などと無責任な事は言えない。次の時代に来るものを今のうちに見極めなければいけないという焦燥感があった。
 その時、取引先の生豆商社が欧州に焙煎業や喫茶業を勉強に行くツアーを企画してくれた。焙煎業や喫茶業が何百年も前から存在した国々の歴史をたどれば、何かのヒントがある筈であると考えた。
 八力国を二十四日間で回ったうち、最も強い印象を残したのがフランスだ。「何でも見てやろう」と思っていた私は、他の参加者が朝食を取っている間もパリの街を歩いた。シャンゼリゼ通りを凱旋門へと歩いていると、地下鉄の出口からはき出されたサラリーマンが斜め前の喫茶店に入っていく。私もつられて店に入った。左のカウンターを二重三重に囲み、立ってコーヒーを飲んでいる。右のテーブル席には老人が一人。外のテラス席には誰もいない。
 その頃の日本にはまだ立って飲み食いする習慣がなかった。ファストフードも立ち食いそばもまだ少なく、立って飲み食いする様な子供は行儀が悪いと母親にお尻をひっぱたかれた。立ち飲みといえば駅のスタンドのコーヒー牛乳くらいだったのではないか。
 そのパリの店は、例えば立ち飲み五十円、テーブル百円、テラス百五十円という具合に価格を分けている事も分かった。心の中で「これだ!」と思った。喫茶業の最終形態は立ち飲みだ。日本の喫茶業の将来を予見できた。
 西ドイツのデュッセルドルフには、産業機械の見本市を見学に行き日曜日に着いた。そのため初めて見る欧州最大のコーヒーショップチェーン「チボー」は定休日だった。他の参加者は「仕方無い」と通り過ぎたが私は一人、ガラスに額を付け、風景の反射を手で遮り、無人の店内を隅から隅まで観察し脳裏に焼き付けた。店には挽き売りのコーナーがあった。「日本でもコーヒー豆を家庭で消費する時代が来る。この変化に対応した焙煎業者だけが成功する」。一つの方向性を見定めた。
 スイスで最初に訪れた焙煎会社は伝統的な建物を赤や緑など明るい色で塗り分けていた。コンクリートやブロックがむき出しの日本の工場も、こうしてカラフルにすればもっと楽しく働ける筈だと感じた。次の工場は極めて近代的で、中庭に芝生を植え、中からガラス越しに外の樹木が見える。全体が清潔で、木製の階段にはワックスをかけ、顔が映りそうなくらいピカピカに磨き上げていた。
 スイスの二工場では、宝石を扱うが如くコーヒー豆を扱っているのであった。そうだ、将来私も、社員が「早く行って働きたい」と思う様な工場を作ろうと重要な三つの示唆を受けて帰国の途に就いた。


---日本経済新聞2009年2月17日