服従 - ミシェル・ウエルベック

 それはその通りだった。人間中心主義という言葉を聞いただけで微かに吐き気を覚えるし、でも、それはミニパイのせいだったのかもしれない。食べ過ぎたのだ。ぼくはミニパイを消化するためにムルソーをもう一杯飲んだ。
 彼は続けた。
「考慮すべき点は、多くの人たちが、そのような問題には関わることなく生きているということで、実際、人々は、そのような問題はあまりにも哲学的だと考えています。彼らは、自分が深刻な出来事、重い病気や家族の死などに直面したときにしかそれについて考えません。もちろん西欧では、ということですが。というのも、世界の他のあらゆる場所では、こうした問題のために人が死に、人が人を殺し、血で血を洗う争いをしているのですし、人類の歴史の最初からそうなのです。形而上学的な問題のために人間は闘っているのです。成長率のためでも狩猟のテリトリーを取り合うためでもありません。西欧においても、現実には無神論はしっかりしたべースがあるわけではありません。わたしが神の話を人にするときには、天文学の本を貸すことから通常は始めます……」
「確かにこれらの写真は大変に美しい」
「ええ、宇宙の美は驚くべきものです。それから、その巨大さも人を呆然とさせます。何千億の星からなる何千億もの星雲が存在し、その幾つかは何十億光年も離れていますが、それはキロメートル単位では何千億に何十億をかけた膨大な距離なのです。そして、十億光年のレベルで、ある秩序が構成されるのです。星団が別れ、複雑なグラフを作り上げます。これらの科学的な事実を、通りを歩く百人の人に無差別に聞いてみて下さい。どれだけの人が、それらは『偶然に』創られたのだと正面切って主張するでしょうか。それに、宇宙は比散的若いのです。せいぜい、百五十億年に過ぎません。有名な、タイプを打つ猿の論議がありますね。チンパンジーがタイプライターのキイを偶然に叩いて、シェークスピアの作品を再び書くにはどれだけかかるのか? まったくの偶然が再び宇宙を構築するにはどのくらいの時間がかかるのか? 確実に、百五十億年以上でしょう! そして、それは単に一般人の物の見方ではなく、偉大な科学者たちの意見でもあるのです。人類の歴史の中で、アイザック・ニュートンより明晰な精神はおそらくなかったでしょうね。例外的に突出した知性の努力を考えてみて下さい。地上の物体の落下と惑星の動きを同じ法則に統合させるなんて! そして、ニュートンは神を信じていて、それも固く信じでいました。晩年を聖書解読に捧げた程です。聖書は彼にとって真にアクセス可能な唯一の聖なるテキストだったのです。アインシュタインもまた無神論者ではありませんでした。もちろん、彼がどのような信仰を持っていたかは定義するのはより難しいですが。しかしボーアに反論して『神は骰子遊びはしない』と言ったとき、彼は冗談を言っていたわけではなく、宇宙の法則が偶然に司どられているとは彼には考えがたかったのです。ヴォルテールが、反論の余地がないと判断した『時計職人としての神』の論議は、十八世紀と同じくらい強く残っていました。この考えは、科学が天体物理学と粒子のメカニズムの間にますます緊密な関係を織りなすようになってからはさらに正当性を増したのです。だいたい、どこにでもある星雲の広げた腕の先にある、無名の惑星の上に住むこの虚弱な生きものが、小さな手を挙げて『神は存在しない』などと主張するなど、少しばかり馬鹿げているところがあるのではないでしょうか。いや、すみません、つい長くなりました……」
「いえとんでもない、本当に興味深いです」とぼくは真剣に言ったが、そろそろ酔い始めていたのは否定できなかった。ムルソーの瓶にちらりと眼をやると、瓶は空だった。
「確かに、ぼくの無神論は確乎とした土台の上にあるわけではありません。ぼくが無神論を標榜するのは思い上がりというものでしょう」
「思い上がり、というのは正しい言葉ですね。無神論の人間中心主義の根本には傲慢、途方もない慢心があります。それに、キリスト教でいう受肉の概念なんかもそうでしょう。神の子がイエスという人間の姿で現れるなんて。それならばシリウス星人やアンドロメダ星雲の住人に姿を変えても良いのではないでしょうか」
 ぼくは驚いて話を遮った。
「あなたは宇宙に生命があると信じるのですか」
「わかりません。それほどしばしば考えるわけではないのですが、単に計算上の問題です。宇宙に存在する無数の星とその星の周りを回る数々の惑星を考慮に入れると、地球だけに生命があると考える方がおかしいですから。しかし、そんなことは重要ではありません。わたしが言いたかったのは、宇宙は確実に、インテリジェンス・デザインの徴を帯びているということで、それは巨大な知性によって考えられたプロジェクトの実現なのです。そして、このシンプルな考えは、遅かれ早かれ人々の間に戻ってくるでしょう。わたしは若いときからそれを理解していました。二十世紀の知的な議論は、突き詰めれば、コミュニズム――つまり、人間中心主義の『ハード』なヴァージョンです――と自由民主主義――人間中心主義のソフトタイプ――の対立から成り立っていました。それはあまりにも単純に過ぎる議論ではないでしょうか。現在話題になり始めた宗教への回帰について、わたしは、十五歳の頃から、避けられない現象だと知っていました。わたしの家族はどちらかというとカトリックで――もっと遡るでしょうか、祖父母がカトリック教徒でした――ごく自然にわたしは最初はカトリックに戻りました。それから、大学の一年目からアイデンティティー運動に近づいたのです」
 ぼくは明らかに驚いた顔をしていたに違いない。彼は話を止め、半ば笑みを浮かべてぼくをじっと見ていたからだ。同時に、誰かがドアを叩いた。彼がアラビア語で応えると、マリカが再び現れ、コーヒーポットとカップを二つ、それからピスタチオのバクラヴァとブリワットの皿が載ったお盆を運んできた。それからブハの瓶と二つの小さいグラスも載っていた。

服従

服従

本書に登場する人や物
人物 映画・TV
  • 『レ・ブロンゼ 日焼けした連中』――映画
  • 『プティルノーの小さな旅』――美食番組



最後に、本書をもっと深く味わうのにうってつけのブログ記事を紹介しておきます。
http://quentinuk.blogspot.jp/2015/02/submission-soumission-by-michel.html
この記事では、ユイスマンスをはじめ、本書に現れる人物、地理、食物などについて、ページを追って画像などのリンクなどを貼っているので、フランス文化に疎い日本人にとっては貴重な情報の宝庫と言って良いでしょう。これを横目に本書を読めば理解が何倍も深まること間違いなしです。(但し、仏語と英語なので悪しからず)