「悪者はどこにいるのですか」
「さしあたり臨淄にいる。だが、広よ、それは目に見える悪者で恐れるに足りぬ。恐れねばならぬ悪者は、目にみえぬところにいて、目にみえぬ悪事を働く。それをみぬく目をもつにはどうしたらよいか、わかるか」
「わかりませぬ。剣術が強くなれば、わかるのですか」
「それは、どうかな。たしかに心で相手を視なければ、相手の術に負ける。ほんとうの剣の使い手は、術を超えたところにある。だが、剣術はかならず相手がいるもので、相手がいなければその術は使えぬ。したがって、人やものごとの善悪をみぬくには、術ではなく、道をきわめねばならない」
老子曰く、道の道とす可きは、常の道に非ず」
「そうだ。欲望にとらわれない者だけが妙を観る。とらわれた者がみるのは徼にすぎぬ。老子の教えはほんとうの道を示し、孔子は狭い人の倫しか示しておらぬ。ゆえに儒教の教義にあるのは徼だ」
 徼という老子の哲学用語は、形而下の現象と結果という意味をもつ。かつて斉の国都であった臨淄は、諸子百家の淵藪であった。そのなかでも老荘思想が主流で、斉王室もその思想を享受した。老荘思想道教ともよばれることになるが、田氏は儒教を好まず老荘思想を好んだので、学問の嫌いな田横でも老子のことばは暗誦することができる。

香乱記〈1〉 (新潮文庫)

香乱記〈1〉 (新潮文庫)

引用部は、まだ王になる前の田横とその息子広が冤罪事件の黒幕を見抜けないことについて語り合っている場面。
儒教の教義は「形而下の現象と結果」にある。故に田横は儒教を批判した。本書を読んで初めて、儒教道教に劣るという主張を知った。世に百説があるとおり、老荘思想が必ず儒教に勝るということにはないはずだ。とはいえ、田横のいう老荘思想の奥深さを吟味しておく必要があるのは確かだ。