やっつけ翻訳

ここ数日、『倒壊する巨塔〈上〉―アルカイダと「9・11」への道』を読んでいる。
ページが進むにつれ、へんちくりんな文に出くわす頻度が多くなってきたので、メモしておく。

一九八四年に釈放されたザワヒリは、実践に鍛えられた確信犯的過激派として社会に復帰した。


(前掲書 99; 第2章)

「実践鍛えられた」とは言葉足らずでなんとも気持ちが悪い。「実践鍛えられた」または「実践によって鍛えられた」の方が何倍も読みやすいし分かりやすいはずだ。

「きみに神のご加護があることを」


(前掲書 100; 第2章)

この文脈で「あることを」と書くのは非常に奇妙だ。「あらんことを」とすべきではないか。

 賢明にも強力な外国企業とさまざまに提携することで、ビンラディンは事業の多角化に成功した。


(前掲書 117; 第3章)

さまざまに」とは珍しい書き方である。正しい文法なのか。それならむしろ「さまざまな形で」あるいは「色々と」と訳すべきだろう。

野生のラベンダーが咲く野原を、マウンテン・ライオンがアラビア・オリックスにそっと忍び寄るといった光景が見られた時期もかつてあったのだ。


(前掲書 121-122; 第3章)

文中には「野原を」を受ける動詞が存在しない。まさか「野原を忍び寄る」なんて書き方が正しいとでも訳者は思っているのだろうか。

断食月の時期、生活の苦しい人々が王族や富裕層に嘆願することは王国の習慣であり、それは喜捨の気持ちをとりわけ親密かつ直接に表現できる行為とされていた。


(前掲書 123; 第3章)

ここで「嘆願する」もの(こと)はであるのか書かれていないので、意味が通らない。いっそうのこと「無心する」と訳してはいけないのか?

ムハンマドは一九五〇年の夏に、シリアはラタキア港出身の女性を妻として。


(前掲書 125; 第3章)

原文を参照していないので何とも言えないが、この文の終わり方がよく分からない。「〜として。」の続きが省略されているので、文意が伝わってこない。

この国はイスラム教にかんして、思考の幅が極端に限られているため、若者たちは深みのない精神世界で囚われの身となっていた。なにしろ若者にある選択肢はたったふたつ---より過激であるか、より過激でないかのどちらか---なのだ。


(前掲書 132; 第3章)

より過激であるか、より過激でないか」とはずいぶん安易な訳し方だと言わざるを得ない。先行する文で、思考の幅が限られていると書かれているのだから、ここは「過激度が強まるか、過激度が弱まるか」と訳した方が親切だし分かりやすい。


(検索用)倒壊する巨塔、ローレンス・ライト