ブラック・スワン - ナシーム・ニコラス・タレブ
ちなみに、本書のある一節を小飼氏が試訳している(以下)。ところが、小生にとってこの訳文はどうにも読みにくい。かような日本語を見ると辟易してしまう。
私の美的感覚は、詩を散文より、ギリシャ人をローマ人より、挟持を優雅より、優雅を教養より、教養を見識より、見識を知識より、知識を知性より、そして知性を真理よりひいきしてしまう。
この訳文を読む者は、主語から述語に辿り着くまでずーっと宙ぶらりんの状態で放置される。つまり、読者は「私の美的感覚」が一体どうするのかを知らぬまま、「AをBより、CをDより、EをFより、GをHより、IをJより、KをLより、MをNより、そしてOをPより」の箇所を読まねばならない。こゆのは日本語とは言えまい。こりゃ日本語の顔をした別の言語だ。
第1部 ウンベルト・エーコの反蔵書、あるいは認められたい私たちのやり口
作家のウンベルト・エーコは博学でものを見る目があり、人を飽きさせない数少ない学者の一人だ。彼は(三万冊にも及ぶ)膨大な蔵書を使って、やってくるお客を二種類に分類している。「おお!シニョーレ・プロフェッソーレ・ドットーレ・エーコ、大変な蔵書ですね! いったい何冊、お読みになったんですか?」という反応を示す人たちと、一握りのそうでない人たち、つまり、個人の蔵書は自尊心を膨張させる添加物ではなく、調査の道具だとわかっている人たちだ。
読んだ本は、読んでない本よりずっと価値が下がる。蔵書は、懐と住宅ローンの金利と不動産市況が許す限り、自分の知らないことを詰め込んでおくべきだ。歳とともに知っていることも本もどんどん積み上がっていく。読んでない本も増えていって、本棚から意地悪く見下ろしている。実際、ものを知れば知るほど読んでない本は増えていく。そういう読んでない本のコレクションを反蔵書と呼ぶことにしよう。
人間は知識を財産みたいに貯めたり、守ったりする。知識は序列を上げるために必要なお飾りなのだ。だから、読んだ本のほうに注目してエーコの蔵書のセンスを云々するのは、頭の奥深くに及ぶ、人間の生まれつきの偏りだと言える。自分が勉強していないこととか、経験を積んでいないこととかを並べた反履歴書を持って売り込んで回る人はいない (そういうことをするのは競争相手に任されている)。
でも、そういうのがあればいいのにと思う。蔵書の論理をひっくり返すのと同じように、知識そのものの論理をひっくり返すのだ。黒い白鳥は、びっくりするようなことがどれぐらい起こりやすいか、つまり読んでない本がどれだけあるかを読み違うことで生まれる。私たちは自分の知っていることを、ちょっと大げさにとりすぎるのだ。
読んでない本に焦点を当て、自分の知識をお宝や財産みたいな自尊心の増幅器として扱わない人、つまり懐疑的な実証主義者を「反学者」と呼ぶことにする。
第1部では、私たち人間が知識をどう扱うかという問題、そして私たちが実証的証拠よりも逸話のほうを好むという問題を検討する。第1章では、私自身の悩み事を通じて、その背後にいる黒い白鳥を示す。第3章で、ランダム性を二つに隔てる重要な区別を説明する。それから、第4章では黒い白鳥問題の原型を短く振り返る。つまり、私たちは目に映るものを一般化する傾向がある、という点だ。
そのうえで黒い白鳥問題の四つの側面を示す。具体的にけは、(a)追認の誤り、つまり蔵書のまだ手を触れられていない一角を不当にも過小評価する私たちの傾向(自分の無知ではなくて知識を追認してくれるものを探す傾向)を第5章で、(b)講釈の誤り、つまりもっともらしい説明や逸話で私たちが自分をごまかす傾向(第6章)、(c)私たちが推論を行うときに情緒が入り込むこと(第7章)、そして(d)物言わぬ証拠の問題、つまり歴史が私たちの目から黒い白鳥を隠すときの手口(第8章)だ。第9章は、ゲームの世界から知識を積み上げることの致命的な誤りを検討する。」
第1章 実証的懐疑主義者への道
黒い白鳥の解剖学。不透明の三つ子。本を後ろから読む。バックミラー。何でもわかりきったことになる。いつもドライバーに話しかけろ(でもちょっと注意が必要)。歴史は流れない、ジャンプする。「本当に予想外だった」。一二時間眠る。
これは自伝ではないから、戦争のシーンは飛ばす。実際、自伝だったとしても、やっぱり戦争のシーンは飛ばしただろう。そういうのはアクション映画や冒険家の回顧録のほうがうまいから、私は偶然と不確実性という自分の専門分野にしがみつくことにする。
黒い白鳥の解剖学
一〇〇〇年以上にわたって、地中海の東岸にあるシリア・リバネンシス、あるいはレバノン山と呼ばれていた地域には、一二以上の宗派、民俗、思想を持つ人たちが暮らしていた。そんな場所が魔法みたいにうまく回っていた。近東の内陸部にあるほかの地域よりも、むしろ(レヴァントと呼ばれる)東地中海の大都市に似ていた(山の多い地形なので、地上よりも水上のほうが動きやすかった)。
レヴァントの街は自然と商業が盛んになった。人びとははっきりした慣習に従ってお互いやりとりし、平和を保ち、それが商業を後押しした。人びとはコミュニティをまたいで交流していた。一〇〇〇年にわたって平和が続き、ときどき起こる小さな紛争は、ほとんどがキリスト教徒とイスラム教徒それぞれのコミュニティ内のいざこざで、キリスト教徒とイスラム教徒が争うことはめったになかった。都市は商業を中心とし、ほとんどがヘレニズム文化に属していた。
山岳地帯には、ビザンティン帝国とムスリムの両方の正統派から逃れてきたと称する、ありとあらゆる少数派宗教の信者が住んでいた。山岳地帯は主流派から追われた人たちの絶好の逃げ場となった。例外といえば、同じ岩場の物件を巡ってほかの難民と争うときぐらいだった。 文化や宗教がモザイク模様のように入り乱れ、共存のいい例になっていた。あらゆる種類のキリスト教徒(マロン派、アルメニア正教、ギリシャ・シリア正教、ビザンティン・カトリック、さらに十字軍の置き土産であるローマ・カトリックなど)、イスラム教(シーア派、スンニ派)、ドゥルーズ派、そしてユダヤ教がいくつか、そんな調子だ。
かの地では、寛容であることを学ぶのが当たり前になっていた。バルカン半島のコミュニティに比べて私たちはずっと礼儀正しくて賢明だと学校で習ったのを覚えている。バルカン半島の人たちはお風呂に入らないし、絶え間ない争いの犠牲になってきた。私たちが長い間、向上心と寛容の精神を持っていたおかげで、世の中は安定していて釣り合いがとれてぃるように思えた。「バランス」や「均衡」といった言葉がよく使われていた。
私の家族は、父方も母方もギリシヤーシリア系だった。北部シリアにビザンティン帝国が残した最後の前線基地で、今ではレバノンと呼ばれている地域を含むあたりの社会の出身だ。ビザンティン帝国の人たちは、自分たちをローマ人−−地元の言葉で Roumi(複数形は Roum)--- と呼んでいたことに注意してほしい。私たちの先祖はレバノン山の麓に位置するオリーブの産地に暮らし、有名なアムユーンの戦いでマロン派キリスト教徒を山岳地帯に追いやった人たちだ。先祖はそのアム
ユーンの村に住んでいた。
七世紀にアラブ人の侵略を受けてからも、私たちの民族はイスラム教徒の人たちと平和に商売をして暮らしていた。ときどき山岳部からマロン派キリスト教徒のレバノン人がちょっかいを出してくるぐらいだった。アラブの君主とビザンティン帝国が(文字どおり)入り組んだ取り決めをして私たちは両方に税金を払い、両方から庇護を受けた。
私たちはそうやって一〇〇〇年以上も平和に暮らし、血が流れることはほとんどなかった。一番最近起こった本物の災難といえば後期の十字軍で、アラブのイスラム教徒ではなかった。アラブ人たちは戦争(と詩)にしか興味がないみたいだったし、その後のオスマン・トルコは戦争(と快楽)にしか興味がないみたいで、商業なんていうつまらない営みや、(アラム語やギリシャ語の翻訳なんていう)毒にもならない学問は、私たちにやらせてくれた。
レバノンと呼ばれる国は、どの切り口から見ても、平和の楽園に思えた。二〇世紀のはじめにオスマン帝国が崩壊した後、私たちは突然この国に取り込まれた。また、レバノンは圧倒的にキリスト教徒が多くなるようにつくられた。住んでいる人たちはあっという間に洗脳されて、国民国家というあり方を信じるようになった。
キリスト教徒は、自分たちこそは、いわゆる西欧文明の発祥の地にして中心であり、しかも東方への窓口だと信じて疑わなかった。凝り固まった考え方の典型で、コミュニティ間で出生率が違っているのを誰も勘定に入れていなかった。キリスト教徒が少しだけ多い状態がずっと続くと考えられていた。
レヴァント人はローマ市民権を与えられ、おかげでシリア人の聖パウロは古代世界を自由に旅することができた。人は、つながりたいと思うものならなんにだってつながることができた。かの地は行きすぎなぐらい世界に向かって開かれていた。とても洗練された生活を送り、経済は栄え、気候はちょうどカリフォルニアみたいに暖かく、雪の積もった山岳地帯が地中海に突き出ていた。
あちらこちらから、スパイ(ソヴィエト側も西側も両方)、売春婦(ブロンド)、作家、詩人、麻薬の売人、冒険家、ギャンブル中毒、テニス・プレイヤー、アフター・スキー専門のスキーヤー、商売人、あらゆるプロが集まって、お互いの仕事を補い合っていた。昔のジェイムズ・ボンド映画みたいに振る舞っている人がたくさんいた。つまり、プレイボーイがタバコを吸ってお酒を飲んで、ジムヘ通う代わりに、いい仕立て屋に通っていた。彼らと仲良くなって、いい思いをするためだ。
そこには、天国っぽい要素がみんなあった。あそこのタクシーの運転手は礼儀正しいと言うわれていた(私の記憶だと、あの人たちは私にはちっとも礼儀正しくなかったけれど)。たしかに、みんなの追憶の中で、あの場所は、実際よりも天国に近いところになっているようだ。
私は若すぎたから、かの地を十分に楽しめなかった。反抗的な理想主義者になっていたし、とても早くから禁欲的だったから、富をひけらかすのも、露骨に贅沢を追い求めるのも、お金にこだわるレヴァント人の文化も嫌いだった。
ティーンエイジャーのころ、ジェイムズ・ボンドまがいの連中があまりいない大都会に住みたいと思っていた。でも、あそこには何か知的な空気が漂っていたのを覚えている。私が通ったのは、フランス系の高校だった。フランスのバカロレア(高卒資格試験)の合格率が一番高いところで、フランス語まで一番だった。あそこではかなり純粋なフランス語が話されていた。革命以前のロシアと同じように、キリスト教徒のレヴァント人と(イスタンブールからアレクサンドリアに住む)ユダヤ人の貴族階級は、差をつけるための言葉として格式ばったフランス語を喋ったり書いたりしていた。特権階級の中でも恵まれた人たちはフランスへ留学した。私の祖父が両方ともそうだった。父方が一九一二年、母方が一九二九年だ。
その二〇〇〇年前、言葉で差をつけようという同じ発想で、気取ったレヴァント人の貴族たちは、文章を書くときに地元のアラム語ではなくギリシャ語を使っていた。(新約聖書は、私たちの祖先の貴族が首都アンティオークで使っていた質の悪いギリシャ語で書かれている。おかげでニーチェが「神はヘタクソなギリシャ語を話す!」とわめくことになった。)ヘレニズム文化が衰退してからはアラビア語に走った。おかげでこの場所は、「天国」と呼ばれるのに加えて、「東洋」の文化と「西洋」の文化、なんて底の浅いレッテルが貼られているものが交わる奇跡の場所とも呼ばれるようになった。
やることをやることについて
私の頭の中身がだいたい固まったのは一五歳のときだ。学生の暴動でコンクリートの欠片で警官を攻撃し(たことにされ)て牢屋に放り込まれたのだった。おかしな巡り会わせで、私の祖父はそのころ内務大臣をしていて、私たちの反乱を鎮圧する命令にサインしたのがまさしく彼だった。飛んできた石が頭に当たった警官がパニックを起こし、私たちに向かってでたらめにぶっ放して、暴徒の一人が弾に当たって死んだ。私は暴動のど真ん中にいて、牢屋とご両親の両方を怖がっている友だちを尻目に、逮捕されてものすごく満足を感じたのを覚えている。私たちは政府を震え上がらせた。おかげで私たちは恩赦を受け、釈放された。
私は自分の意見に従って行動し、ほかの人を「怒らせ」たり苦しめたりするからといって一歩も引かなかった。おかげで、いくつかとてもいいことがあった。私は怒り心頭に達していて、両親(や祖父)が私のことをどう思おうが知ったことじゃなかった。それを見た彼らは私をとても恐れるようになった。だから、私も後へは引けなくなったし、ためらう素振りも見せられなかった。私は逃げも隠れもせずに反抗した。もしも暴動に加わったのを隠していて(友だちにはそういう人が多かった)、それを見つかったのだったら、私は間違いなく一族の面汚しという扱いを受けただろう。傾いた格好をして権威に逆らう---社会科学者や経済学者は「安手のシグナル」と呼んでいる---のと、自分は信条を行動に移せるのだと証明してみせるのは、別々のことなのである。
父方の叔父は、私の政治思想なんてどうでもよかった(ああいうのはころころ変わるものだから)彼はただ、私がそれを言い訳にだらしのない格好をするのが我慢ならなかった。彼にとって、品位を欠く近い親者は死刑にも値するのだ。
私が捕まったのがみんなに知れ渡ると、もう一つとてもいいことがあった。ティーンエイジャーらしい反抗的な外面を見せなくてもよくなったのだ。口ばっかりではなくて、いざとなったら行動に出る人間だと証明できたら、いつもはナイス・ガイで「話のわかる」人間でいたほうが、ずっと効果的なのがわかった。ときどき、誰も思ってもみないけれど完全に理があるときに、誰かを訴えたり敵を叩きのめしたりして、やるときにはやるのを見せつけていれば、普段は思いやりがあって礼儀正しくて穏やかな人間をやっていても大丈夫なのだ。
「天国」が煙と消える
銃弾と迫撃砲が数発飛び交って、レバノンの「天国」は一瞬で消えてなくなった。私が牢屋に放り込まれてから数カ月後、一三世紀近くに及ぶ素晴らしい多民族の共存の後に、どこからともなく黒い白鳥がやってきて、かの地を天国から地獄に変えた。
キリスト教徒とイスラム教徒が激しい内戦を始めた。パレスティナ難民もイスラム側に加わった。ひどいありさまだった。前線が街のど真ん中にあって、戦闘はだいたい居住地で起こったからだ(私の通っていた高校は交戦地帯から数百フィートのところにあった)。争いは一五年以上も続いた。あまり詳しいことは書かない。剣の時代ならちょっとした緊張ぐらいだったのが、銃や強力な兵器
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目次
- プロローグ
- 鳥の羽根の色
- わからないこと
- 専門家と「空っぽのスーツ」
- 学ぶことを学ぶ
- 新手の報われない人たち
- 日常はまったく日常的でない
- プラトンとオタクたち
- くだらなすぎて書けない
- 肝心なところ
- 章立ての見取り図
- 第1部 ウンベルト・エーコの反蔵書、あるいは認められたい私たちのやり口
- 第1章 実証的懐疑主義者への道
- 黒い白鳥の解剖学
- やることをやることについて
- 「天国」が煙と消える
- 星の降る夜
- 歴史と不透明の三つ子
どうなってるのか誰にもなんにもわからない
- 歴史は流れない、歴史は移る
- いとしい日記──歴史を後ろにたどる
- タクシーでの教育
- 塊
- 祭はどこだ?
- 八・七五ポンドの後に
- 勝手御免の四文字言葉
- リムジン哲学者
- 第2章 イェフゲニアの黒い白鳥
- 第3章 投機家と売春婦
- 最高の(最悪の)アドバイス
- 広げられるものにはご用心
- 拡張可能性の誕生
- 拡張可能性とグローバリゼーション
- 月並みの国の旅
- おかしなところ、果ての国
- 果ての国と知識
- 強い・弱い
- まぐれのなすがまま
- 第4章 千と一日、あるいはだまされないために
- 第5章 追認、ああ追認
- 第6章 講釈の誤り
- 第7章 希望の控えの間で暮らす
- 第8章 ジャコモ・カサノヴァの尽きない運──物言わぬ証拠の問題
- 溺れる信者の話
- 文字の墓場
- 億万長者になれる一〇のステップ
- ネズミのスポーツジム
- 意地の悪いバイアス
- もっと見えにくい応用
- 水泳選手の肉体の進化
- 見えるものと見えないもの
- 医者たち
- ジャコモ・カサノヴァ、テフロン加工風の転ばぬ先の杖
- 「オレはリスク・テイカーだ」
- 私は黒い白鳥──人間バイアス
- かりそめのなぜなら
- 第9章 お遊びの誤り、またの名をオタクの不確実性
- デブのトニー
- ブルックリンじゃないジョン
- コモ湖のほとりで昼ごはん
- オタクの不確実性
- 間違ったサイコロでギャンブル
- 第1部のまとめ
- 浅はかなものほど表に出る
- 霊長類からの隔たり
- 第2部 私たちには先が見えない