ぼくが葬儀屋さんになった理由 - 冨安徳久
テレビ東京の番組『カンブリア宮殿』で取り上げられた葬儀屋社長 冨安徳久の自叙伝。
読み始めてすぐ、文章の拙さが気になったが、それを我慢して読み進め、半ばを過ぎるころには自然と涙がこぼれてきた。
第1章 十八歳で"天職"に出会う
破 談
昭和五十六年の秋、二十一歳の私は愛知県豊橋市の彼女の家を訪れた。今夜は彼女の家族と一緒に食事をすることになっていたのだ。
私は彼女のお父さんの前で改まって両手をつき、切り出した。
「楓さんとは同じ高校で私が十七歳、楓さんが十六歳のときから真剣にお付き合いをさせていただきました。仕事もこちらへ戻ってきて落ち着きましたし、給料も上がりましたので、そろそろ結婚をさせていただきたいと思いまして、あらためてお願いしに参りました」
二十一歳の私の仕事は順調で、はるかに歳上の先輩と同等の仕事をこなし、給料も上かって結婚しても十分にやっていける自信があった。高二のときからずっと付き合っている彼女も今は短大を卒業していた。
そこで、ご両親に「娘さんをください」とご挨拶をしに来たのである。
このうちは畳職人の大家族で、食事は広い居間にある長い食卓でおばあちゃん、おじいちゃん、お父さん、お母さん、兄弟姉妹たちが決まった席について食事をする。中央上座に座るひいおばあちゃんもぴんぴんしている。
ひいおばあちゃんは私が若いにも関わらず、いつも正座をして、長い正座の後もすっと立ち上がって歩くので、「若いのに大したもんだ」と感心して、ひいきにしてくれていた。
実は前の会社の研修に正座があったのである。三十分間正座してさっと立てなかったら、もう一度研修をやり直さなければならない。足の親指の組換えで痺れを逃がすなどコツがあるのだ。
ご両親も祖父母も私のことは「なかなかいい子だから」と言ってくれていたらしい。
「いつかそういう時がくると思っていたよ」
そう言うお父さんの顔は笑っていた。
「いいんじゃない」と誰かの声が聞えて、
「結納はきちんとしなければならないね」
「向こうの(私の)両親へのご挨拶は?」
代々の職人で格式を重んじる一家は、私と彼女を交えてさまざまな段取りの話になっていた。
「ところで、その会社であんた何をやってるの?」
と、ひいおばあちゃんが聞いた。
私の勤めている会社は皇諒閣、名前からして結婚式関連の仕事だと思っていたのだろう。
「葬儀の方です。すっごく人に感謝される仕事なんですよ。人のお世話をするというのは本当にやりがいのある仕事です」
この仕事を私がどんなに好きで、やりがいを持ってやっているか、彼女がある程度、話してくれていると思っていた私は、胸を張ってにこにこしながら話し続けていると、おばあちゃん、おじいちゃん、そして両親の顔色が変わっていくのがわかった。
異様な場の雰囲気を気にして、いつも明るい妹さんが話を換えさせようと目配せをしているのが目に入る。その時、ひいおばあちゃんがひとこと聞いた。
「あんた、がんやか?」
言っている意味がわからなかったけれど、突然日が翳ったたような暗い目の奥が不気味だった。がんや?
「がんやってなんですかね?」
「葬儀屋のことだ」
もう一人のおばあちゃんがこれまで見たこともないつっけんどんな言い方で答えた。棺桶を用意する人を昔からこう呼んでいたらしい。普通の職業につけないような人がする仕事という感覚である。
「そんなことやってんのか。結婚式の方じゃなかったのか」
と今度はお父さんが言う。
「ハイ、僕、ずっとこの仕事、喜んでやっています」
そして彼女の方を見た。言ってないの!
「ちょっと来て!」と二人で席をはずし、隣の部屋に行った。
「冠婚葬祭の会杜っていうのは言ってあったけど。そういう仕事とは言ってなかったの。ここまで表情変えるとは思わなかった!」
「この仕事、僕は誇りをもってやっているし、そのことを伝えるよ、納得してもらうよ」
「うん、そうして」
席に戻ってもう一度話をしようとしたら、いきなり、
「今日はもう帰ってくれ」
と、荷物を持たされ、玄関まで追い出されるように送られた。
「ちょっと、お父さん、どのくらいして来たらいいんですかね」
「とにかく今の部署から変わったら、来い」
*私たち二人は愛知県立豊丘高校の先輩後輩であった。彼女が高一、私が高二、音楽同好会で出会って以来、私の作詞作曲を気に入ってくれ、岐阜放送局のラジオ出演や学園コンサートに私が出るたびに、熱心なサポーターを務めてくれた。
合格した山口大学経済学部に入らず、入学直前に私が十八歳でこの仕事を始めたときも、少し残念がったが「でも好きな仕事ができて良かったね」と喜んでくれた。この仕事の奥の深さ、やりがい、それに素晴らしい先輩社員の話を聞かせるたびに熱心に耳を傾けてくれる、
山口市内で働く私の借家に、高校三年の彼女は愛知県の豊僑から、しょっちゅう新幹線に乗って会いに来て、時には泊まっていくようになっていた。
私は高一の夏休みに土佐の高知まで坂本竜馬(銅像)に会いに行ったほどの竜馬ファンである。竜馬の愛した女性は"おりょう"という名であった。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』によれば、竜馬が幕吏に襲われて重傷を負った時、裸で薩摩藩邸まで助けを呼びに走ったという。私は自分の彼女のことをいつも「おりょうさん、おりょうさん」と呼んでいた。
ここでひるんではいられない。私はまた彼女の家を訪ねていった。玄関を入ると上がりがまちに広い十間がある。土間と座敷の間に、土間より少し高くなっている広いフローリングの床がある。そこに畳を乗せて作業をする台が何台か置かれている。
ここに入ると、真新しいイグサの匂いがする。私はこの匂いが好きだったが、今はその匂いさえも鼻の奥を刺激して辛いものだった。フローリングの床に正座をして土下座をし、
「お嬢さんを必ず幸せにしますから」
と懇願したが、返ってくる言葉は、
「おまえみたいな仕事をしているヤツが、棺桶屋が娘の婿さんじゃ、親戚にも顔向けできん」
であった。
今のように携帯電話もない時代だから、彼女との連絡もままならない。電話をかけてお母さんが出ると、いきなり「仕事変わった? 変わるまで電話をかけないで」と言われる。たまに妹が出たとき、友達からかかってきた振りをしてつないでもらえた。
こんな状態が一カ月も二カ月も続いたある夜、車の中で、
「ね、私とほんとに結婚したい?」
「うん、そうしたいよ」と答えると、
「本当にしたいって思っているんだったら部署を替えて!」
「ちょっと待ってくれよ。どんだけこの仕事が好きか、やりがいがあるかわかっているでしょ! それより家を出てこいよ。結婚したらどうせ家を出るんだから、同じことじゃないか」
「それは無理かも......」
「家族に逆らえないってことか」
「わたしが大切なら仕事変わって......」
涙声で訴える。どれだけ話しても最後の答えはそれだった。
その後、彼女から電話がかかってこなくなり、こちらから電話をすると母親が出た。
「あんたどこから電話しているの」
「近くの公衆電話からです」
「うちから三つ向こうの筋に喫茶店があるでしょう。そこで待っていて」
この店はよく彼女と待ち合わせをしたところだ。待っているとすぐにお母さんがあわただしく現れた。
「あなたね、楓を幸せにしたいのだったら家族の理解を得なきゃだめでしょう。仕事を変わればいいじゃない。同じ冠婚葬祭なんだから。そんなことで意地張って楓と結婚できなくてもいいの?
「それは困りますけど、でも仕事を変わることはできません。わかってください、お母さん」
「仕方がないわね。それじゃあ、とにかく別れてちょうだい。あなたが仕事を変わる気がないというのなら、これっきりにしたいって本人もそう言っているの」
あれほど私の気持ちや私のすることを認めてくれて、どんな時でもついてきてくれると思っていたが、この五年の歳月は何だったのだろう。彼女は僕の。おりょうさん”ではなかったのだ。全身から力が抜けていった。
なぜ勉強しろって言わないの?
私の生家は愛知県宝飯郡一宮町金沢(現在の豊川市金沢町) の果樹農園である。北方の山々から流れてきた豊川が大きく蛇行しているところにある。川幅百メートル以上もある豊川とそこから灌漑用に引いた牟呂用水に囲まれたような地形である。
子供のころ、夏は牟呂用水で泳ぎ、冬は凍った牟呂用水でスケー卜をして遊んだものだ。北には本宮山とそれに連なる山々が遠くに望まれ、南には家の近くに照山という小高い山があった。照山の山間には村落のお墓があり、石段の頂上には神社があって、地区の人たちはその氏子であった。またそこは子供たちの遊び場でもあった。
小学校は全校生徒が八十人、同級生はだったの十一人。六年生の時、生徒会長は私たった。
唯一の交通機関は単線の飯田線である。小学生の時、一両編成の飯田線に乗って長條の合戦跡地へ遠足に行った。その時に聞かされた鳥居強右衛門という人物の話は今でも印象に残っている。
武田勝頼軍に囲まれた長篠城から、援軍を頼みに抜け出した鳥居強右衛門は、援軍が向かっていることを確認して、再び城へ戻ろうとして捕まる。敵方から「援軍など来ないと言えば命を助ける」と言われて、これを承知した強右衛門は、城壁の味方に向かって「援軍は近くまで来ている!」と叫んで殺されてしまう。
この長篠駅よりさらに先の方は、母の生家がある設楽郡で長野県との県境である。終点飯田はもう長野県だ。中学一年生になった私は無性に長篠駅より先に行ってみたくなり、一人で飯田まで行って帰りが遅くなり家族を心配させたことがある。
母の名はゆきえといい、設楽郡の鉄道会社幹部の娘として育ち、農家の父、勝の所に嫁いで来た。父は「のらくろ漫画」が大好きな少年で漫画家を目指していたが、男兄弟が戦争で全部亡くなり、家業の農業を継いでいたのである。
漫画家への道をすっぱりと断ち切った父は絵筆を趣味としての書道に変え、働き者の妻を迎えて、私か小学生の頃には、梨園やいちご畑が増えていたから、父の代になって果樹園農家になっていたのだろう。
私のほかに姉一人、弟一人の三人の子供に対して両親は、勉強しろとは一度も言ったことがない。友達の家ではみんな「勉強しなさい、勉強しなさい」と言われている。ある時、母に
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