吉本隆明1968 - 鹿島茂
NHK-BS2『週刊ブックレビュー』で映画監督の東陽一氏が紹介されていた本。
僕も吉本隆明の偉さがわかりませんでした。
はじめに
以前、T出版社に勤めていたK君が、勤務先が平凡社に変わったということで、挨拶がてら私の事務所を訪れました。以下は、その時に吉本隆明を巡ってK君と交した会話です。
「吉本隆明って、そんなに偉いんですか?」
「偉いよ、ものすごく偉い」
「そうなんですか。でも、ぼくなんか『言語にとって美とはなにか』とか『共同幻想論』を読んでも、その偉さかよくわからなかったし、鹿島さんなんかの世代の人が吉本、吉本って、尊敬をこめた口調で言うのがなぜなのか、いまひとつ理解できないですけどね」
「うーん、それは確かにそういう面はあるかもしれないな。ぼくも、今の若い世代の吉本隆明論に目を通すと、なんかこう、吉本の一番大事な核みたいなところが捉えられていないという印象を持つからね」
「それはどういうことなんです?」
「吉本隆明の偉さというのは、ある一つの世代、具体的にいうと一九六〇年から一九七〇年までの十年間に青春を送った世代でないと実感できないということだよ」
「それって、宗教家の周りに漂う、曰く言い難い雰囲気みたいなもんなんですか?」
「いや、そういうわけじゃないんだ。だって、ぼくらは著作を通してしか吉本隆明を知らなかったんだからね。なかには実際の吉本に親しんだ人もいただろうけど、ほとんどの人はあくまで著作を介して吉本隆明に心酔したんだ。ただ、それは不思議なことに彼の代表作を通してではないんだね」
「ということは、『言語美』や『共同幻想論』などの主著以前の吉本隆明ということですか?」
「まあ、そうだね。具体的にいうと。『吉本隆明全著作集』か刊行される以前の論文集、たとえば『擬制の終焉』『抒情の論理』『芸術的抵抗と挫折』『模写と鏡』『自立の思想的拠点』、それに『固有時との対話』などの詩集なんかが、いわゆる吉本世代の心の支えになったわけだよ」
「なるほど。吉本隆明の本質は、主著よりもむしろ、そうした初期のポレミックな論文集にあるということですね」
「その通りだね。というのも、ポレミックな書き物には、吉本か何を断罪し。何を守ろうとしたかかはっきりしたかたちで現れているからね」
「でも、それって今の吉本隆明論にはあまり書かれていないことですね」
「だから、ぼくは、自分なりの吉本隆明アンソロジーを編纂しようかと考えているんだ。ぼくが、あるいはぼくらの周囲にいた吉本隆明ファンが、それこそ我がことのように読んだ論文やエッセイばかりを集めてね」
「それはおもしろそうですね。でも、ぼくとしては、アンソロジーよりも、そうした吉本隆明の論文やエッセイを鹿島さんたちの団塊世代かどう読んで、どう受け止めたかのほうを知りたいですね」
「団塊世代の吉本体験を書けということだね」
「そうなんです。それは、どうやら暗黙の了解ということになっているらしいんですが、ぼくらの世代から見ると、なんのことかさっぱりわからないんですよ」
「あるいはそうかもしれない。世代の常識とか共通認識というのは、下の世代から見ると、一番わかりにくいところかもしれないからね」
「じゃあ、そこのところを鹿島さんが書いてくれませんか? ご自身の一九六八年体験とないまぜて」
「うーん、そりゃ、かなりしんどい仕事になりそうだな」
こんなことをK君と語りあったのが数年前のことでした。
その後、忙しさにかまけて、執筆のスタートをズルズルと遅らせてきましたが、K君の我慢もそろそろ限界に近づいたようで、ここのところ、にわかに催促がきつくなってきました。どうやら思い切って心を決め、団塊世代の吉本隆明体験を書き留めておかなければならないときが来たようです。
かくして、本棚の一番奥に押し込まれていた吉本隆明の初期の単行本や著作集をひっぱり出して、あらためて読み返してみることになりましたが、あれから四十年近くの年月か経過しているにもかかわらず、初めて吉本隆明を読んだときの新鮮な感動か蘇ってきたのです。「ああ、おれは、この歳になっても、吉本主義者であったか」とつくづく思い知った次第です。
以下は、このようにして、吉本隆明を再読するという体験を介して、戦後のターニング・ポイントである一九六八年の「情況」に吉本隆明をもう一度置き直すことで見えてきた「四十年後の吉本隆明体験の総括」です。
それは、あくまで、私たちの世代にとっての吉本隆明の追体験なのですが、うまくすると、団塊ジュニアの世代あるいは、それよりも若い世代に、お父さんやお母さんが感じ取った「吉本隆明の偉さ」を伝える手助けとなるかもしれません。
- 作者: 鹿島茂
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 2009/05/15
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目次
- はじめに
- 第1章 「反・反スタ思想家」としての吉本隆明
スターリニズムという妖怪/「党生活者」をめぐる論争
「党生活者」における「技術主義」「利用主義」/吉本による「堕落論」
左翼の「最後の隠れ蓑」/「寛容思想」はいかにして生まれたか
『擬制の終焉』で私は吉本主義者になった
吉本の「偉さ」を説明するのが困難な理由
吉本が痛撃した異常なる「常識」/「反・反スタ思想家」としての吉本
- 第2章 日本的な「転向」の本質
日本的左翼の思考的ねじれはどこから来るのか
天皇陛下万歳とスターリン万歳
日本的転向の本質/佐野学、鍋山貞親の転向のモチーフ
封建的意識の残像/二つのヴィジョンの落差/無理やりの思考操作
佐野、鍋山がつきつけられたもの/彼らの転向はみっともないのか
「半日本人」と「無日本人」/現実社会をシャットアウト
「非転向」のほうこそが本質的な転向
吉本を吉本たらしめた最大の要因/中野重治の転向
『村の家』の父親が口にするセリフ/「日本封建性の優性遺伝」
「大衆の原像」にある父のイメージ
- 第3章 吉本にとってリアルだった芥川の死
吉本の社会的出自と思想の形成/自分の出自に「無理」をした芥川
「あらゆるチョッキを脱ぎすてた本音」/吉本による「私小説的な評論」
志賀直哉に対する劣等意識
「人生は一行のボオドレエルにも若かない」をめぐって
「半日本人」のサンプル
高村光太郎論を書いた二重の動機/「一元的な精神主義」
- 第4章 高村光太郎への違和感
大正末年生まれというポジション/吉本は敗戦をどう受け止めたか
文学的営為のすべての出発点/高村光太郎の秘密
高村光太郎の日記/「ブルジョワ息子」と「貧乏人の息子」という対比
吉本思想の核/多重的な父親殺しの意識化
「不可視の了解不可能性」
- 第5章 「了解不可能性」という壁
留学生の「落差問題」/普遍主義という解釈用具
普遍性から個別性への揺れ戻し「第一の眼と第二の眼」
打倒すべき劣悪条件としての「家」/「家」中、ひとりの悪党なし
どうしようもない寂寥感の表現としてのデカダンス
永井荷風との比較/健康な肉体の生み出すデカダンス
「個人的環境の肯定」という選択「下町オリエンタリズム」
「世界性」と「孤絶性」/吉本の導き出した結論
「青くさき新緑の毒素」
智恵子との出会いにかいま見た「性のユートピア」
幻想との戯れ/実生活からの復讐/絵空事的な夫婦生活
もろくも崩れた調和/「危機」の本質/社会的動向への妙なシンクロ
- 第6章 高村はなぜ戦争礼賛詩を書いたか
昭和十二年の「格差社会」/「想像の共同体」が持つ精神の浄化作用
高村のメンタリティの回路/デカダンスとピューリティの対比
吉本少年にとっての二・二六事件
光太郎の「生理的」なピューリファイ願望
光太郎にとっての「唯一無二の解決策」/自然法的な理念の破綻
「生活」という社会の介入/高村への違和感の遠因
二つのターニング・ポイント/漱石の留学との比較
〈家〉からの離脱という難事/光太郎の出自への親近感
- 第7章 抒情詩と戦争詩のあいだ
どうしても避けて通れない問題/「四季」派の抒情詩の背景にあるもの
三好達治の先祖返り/時代を覆いつくした伝統回避制
社会的無関心から戦争讃歌への密通/根っこにある民衆特有の残忍さ
「四季」派的なものと対決する道
ボードレールを暗唱しているクマ公、ハチ公
「大衆の原像」論へのジャンピングボード/「盗っ人猛々しい」言説
擬ファシズム的扇動と擬民主主義的情緒
「日本庶民のひとりとして」という最高の武器吉本に切り返された岡本の反論
- 第8章 「大衆の原像」から「自立の思想」へ
吉本にとっての「知識人」と「大衆」/「知識人化」に伴う罪悪感
大衆迎合論者の大いなる誤解/二つの言語の間にある「捩れの構造」
戦後プラグマチズムがとらええなかったもの
大衆のナショナリズムは把握不可能か?/吉本が受けたショック
スターリニズムの欺瞞性/刻苦勉励の克己思想
四十年前のリアルな敗北感
「ナショナリズム」の裏面に付着したリアリズム
大衆のナショナリズムの現実喪失、現実乖離
理想化され、概念化された「村の風景」
農本ファシズムはなぜ軍事ファシズムに敗北したか
スターリニズムとウルトラ=ナショナリズム
ナショナリズムの「揚げ底」化
- 少し長めのあとがき