たまたま - レナード・ムロディナウ

第1章
ランダムネスという不思議な世界
  ---- ベストセラーは「たまたま」生まれる?

私が生まれたのはヒトラーのおかげ?

 一〇代のとき、安息日のキャンドルの黄色い炎が、白いパラフィンの円柱の上でランダムに揺らめいているのをじっと眺めていたのを思い出す。そのときはまだ若すぎてキャンドルの光がロマンチックであるとは考えなかったが---炎が生み出すその揺らめきのイメージゆえに---それは魅惑的だった。それとわかる明らかな原因も計画もなく、それは移ろい、形を変え、強くなったり、弱くなったりしていた。もちろん根底には道理があるはず、科学者が式を使って予測し説明することのできるなにがしかのパターンがあるはず、そう私は思った。「世の中はそういうもんじゃない」と、父は私に言った。「ときどき見越せないようなことが起こるんだ」
 父はブーヘンヴァルトのナチ強制収容所に入れられ飢えに苦しんでいたとき、パン焼き場からパンを一切れ盗んだときのことを私に話してくれた。パン職人はゲシュタポに、それとおぼしき者をしょっぴかせて整列させると、こう問い質した。「パンを盗んだのはどいつだ?」。しかし誰も答えなかったので、パン職人は護衛兵に、容疑者全員が死ぬか誰かが自白するまで容疑者を一人ずつ撃ち殺すように言った。父はほかの人問の命を救おうと前に歩み出た。自分を英雄のように見せようとしたのではなく、いずれにせよ撃ち殺されると思ったからそうした、と父は言った。
 ところがパン職人はゲシュタポに父を殺させるかわりに、父に思いがけない仕事を与えた。パン職人の助手だ。「偶然の出来事だ」と父は言い、こうつづけた。「それはお前とは何の関係もないことだったが、もし展開が違っていたら、お前は生まれていなかった」
 私はそのとき突然、私が存在するのはヒトラーゆえにだと思った。ドイツの人間は父の妻と、二人の幼子を殺し、父のそれまでの人生を消し去った。しかしもしあの戦争がなかったら、父がニューヨークに移住することもなかったし、同じ難民である私の母と出会うこともなかったし、私と二人の弟を儲けることもなかった。
 父はあの戦争のことをめったに口にしなかった。当時はなぜかわからなかったが、後年、父があえてあの苦難を私に語るとき、それはその経験を私に知ってもらいたいからというより、この世についてのある大きな教訓を授けておきたいからだということがわかりはじめた。戦争は一つの極限状況だが、われわれの生活における偶然の役割は極限状況に根ざしているわけではない。
 人生の輪郭は、どう対応するかで運命が決まるいくつものランダムな出来事によって、キャンドルの炎のようにたえず新しい方向に移ろっていく。だから人生は予測しがたくもあるし、解釈しがたくもある。ちょうどロールシャッハ・テストのインクの染みを眺めて、あなたにはマドンナが、私にはカモノハシが見える、と言うように、われわれがビジネスで、法律で、医療で、スポーツで、メディアで、あるいは小学三年生のわが子の通信簿で出くわすデータは、いろいろに読める。だが、ある出来事における偶然の役割に対する解釈は、ロールシヤッハ・テストの染みの解釈のようにいろいろに読めるものではない。そこにあるのは、正しい解釈と間違った解釈である。

不確かさを前に人間が便う「二つの戦略」


 不確かな状況の中で評価と選択をするとき、われわれはしぱしぱ直観を使う。たとえば剣歯トラ〔漸新世から更新世にかけて北米西部に生息したネコ科の動物。顔の倍くらいの大きさの牙がある〕がほくそ笑んでいるのは、それが腹いっぱいで満足しきっているからなのか、それとも腹ぺこでこちらをつぎなる獲物と見ているからなのかを決めなければならないとき、そうした直観的プロセスには確かに進化的利点があった。
 だが現代世界は異なったバランスを有しており、今日そうした直観的プロセスは妨げになる。今日の「トラ」たちを扱うのにこの慣習的な思考方法を使えば、けっして最適とは言えない、いや不適切でさえある決断へと導かれてしまう可能性がある。
 そのような結論は、脳が不確かさをどう処理しているかを研究している人間には、少しも驚きではない。というのは、多くの研究が、偶然的状況を評価する脳部位と、人間が有する不合理さの主な原因としばしばみなされている人間的特徴、すなわち情動を扱っている脳部位との緊密な結びつきを指摘しているからだ。
 たとえばfMRI〔脳機能を画像化する方法の一つで「機能的磁気共鳴画像法」とも言う〕を使うと、リスクと報酬が、動機付けのプロセスや情動のプロセスにとって重要な脳内報酬回路であるドーパミン作動性神経系の諸部位によって評価されていることがわかる。またその画像から、われわれの情動状態---それもとくに恐れ---と関係している扁桃体は、不確かな状況下で意思決定するときに活性化されることが明らかになっている。
 偶然が関係する状況を人間が分析するときに使う神経系のメカニズムは、進化的要素、脳構造、個人的経験、知識、情動の複雑な産物だ。実際、不確かさに対する人間の反応はあまりにも複雑で、ときには脳内部位によって出る結論が異なり、そのためどちらの結論が上かを決めるべく争っているほどだ。たとえば、あなたがエビを食べると四回のうち三回、顔がひどく腫れるとすれば、あなたの脳の「論理的」な左半球はそこに一つのパターンを見いだそうとする。だが、あなたの「直観的な」右半球は、ただ「エビを避けよ」と言う。
 少なくともこれは、もっと苦しみの少ない実験で研究者たちが見いだしたことだ。その実験とは「確率推測」と呼ばれる一種のゲームである。被験者はエビとヒスタミンを食べるかわりに、一連のカードや光を提示される。色はたとえば緑と赤の二色。それぞれの色は異なる確率で現れるが、パターンはないようにセッティングしておく。たとえば、ある実験では、「赤−赤−緑−赤−緑−赤−赤−緑−緑−亦−赤−赤......」のように、赤が緑の二倍の頻度で現れるとする。被験者が求められていることは、しばらく眺めたあと、その後の一つひとつについて、それが赤か緑かを予測することだ。
 このゲームには二つの基本的戦術がある。一つは、つねに、より頻繁に現れる色のほうを推測すること。それはネズミなどの動物が好む手段である。もし人間がこの戦術を使うと、ある程度の成功は保証されているものの、それ以上はうまくいかないこと認めなければならないだろう。たとえば、緑が七五パーセントの確率で現れるというので、つねに緑を推測することに決めれば、七五パーセントは正しい。
 もう一つの戦術は、緑と赤の推測の比率を、それまでに観察した緑と赤の比率に「一致させる」ことだ。そしてもし緑と赤があるパターンで現れ、そのパターンを見破ることができれば、この戦術によって毎回正しく推測することができる。だが、もしそれらの色がランダムに現れるなら、最初の戦術を使うほうがうまくいく。緑がその都度七五パーセントの確率でランダムに現れる場合、第二の戦術では一〇回中約六回しか正しく推測できないだろう〔章末訳注1参照〕。
 人はたいていパターンを推測しようとする。だが、手術によるある種の脳損傷を有する人たち---「分離脳思者」と呼ばれている---を観察すれば、人間が必ずしもパターンだけで推測しているのではないことがわかる。彼らの場合、その損傷により左右の脳半球がたがいにコミュニケーションできなくなっている。したがって、そのような思者に色のついた光やカードを左視野に提示し、予測結果を左手だけの合図で知らせてもらうようにしてこの確率実験を行えば、それは右脳に対する実験になる。逆に右視野と右手だけが関わるようにこの実験を行うと、それは左脳に対する実験になる〔章末訳注2参照〕。研究者たちはこうした実験を行い、(同じ患者群において)右半球脳はつねにより頻度の高い色を選んで推測しようとし、左半球脳はつねにパターンを推測しようとすることを見いだした。
 不確かさを前にして、賢い評価と選択をすることは至難の業だ。しかしすべての業がそうであるように、それは経験とともに改善される可能性がある。私は以後の頁で、身近な世界における偶然の役割を、そしてその役割を理解するために何世紀にもわたって練り上げられてきた概念を、そしてわれわれをしばしば誤らせる要素を吟味していこうと思う。
 かつてイギリスの哲学者で数学者のバートランド・ラッセルはつぎのように書いた。われわれはみな「愚直なリアリズム」から、つまり、ものごとは見えている通りという信条から出発する。われわれは草は緑で、石は硬く、雪は冷たいと考えている。しかし物理学がわれわれに断言していることは、草の緑、石の硬さ、雪の冷たさは、われわれが自分自身の経験の中で知る草の緑、石の硬さ、雪の冷たさではなく、それらとはひどく異なるものであるというだ。
 以下ではランダムネスという接眼鏡を通してこの世を覗き、日常の出来事の多くがこれまた少しも見えている通りではなく、それらとはひどく異なるものであることを見ていこう。

怒鳴れば上達するという「直観的」誤信


 二〇〇二年、ノーベル委員会はダニエル・カーネマンという名の科学者にノーベル経済学賞を授与した。最近のエコノミストはありとあらゆることをする。なぜ教師は薄給なのか、なぜサッカーチームはそんなに価値があるのか、なぜ排尿排便によって養豚場の規模は制限を受けるのか(ブタは人間の三〜五倍排泄するので、数千匹のブタを有する養豚場はしばしば近隣の町より多くの排泄物を排出する)、といったことをエコノミストが説明する。
 エコノミストによってなされたそうした優れた研究が多々あるにもかかわらず、カーネマンがエコノミストではなかったから、この二〇〇二年のノーベル賞は目を引いた。彼は心理学者だった。そして何十年ものあいだ、故エイモス・トヴァスキー*1とともに、ランダムネスに対する誤解---つまり、私が本書で取り上げる一般的な誤信の多くをもたらしている誤解---を研究し、明らかにした。
 世の中におけるランダムネスの役割を理解する際の最大の問題は、ランダムネスの基本原理が日常的な論理から生まれているにもかかわらず、そうした原理から引き出される結論の多くが直観に反していることだ。
 カーネマンとトヴァスキーの研究に弾みをつけたのは、あるランダムな事象だった。一九六〇年代の中ごろ、当時ヘブライ大学の新参の心理学教授だったカーネマンは、いささか退屈な仕事を引き受けることに同意した。それは、イスラエル空軍の飛行教官たちに行動修正の理論と、飛行訓練へのその応用について講義するという仕事だった。カーネマンは、前向きな行動に報酬を授けることは効果を上げるが、失敗を罰することはそうではないことを十分納得いくように説明した。ところが、受講生の一人が言葉を返してつぎのような意見を述べた。そしてこのことがカーネマンにあるひらめきをもたらし、以後何十年もの間、彼の研究の指針となる。
 「私は、見事な操縦には、訓練生たちをしばしば暖かく褒めてきましたが、すると次回は決まって悪くなります」と、飛行教官は言った。「また下手な操縦には生徒たちを怒鳴りつけてきましたが、おしなべて次回は操縦が改善されます。ですから、報酬はうまくいくが罰はそうではない、などと仰しゃらないでください。私の経験はそれとは合致しません」。他の教官たちもみな同意見だった。カーネマンには、飛行教官の経験は真実であるように聞こえた。しかし一方でカーネマンは、報酬は罰よりもうまくいくことを証明した動物実験を信じていた。
 彼はこの明白な矛盾をあれこれ考えた。そして突然ひらめいた---怒嗚ったあと改善が見られることは確かだが、見かけとは違い、怒鳴ったことが改善をもたらしたのではないのだ、と。
 どうしてそんなことが? その答えは、「平均回帰」と呼ばれる現象にある。平均回帰とは、どんな一連のランダムな事象においても、ある特別な事象のあとには純粋の偶然により、十中八九、ありきたりの事象が起こる、というもの。
 これにしたがえば、前述の話はこうなる。パイロットの訓練生たちは全員が戦闘機を飛ばす一定の個人的能力を有していた。彼らの技術レベルの引き上げには多くの要素が関係しており、徹底的な練習が必要だった。だから、飛行訓練を通して彼らの技術はゆっくり改善されてはいたが、その変化は操縦するごとに目に見えてわかるというものではなかった。
 また、特別にうまい操縦とか特別に下手な操縦というのは、どれもたいてい運の問題と言えた。もしある訓練生が、通常の彼の実技レベルをはるかに超えるとてつもなくうまいランディングをしたとすれば、翌日、その訓練生は彼の標準に近い---つまり、もっと下手な---操縦をする確率が大きいだろう。そしてもし教官が彼を褒めていれば、褒めても何もよいことはなかったように見えるだろう。
 だが訓練生が、戦闘機を滑走路の端まで滑らせて基地のカフェテリアのコーン・チャウダーの桶にぶつけるほど、とてつもなく下手なランディングをしたとしても、彼は翌日、彼の標準に近い---すなわち、もっとうまい---操縦をする確率が大きいだろう。そしてもし教官に、訓練生がまずい操縦をしたとき「この不器用ザルめが!」と怒鳴るくせがあったとすれば、その非難がなにがしか功を奏したかに見えるだろう。
 かくして、ある〈見かけの〉パターンが出現する。「訓練生がうまく操縦する、賞賛は良い結果をもたらさない」、そして「訓練生が下手に操縦する、教官は訓練生を大声で下等霊長類になぞらえる、訓練生は腕を上げる」。
 そのような経験からカーネマンのクラスの教官たちは、怒鳴ることが強力な教育的手段であると結論づけていた。だが実際には、それで何も変わってはいなかった。
 この直観的誤信がカーネマンの思考に拍車をかけた。そのような勘違いは、世にあまねく存在してはいないだろうか? われわれも飛行教官のように、無慈悲な非難こそが、わが子の振る舞いを、またわが従業員の仕事ぶりを改善するものと信じてはいないだろうか? あるいは、われわれは不確かさと相対したとき、別の誤った判断をしてはいないだろうか?
 人間は判断という複雑な仕事を減らすために、必然的にいくつか戦術を使うことをカーネマンは知っていた。そしてそのようなプロセスにおいては、確率に対する直観が重要な役割を演じていることを知っていた。
 たとえば、見るからにうまそうなあのセピーチェ・トスターダを露天商から買って食べたあと、気持ち悪くなったとしよう。そのときわれわれは、これまで贔屓にしてきたすべての屋台を思い起
こし、それらの屋台で食べた翌日の晩に胃薬を飲みながら過ごすはめになった回数を数え、それらの屋台に対する数的評価をはじき出す、などというようなことはしない。われわれは直観にその仕事を委ねる。
 しかし一九五〇年代と六〇年代初期の研究が、ランダムネスに対する人間の直観はそのような状況では役に立たないことを示していた。不確かさに対するこうした誤解は世問にどれほど広まっているだろうか、また人間の意思決定にとってどういう意味ををもっているだろうか、そうカーネマン
は思った。
 数年後、カーネマンは同僚のエイモス・トヴァスキーを招き、カーネマンのセミナーの一つでゲスト講義をしてもらった。その後の昼食の折、カー不マンは練り上げていたアイディアをトヴァスキーに話した。以後三〇年以上かけて、トヴァスキーとカーネマンは、話がランダムなプロセスということになると---それが軍やスポーツに関するものであれ、ビジネスの苦境に関するものであれ、医学的問題に関するものであれ---人間、それも教養ある人間が、きわめて頻繁に信念と直観に騙されてしまうことを明らかにした。

出版社はベストセラーを見抜けない


 たとえば、あなたが書いた愛と戦争と地球温暖化をめぐる推理小説の原稿を、四つの出版社が断ってきたとしよう。そのときあなたの直観とみぞおちあたりの嫌な感覚が、出版社の専門家がみな


たまたま―日常に潜む「偶然」を科学する

たまたま―日常に潜む「偶然」を科学する

目次


プロローグ
第1章 ランダムネスという不思議な世界
 ──ベストセラーは「たまたま」生まれる?

私が生まれたのはヒトラーのおかげ?
不確かさを前に人間が使う「二つの戦略」
怒鳴れば上達するという「直観的」誤信
出版社はベストセラーを見抜けない
大ヒット映画も所詮コイン投げと同じ
ハリウッドの栄枯盛衰も運次第
怒りを買ったホームラン王
マリスはなぜホームラン王になれたのか?
並外れた事象に並外れた原因はいらない


第2章 「それっぽい」話に潜む危険性
 ──真実と「一部」真実の法則
確率は手にサイコロをもった人間から生まれた
非論理的な「直観的」確率
「それっぽい」情報に弱すぎる人間
同じ過ちを犯す専門家
確率嫌いの古代ギリシア
お粗末な記憶と「可用性バイアス」
ギリシア人のハンディキャップ
現実主義者ローマ人登場
確率を掛けるべきとき、足すべきとき
DNA判定の「本当の」精度
“コリンズ裁判”に見る確率の誤用


第3章 直観はすべての選択肢を把握できない
 ──カルダーノの「標本空間」がもつ威力
「ギャンブル」を初めて理論化した男
マリリンの災難──モンティ・ホール問題
生まれながらのギャンブラー、カルダーノの半生
『偶然のゲームに関する書』誕生
「標本空間」の威力
双子の赤ん坊の性別を予測する
なぜ、選ぶドアを変更すべきか?──ふたたびモンティ・ホール問題
カルダーノの成功と挫折と理論のゆくえ


第4章 「たまたま」成功する確率を知る
 ──パスカルの果たした二つの貢献
迷信から科学へ
ガリレオのギャンブル論
偶然の一致は意外と高頻度──誕生日問題
神童パスカル、ギャンブルにはまる
パスカルフェルマーの往復書簡
一〇回に四回は弱いチームが優勝する“ワールドシリーズ
すべての可能性を教え尽くす──パスカルの三角形
トランス状態のパスカルと「期待値」
宝くじを買い上げ利益を上げた投資家たち


第5章 大数の法則と小数の法則
 ──何人調べれば当選は確実とわかるのか?
真のランダムネスは存在しない?
ランダムかどうか検定する──ベンフォードの法則
乱数表は不完全
ジャガーの挑戦
潜在的な確率を知ることはできるのか?
微積分の二人の親──ニュートンライプニッツ
一メートル先にたどり着けない?──ゼノンのパラドックス
ベルヌーイの「黄金定理」
五人調べるだけで潜在的確率はわかる?──小数の法則
ギャンブラーの誤謬──「もうそろそろ……」
ベルヌーイの最期と不仲の弟


第6章 「あなたが死ぬ確率は一〇〇〇分の九九九!」
 ──ベイズ的判断と訴追者の誤謬
奇妙な裁判、奇妙な主張
ベイズ理論、初歩の初歩
ベイズの地味な人生と、一片の論文
ベイズの思考実験──潜在的な確率を推測する
新米ドライバーが交通事故を起こすリスク
「フロリダ」という名の女の子
“死刑宣告”を受けた私がいまも生きている理由
潔白な選手でもドーピング検査に引っかかる確率は?
「訴追者の誤謬」というあべこべの論理
スリードされた裁判──O・J・シンプソンはなぜ無罪に?
ベイズの再発見者、したたかなラプラス


第7章 バラツキを手掛かりに真実をつかむ
 ──測定と誤差の法則
「測定」には誤差がつきもの
測定のための理論とツールの発展史
ワインの「格付け」はどれほど信頼できるか
曖昧な格付けがなぜ栄える?
データのバラツキ方にも法則あり──標本標準偏差
パスカルの三角形から「ベル曲線」へ
バラツキを評価してこそ
正規分布は誤差法則


第8章 ランダムネスを逆手に取る
 ──カオスの中の秩序
無秩序から秩序が生まれる不思議
一一世紀の国勢調査──限られた数値から社会全体を読み解く
「近代統計学の父」ケトレー登場
ポアンカレ、いかさまを見破る
ランダムな社会に普遍的法則はあるか
欠点は次世代で改善──平均回帰と相関係数
カイ2乗検定──統計的データを検証する
ブラウン運動──ランダムなパターンが見せる見かけの力
あらゆるものの根本にドランカーズ・ウォークあり


第9章 パターンの錯覚と錯覚のパターン
 ──偶然の出来事に「勝手」に意味を見いだす
知覚は想像作用の産物である
一度認識したパターンはなかなか捨てられない
ランダムがランダムに見えない!──ヒューリスティクス
運だけで連続一一年市場動向を正しく予測した男
「特別な能力が成功の連続をもたらす」──ホットハンド誤謬
ミラーの真実──偶然に身をまかせても成功できる
がんが発生しやすい地域は存在するか?
偶然をコントロールできるという錯覚
思い込みはどんどん深まる──確証バイアスの罠


第10章 ドランカーズ・ウォーク
 ──偶然とうまく付き合っていくために
未来は予測できないのか?
蝶のはばたきが嵐を呼ぶ
真珠湾攻撃を予測できた」証拠
「あと知恵」という錯覚
未来は起こってからしか理解できない、というもどかしさ
ほんの少しの誤差がもたらすインパク
ブルース・ウィリスのサクセス・ストーリー
ビル・ゲイツの富は才能の結果なのか
偏見はいとも簡単につくられる
「期待」がランダムネスの作用を見えなくする
偶然の働きに惑わされずに生きること
必然性という幻想を超えて


訳者あとがき
注記
索引

成毛氏の書評は⇒こちら

*1:スタンフォード大学認知心理学者。カーネマンとともに「プロスペクト理論」を提唱し行動経済学の基礎を確立。一九九六年没。