ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争 - ディヴィッド・ハルバースタム

プロローグ 歴史から見捨てられた戦争


 一九五〇年六月二十五日、北朝鮮軍の精鋭およそ七個師団が南朝鮮(韓国)との境界線を突破した。兵士の多くは中国の国共内戦で共産軍側について戦った者たちで、三週間で南全土を制圧する目論見だった。それに先立つ半年前、ディーン・アチソン米国務長官アメリカのアジアにおける防衛線に韓国を加えるのを怠るという大きなミスを犯していた。当時韓国に駐留していた米軍は小規模な軍事顧問団だけで、侵攻への備えはまったくないに等しく、共産軍の攻撃は最初の数週間というものは驚くばかりの戦果を挙げた。戦場から届く敗報一色のニュースに、ワシントンではトルーマン大統領ら政府首脳が相手方の意図をめぐり鳩首協議を重ねた。攻撃はソ連の指図によるものなのだろうか、北朝鮮はモスクワの手先にすぎないのではないか。あるいは、これは世界を股にかけた共産主義者らの一連の挑発行動の第一弾となる陽動作戦なのだろうか。大統領らの決断は速く、米軍とさらに国連軍を投入して共産主義者の韓国侵攻を阻止しようとした。
 朝鮮戦争は三週間どころか、その後三年もつづいた。米軍と国連軍は兵力の規模は小さかったが、優位にある兵器と技術力でなんとか相手側を抑えようとした。相手の兵力は圧側的だった。過酷きわまりない戦争になった。けわしい地形とひどい気候の戦場。とりわけ冬期の凍てつく寒さは米軍将兵には北朝鮮軍や中国軍以上の難敵に思えたほどであった。「二〇世紀最悪の胸くそ悪い小戦争」と軍史研究家S・L・A・マーシャルは評しているが、米軍を含む国連軍将兵の前に立ち現れた重畳たる山岳地帯はその兵器、とりわけ装甲車両の優位性を損ない、逆に敵方には洞穴その他さまざまな形の隠れ家を提供した。「この忌まわしい戦争に向け最悪の場所を探してくるとすれば、全員一致して推したのは朝鮮半島だったろう」。当時のアチソン国務長官は戦後何年も経ってからそう回顧した。「白けた戦争だった」とはアチソンの友人アヴェレル・ハリマンのことばである。
 アメリカ側にとって朝鮮戦争を「望まざる戦争」と呼ぶのは、たいへん控え目ないい方になるだろう。米軍に戦闘突入を命じた大統領でさえ、あえてこれを戦争であるとはいわなかった。トルーマンは、ソ連との対決色が高まるのにタガをはめる思惑から紛争の本質をつとめて軽くあつかおうとした。大統領が試みた方法の一つは用語をひねり回すことだった。北朝鮮軍が越境した四日後の六月二十九日午後遅く、すでに米軍への戦闘命令を発令ずみの時点だったが.大統領はホワイトハウス詰め記者団と会見したさい、アメリカは実際に戦争に突入したのかとの記者の問いに、「戦争ではない。もっとも事実上そういうことにはなるが」と歯切れが悪かった。「国連のもとでの警察行動と呼んでよいか」との別の記者の問いかけに、トルーマンは「そうだ。まさにそういうことだ」と答えた。
 在韓米軍は軍というよりも警察力であるとの含みを持つこの示唆に、現地の兵士らは苦々しい思いを抱いた。(これに劣らぬ微妙ないい回しを四か月後、こんどは中国の指導者毛沢東が使うことになる。かれは数十万の中国軍兵士に戦闘命令を発したさい、トルーマンとやや似た理由から、麾下の兵士たちを義勇軍と呼ぶことにした)
 このように、さりげない問答から、政策や戦争さえも定義がなされる。トルーマンがあの日持ち出したいい回しはある意味、持ちこたえた。朝鮮戦争は、第二次世界大戦のように人びとを特異な目的に一致団結させる大国民戦争とはならなかったし、一世代後のベトナム戦争のように国民を二分し、絶えず悩ますことにもならなかった。朝鮮戦争はただ不可解で、灰色の、ひどく遠隔の地の紛争---希望も解決策も見えないまま、ずるずるとつづいた戦争、現地で戦った兵士とその直近の家族たち以外のほとんどのアメリカ人はできるだけ知らないでいたい戦争だった。朝鮮戦争から約三十年後、シンガーソング・ライターのジーン・プラインはこの国民感情を「ハロー・イン・ゼア」という歌で正確に捉えた。プラインは歌のなかでデイヴィーという若者の悲劇的な死とその犠牲か無駄だったことを雄弁に歌い上げた。半世紀後も朝鮮戦争は相変わらず政治的にも文化的にもアメリカ人の意識の外にとどまったままであった。この戦争をあつかった傑作の一つに『忘れられた戦争』(The Forgotton War)という本があるが、なんと的を射たタイトルであることだろう。朝鮮戦争はときにまるで歴史から見捨てられたかのようだったのだ。
 兵十たちの多くは朝鮮に送られたことに、怒りをもち続けた。ある者は第二次世界大戦に出征し、その後予備役入りして民間の職業についていたところに召集がかかりしぶしぶ応じた。告げられたのは十年の間に二度目となる国外戦争への従軍だった。同世代の大勢の者がそのどちらにも召集がかからなかったのにである。第二次世界大戦で兵役に就いてそのまま陸軍に残った者たちは、北朝鮮軍が攻めてきた当時の米軍の哀れな状態に憤った。定員も訓練も足りない部隊、欠陥だらけの旧式装備、驚くばかりに低水準の指揮官層。かれらが知っている第二次世界大戦最盛期の陸軍の強さ、職業軍人魂とたくましさ。それらと朝鮮戦争緒戦のころの米軍の貧弱さとの落差はショック以外の何ものでもなかった。経験が深ければ深いほど、戦いに強いられる諸条件への失望と驚きはいよいよ大きかった。
 朝鮮戦争の最悪の側面は「朝鮮そのもの」と第二歩兵師団第二三連隊所属の大隊長だったジョージ・ラッセル中佐は書く。工業生産とその所産である兵器、とりわけ戦車への依存度の高い軍隊には最悪の地勢だった。スペインやスイスのような国々にも急峻な山岳地帯はあるが、じきに平坦な平野が開け、そこでは工業諸大国の戦車の投入が可能である。ところが、朝鮮は、ラッセルによれば、アメリカ人の目には「重畳折りなす山また山」だった。もし朝鮮を色でたとえるとすれば「茶褐色のグラデーション」になる。朝鮮で戦った功労に対して贈られる従軍勲章があったとするなら、従軍したGI全員が勲章の色として茶褐色を選んだだろう。
 朝鮮戦争は、テレビニュースが本来の力を発揮する以前に起こった。アメリカが情報化社会に入る前の時代で、そこがベトナム戦争とは異なる。朝鮮戦争のころはテレビのニュース番組の放送時間は一晩に十五分間しかなかった。内容もそっけないもので、影響も限られていた。当時の技術では、朝鮮からの素材がニューヨークの本社のニュースルームに届くのは通常、深夜で、全国民を震撼させることはめったになかった。朝鮮戦争は、まだプリントメディアの時代の戦争だった。白黒印刷の新聞で報道され、国民の意識もその域を出なかった。
 この本を執筆中の二〇〇四年、わたしはたまたまフロリダ州キーウエストの図書館を訪ねたことがあった。書架にはベトナム戦争関係の書籍は八十八点あったのに朝鮮戦争のものはわずか四点しかなかった。これはアメリカ人の意識をそのまま反映したものだ。
 若いころ第二歩兵師団の工兵で中国の捕虜収容所に二年半いたことのあるアーデン・ローリーは苦々しげにこう語っている。
 朝鮮で行われた主要戦闘の五十周年記念が催された二〇〇一年から二年にかけてアメリカでは三本の大型戦争映画が作られた。『パール・ハーバー』『ウィンドトーカーズ』『ワンス・アンド・フォーエバー』がその三本で、前の二本は第二次世界大戦物、三番目はベトナム戦争に関するものだった。
これに、一九九八年制作の『プライベート・ライアン』を加えると。トータルで四本になるが、朝鮮戦争物は皆無だった。もっともよく知られた朝鮮戦争がらみの映画は一九六一年の『影なき狙撃者』。中国の捕虜収容所で洗脳されてアメリカ大統領候補をつけねらう共産主義者の暗殺ロボットに仕立てられたアメリカ人捕虜の話だ。
 戦時中の陸軍移動外科病院をあつかったロバート・アルトマン監督の反戦映画『マッシュ』。その後テレビシリーズとなったこの映画は朝鮮戦争に見せかけているが、実はベトナム戦争か主題である。封切られた一九七〇年は反戦運動が最高潮に達したころで、ハリウッド映画の役員たちはベトナム反戦映画の制作には神経質になっていた。映画をつくる最初から朝鮮戦争は、ベトナム戦争の隠れミノだった。アルトマン監督と脚本家リング・ラードナー・ジュニアはベトナムに焦点を当てながら、ベトナム戦争は当時の段階では、まだコメディにするには繊細すぎる問題だと考えたのだった。映画に登場する兵士も上官もベトナム戦時代のもじゃもじゃ髪で朝鮮戦争期のクルー・カットではない。
 この戦争が持つ残虐性の実相はアメリカ人の文化意識にはまったく浸透しなかったのだ。この戦いでアメリカ人の死者は推計で三万二千人、ほかに十万五千人が負傷した。韓国側の損害は死者四十一万五千人、負傷者四十二万九千人だった。中国と北朝鮮はその死傷者数を固く秘匿しているが、米軍当局者は死者およそ百五十万人だったと見積もっている。
 朝鮮戦争は冷戦を一時熱くし、アメリカと共産陣営との間ですでに顕著になっていた(しかも、ますます高まっていた)緊張をより高め、アジアで存在感を見せつつあった共産勢力とアメリカとの亀裂を深めた。二極間紛争の当事者間の緊張と分裂は、アメリカの誤算が中国の参戦を招いた後、一段と深刻化する。戦いが終わり軍事休戦が実現すると、双方が勝利を主張した。もっとも、朝鮮半島の最終的な分割案は開戦前とあまり変わらなかった。だが、アメリカは同じアメリカではなかった。対アジア戦略像は変化し、国内の政治状況は大幅に塗り換えられた。


 朝鮮で戦った兵士たちは母国の同胞から疎んじられたと感じることが多かった。その犠牲は感謝されなかった。同世代の人びとの目には重要度の低い遠隔の地の戦争であるにすぎない。朝鮮戦争には、第二次世界大戦にあったあの栄光と正統性はかけらもなかった。第二次世界大戦では、国民が国を挙げて一つの偉大な目的を共有し、兵士一人ひとりがアメリカの民主精神と至善のアメリカ的価値観を広宣流布する使徒と目され、高く賞賛された。
 いっぽうの、朝鮮戦争は退屈な限定戦争であった。そこからはこの先、あまりいいことは何も生まれてこない、と国民はさっさと決めてしまった。兵士が帰還して気がついたのは、かれらの体験に隣人たちか総じてさしたる興味を示さないことだった。会話のなかで戦争話はすぐに無用の話題にされた。家庭内のできごとや職場での昇進、新しい家屋や新車の購入のほうがもっと興味を引くテーマだった。その原因の一部は、朝鮮からのニュースがほとんどいつもたいへん暗いからだった。戦況がよいときでも、必ずしも非常によいとはいかなかった。戦局の飛躍的進展の公算が近いと見えたことはほとんどなく、まして勝利に近づく気配は何もなかった。とりわけ、一九五〇年十一月下旬、中国が大兵力をもって参戦するとそれは皆無になった。膠着状態を表す自嘲的なフレーズが兵士たちの間で人気になった。「Die for a tie」勝利のためではない、引き分けるために死ぬのだ。
朝鮮で戦った兵士たちと祖国の人びととの間には大きな心理的隔たりがあった。兵士らがどんなに勇猛果敢に大義のもとに戦おうと、第二次世界大戦の兵士にくらべれば、しょせん「二流」だったのである。兵士たちは、戦後も、そのことでやりきれない思いをした。しかし、彼らは静かに耐え忍ぶしかなかった。


ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争 上

ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争 上

プロローグ 歴史から見捨てられた戦争
第一部 雲山の警告
第二部 暗い日々
第三部 ワシントン、参戦へ
第四部 欧州優先か、アジア優先か
第五部 詰めの一手になるか - 北朝鮮軍、釜山へ
第六部 マッカーサーが流れを変える - 仁川上陸
第七部 三十八度線の北へ
上巻 ソースノート

ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争 下

ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争 下

第七部 三十八度線の北へ(承前)
第八部 中国の参戦
第九部 中国軍との闘い方を知る - 双子トンネル、原州、砥平里
第十部 マッカーサートルーマン
第十一部 結末
エピローグ なされなければならなかった仕事
著者あとがき 五十五年目の来訪
解説1 歴史における人間の力を信じた男 - ラッセル・ベーカー
解説2 最後にして最高 - 訳者
下巻 ソースノート
参考文献

小飼弾氏の書評は⇒こちら

池田信夫氏の書評はこちら