利益第二主義―過疎地の巨大スーパー「A-Z」の成功哲学 - 牧尾英二

運命を変えた父親からの電報

「急用あり。すぐ帰れ」
 一九八二年の夏、東京の自宅に阿久根市の実家から一通の電報が届きました。ほどなく電話もかかってきました。
 「おまえが偉そうに助言などするからだ。おまえが責任を取れ!そうしないと牧尾家は滅びる!」
 語気を荒げた父親からの電話でした。
 私が小売業に足を踏み入れるきっかけとなったのは、弟への何気ないアドバイスでした。そのアドバイスをもとに弟がはじめたホームセンターが経営難に陥り、それを見かねた父親が、私に弟を手伝わせようとしたわけです。
 やや退屈かもしれませんが、そのときの経緯を簡単に述べておきましょう。

* * *

 私は高校を卒業後、東京の富士精密工業(現在の日産自動車)に就職して、自動車の設計の仕事に携わっていました。その後、千葉のケーヨーという会社に転職したものの、そこでもやはり自動車関連の仕事に就きました。
 私は男四人、女二人の六人兄弟の長男ですが、男四人は揃ってクルマ好きでした。長男の私は富士精密工業へ、それから次男は警視庁の機動隊へ、三男はいすゞ自動車の開発へ、四男はホンダの開発へという具合に、四人とも自動車に関係する仕事に就いていました。
 父親は、もともと洋服の仕立て屋、いまでいうオーダーメイドを商売にしていました。長男の私に後を継がせたがっていましたが、私はクルマが好きだからクルマの仕事で生きていくと話をしました。そして逆に、「これからオーダーメイドは既製服におされて先細りになる。だから仕事の転換をしたらどうか」と父親に進言しました。
 そうした経緯もあり、関東での仕事と並行して、私か父親と設立したのが、いまも阿久根市にある自動車教習所「マキオドライビングスクール」(設立時の名称は「阿久根第一自動車学校」)です。
 その後、「教習所が事業としてうまくいきそうだから一緒にやろう」と、すぐ下の弟(次男)に警視庁を辞めてもらい、のちに自動車教習所の経営を引き受けてもらいました。そのとき、いすゞ自動車にいた三男と、ホンダにいた四男も、それなら自分たちも自動車教習所の仕事をやると言って阿久根市に帰ってきました。
 ところがしばらくすると、三男の正文から、「自動車教習所を兄弟三人でやっていてももったいない。何かほかにいい仕事はないだろうか」と相談を受けました。一九八〇年のことです。
 その頃、私が暮らしていた関東では、ホームセンターがあちこちにオープンして話題となっていました。そこで、「ホームセンターをやってみたらどうだろう」と、私が正文に勧めたのです。
 正文は、土地もないし、お金もない、経験もないと言うので、私は「土地がなければ貸してもらえばいい。お金がなければ借りればいいじゃないか。経験がなければ、勤め先のケーヨーの別部門でホームセンターをやっているから、お願いして見習いさせてもらえばいい」と話しました。
 父親は、「阿久根市のような人口がどんどん減っている過疎地で、ホームセンターの経営などうまくいくわけがない」と猛反対しました。経営コンサルタントにも相談しましたが、ホームセンターには商圏人口が一〇万人ぐらい必要で、阿久根市の人口では無理だと言われました。ダメとは言いませんでしたが、「厳しい。私なら出店しません」と。
 しかし、当時、阿久根市には便利な店がほとんどなく、近隣の町へ出かけて買い物するという不便さをどうにかできないものかと弟の後押しをして、父親に「やってみないとわからない」と言い、押し切ってしまったのです。


私が小売業に転身した理由
 一九八二年四月、私のアドバイスにしたがって弟は、三〇〇坪(一〇〇〇平方メートル)の売り場面積を持つ「マキオホームセンター」を阿久根市にオープンしました。
 じつは、ホームセンターをはじめたときも、いろいろな噂が立ちました。
 いまから考えると三〇〇坪という小さな店ですが、当時の阿久根市ではとても大きく見えました。町の人たちは徒歩か自転車で買い物をする時代で、クルマで買い物に行くという習慣もまだありませんでした。そういう時代に、町から四キロメートルも離れた山の上に売り場面積三〇〇坪の店をオープンして、一〇〇台分の駐車場を備えたのです。
 「半年もたない」と言われ、「みんな徒歩か自転車で買い物に行くのに、何で大きな駐車場が必要なんだ。お客がヘリコプターで買い物に来るのか。頭がおかしい」とあざ笑われたこともあります。
 実際にオープンしてみると、最初のうちは、この地域で初めてのホームセンターと


利益第二主義―過疎地の巨大スーパー「A-Z」の成功哲学

利益第二主義―過疎地の巨大スーパー「A-Z」の成功哲学

序 章 過疎地で奮闘する
二四時間営業の巨大スーパー

田舎町に誕生した巨大スーパー
好きでない小売業を天職と定める
予想を超えた地域の生活者の反応
利益や効率よりも大切なもの
第一章 素人だからこそ、
お客様目線で前例否定できる

運命を変えた父親からの電報
私が小売業に転身した理由
倒産寸前のホームセンターを再建
故郷で目の当たりにした売り手発想
地域のインフラ整備がAZの役割
小商圏にこそ生活総合店が必要
出店を阻んだ前例主義の壁
試験的にはじめた二三時間半営業
建設途上で銀行に融資を辞退される
生活者側に立った小売業を目指す
第二章 安さを実現する
常識破りのローコスト経営

徹底したローコスト経営を模索
過疎地のメリットは土地の安さ
従業員一人あたりの売り場面積を広げる
年間四〇〇〇万円の電気代を節約
コストのかかるチラシを廃止
原則として限定販売は行わない
前例否定なくしてAZなし
第三章 効率はいっさい無視、
生活必需品はオール品揃え

AからZまで生活必需品はすべて揃える
二六〇点を揃えた醤油の棚
効率を優先するPOSシステムの限界
品揃えの基本は「スモール商品」
ワンフロア・ワンストップ・ショートタイム
田舎は夜が早いという偏見
二四時間営業で安く売るということ
リピート率と買上点数が生命線
第四章 損得を抜きにして、
お客様を常に優先するサービス

一万円の商品をチラシで一〇〇〇円と誤記
チラシに出した以上は一〇〇〇円で売る
「台風時のお手伝い」も私どもの使命
災害時におにぎりを七〇円で提供
相場の激しい菊の生花を一〇〇円均一で販売
観孝行からはじまった盆栽の販売
買い物金額の八%をキャッシュバック
片道一〇〇円で「買物バス」を運行
生活雑貨を売る感覚で自動車を売る
F1をお手本にしたスピード点検
第五章 従業員は自ら育つもの、
マニュアルでは育たない

素人集団が立ち上げたAZスーパーセンター
商品部もバイヤーも必要ない
お客様の声と棚の商品がいちばんのデータ
売上高も利益も気にしない
人材育成にマニュアルはいらない
自然な笑顔が売り場の活性剤
自発性が育てる発想力と応用力
売る立場ではなく買う立場で仕事をする
売り場責任者を社長が下から支える組織
定例会議はいっさい開かない
パートも正社員も待遇は同じ
定年は自分で決めるもの
テナントに頼らない運営が人を育てる
第六章 取引先もお客様、
地域とどう共存するか

商品の仕入れは地元が最優先
問屋のマーチャンダイジングに頼らない
魚市場で一日三回鮮魚を仕入れる
無理な値引きは要求しない
バックマージンも報奨金も拒ぶ
自動車販売の二割は業者向け
終 章 小売業は最後まで
逃げ出してはならない

三号店の「AZはやと」をオープン
新たなテーマは「健康へのお手伝い」
AZは「地域の社交場」でもある
安いからといって買いすぎないように提案
地域の生活者に寄与するという発想


おわりに