バーナビー・ラッジ - チャールズ・ディケンズ

本書は『ミステリーの人間学―英国古典探偵小説を読む (岩波新書)』で紹介されている本。

小池滋氏の訳は文の流れが悪く非常に読みにくい。訳し終えた後、小池氏はちゃんと自分で読み返しているのか甚だ疑わしい。

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 一七七五年のこと、ロンドンから約十二マイルの距離のところ----コーンヒル(ロンドン市内の一地域で、そこにある四つ辻に立つ柱が、地方への距離の原点だった)の距離原柱から測って、というよりはむしろ、いにしえの頃距離原柱が立っていた場所、ないしその近くから測ってだが----エッピングの森のはずれに、メイポール亭という宿屋兼酒場があった。読み書きのどちらもできない旅人(六十年も前のことだから、旅人にも出不精の人間にも、たくさん文盲がいたのである)でも、宿屋の向かいの道端に立っている看板、つまり、昔のメイポール(五月一日に広場に高い柱メイポールを立てて、飾りをつけ、その下で踊る習慣が昔あった)ほど立派な釣合いはとれていないにせよ、高さ三十フィート、かつてのイギリス郷士が射た矢のように真っ直ぐな、立派な若いトネリコの木でできた柱を見れば、その屋号は誰にでもわかるのだった。
 このメイポール----以後こう呼ぶ時は宿屋を指すのであって、看板ではない----このメイポールは古い建物で、怠け者が日向ぼっこをしながら数えても、数えきれないほどの破風があり、大きなジグザグ型の煙突があって、そこから出て来る煙さえ、曲りくねった通路を抜けたおかげて、もともとの奇妙奇天烈な形がさらに激しくならざるを得ないようだ。それから、こわれかかった、薄暗い、空っぽの大きな厩があった。この建物は国王ヘンリー八世の時代に建てられたといわれ、次のような言い伝えがあった。すなわちエリザベス女王が狩りの途中、ぐっと張り出した窓つきの樫の腰板張りの部屋に一夜お泊りになったばかりでなく、翌朝玄関の足台にお立ちになり、片足を鐙にお掛けになった時、この処女王はさる職務不行き届きがあったとして、不運なひとりのお小姓に平手打ちや拳骨をくらわされたとか。不幸にしてどこの小社会にもいつでもいるものであるが、メイポール亭の常連の中にも少数の疑い深い常識家がいて、この伝説はいささか怪しいと考えがちであった。しかし、この古式ゆかしい宿屋の亭主が、この足台こそ動かぬ証拠とばかり指さして、今日までこれこのとおり同じ場所に置いてあるのだ、と、得々と説明すると、いつも疑いを抱く者は多数派に押しまくられ、信ずる者は誰もみんな勝利を収め、快哉を叫ぶのであった。
 この言い伝えとか、他の似たような多くの物語の真偽はともかくとして、メイポール亭は事実古い、たいそう古い建物で、本人が口で言っているだけの、いや、ひょっとするとそれ以上の年齢を持っているのかもしれない。これはある特定の年齢のご婦人の場合と同様、不定の年齢を持つ家にしばしば起こる現象である。その窓には昔風の菱形の桟が入り、床はあるところが窪んでデコボコになり、「時」の爺さんの手に触れられて真っ黒になった天井には、どっしりとした梁が走っていた。玄関口にはグロテスクで奇妙な彫刻を施した古めかしい小屋根つきのポーチがあり、夏の晩などには特に気に入りの常連がここで煙草を吸ったり、酒を飲んだり----そうです、それから時には懐かしい歌を歌ったりもしながら、背の高い、いかめしい構えの木の長椅子に座っていたものだった。この二つの椅子ときたら、まるで何かお伽噺に出て来る双子の恐竜のように、御殿の入口を両側から護っているのである。
 使われていない部屋の煙突には、かなり前から燕が巣を作り、早春から晩秋にかけて、軒下では雀の一連隊がチュンチュンとおしゃべりしていた。陰気な厩やその前の小庭のあたりにいる鳩の数といったら、宿の亭主以外の誰にも数えきれぬほど。おおいえばと、くじゃくばと、ころげばと、胸ふくらましばとなどが、輪を描いて飛んで回るさまは、この家の落ち着いた荘重な感と、あまりぴったりしないかもしれないが、一日じゅう彼らの誰かが絶えず発する単調なクークーという音は、まさにぴったりで、家をおとなしく寝かしつける子守歌のようだった。二階三階が上から押しかぶさるように重なり、窓ガラスが小さい寝ぼけまなこで、正面が張り出して通路の上に突き出ているために、この古い宿屋はこっくりこっくり眠っているように見えた。他の点でも人間と似ている点を見つけ出すのに、実際それほど想像力をふくらませる必要はない。煉瓦はもともとは薄い赤色だったが、黄色くなってしまって、まるで老人の皮膚のように色あせている。がっしりとした材木は歯のように朽ちかけ、あちこちに見られる蔦は、まるで老年の身体をいたわる暖かい衣服のように、大分がたが来ている壁のまわりを、しっかりと緑の葉で被っていた。
 とはいえ、まだ元気いっぱいの年頃だった。夏や秋の夕暮時、落日の夕映えが近くの森の樫や栗の木をあかあかと輝かしている時、この古い宿屋もその輝きを少々お裾分けにあずかり、森にぴったりの連れ合いよろしく、まだまだ何年も生き永らえそうな様子だった。
 これからの話に関係のある夕暮時は、夏でも秋でもなくて、三月のたそがれ時、風が葉の落ちた木々の枝のあたりで不気味な唸り声をあげ、広い煙突の中をがたがたと吹き抜け、雨をメイポール亭の窓に叩きつけ、たまたまこの時刻に酒場にいた客には、ずるずると腰をすえる絶好の口実を与え、亭主には十一時きっかりに空が晴れるという予言をさせることとなった----まことに不思議な偶然の一致であるが、十一時というのは彼がいつも店を閉める時刻だったのである。
 このように予言の精が乗りうつった男の名はジョン・ウィレットといい、がっしりした身体で、大頭で、顔の肉づきのいい男。これだけ言えば彼が頑固者で頭のまわりは鈍く、しかも自分は偉いんだと骨の髄まで思い込んでいる人間だ、ということがわかる。ジョン・ウィレットが比較的気持ちの穏やかな時には、自分はのろまかもしれないが、確かな男なんだ、とよく威張っていたが、ある意味ではこの声明は絶対に否定できないものを持っている。なにしろあらゆることにおいて彼は間違いなく敏速の反対だったし、生きとし生ける者のうちで、もっとも執拗で確信にみちた男----自分の考え、言動はすべて正しく、それ以外の考え、言動は必然的、不可避的に間違っている、これは自然と神の法によって確定し、制定されていると信じ込んでいる男だったから。
 ウィレット氏はゆっくりと窓に近寄り、冷たいガラスに鼻をぎゅっと押しつけ、炉の明りの反射で外が見えなくなるといけないので、目に手をかざしながら外を眺めた。それからまたゆっくりと炉のそばの昔からおなじみの自分の席に戻ると、ちょっと身震いをし、それでいっそう暖かい炉の火の有難味が増したというような様子で、常連の客を見まわしながら言った。
 「十一時には晴れるよ。それより早くも、遅くもない。その前でも後でもない」
 「どうしてそれがわかるんだね」彼の向かいの隅に座っていた小男が言った。「満月はすぎているし、月は九時にならなくちゃ昇らない」
 ジョンは相手の言葉の全部を理解できるまで、落ち着きはらった重々しい態度で質問者を見つめていたが、それから、月のことはおれの縄張りだ、余計なお節介やくな、とでも言っているような口調で答えた。
「月のことは心配いらないよ。月のことなんかどうでもいいんだよ。月のことなんかにちょっかい出すな。そうすりゃ、わしもあんたのことにゃ、ちょっかい出さないから」
 「怒ったのかい」小男が言った。
 またもやジョンは相手の言葉が頭の中に完全にしみ通るまで、ゆっくり待ってから、「まだ怒っちゃいないよ」と答えながら、黙ったまま落ち着きはらってパイプに火をつけた。時々この家の常連から離れたところに座っている男の方を横目で眺めたが、この男は大きな袖口に艶のない銀色のレースと、大きな金属ボタンの飾りがついた、ぶかぶかの乗馬用外套を着、かぶっている帽子の広いつばが顔を隠している上に、額を支えている手でさらに顔を隠していた。見るからに付き合いの悪そうな男だ。
 もうひとり客がいた。長靴をはき拍車をつけて、やはり暖炉から離れたところに座っていたが、腕を組み眉を寄せ、前に置いている酒に口もつけていないところから見ると、目下議論されている話題や、議論している人間以外のことに心を奪われているらしい。二十八歳くらいの青年で、中背よりはやや高く、いささか痩せてはいたが、がっしりした上品な体格の持主。黒い髪の毛で、乗馬の服装をしていたが、着物と大きな長靴(現在近衛騎兵隊がはいている長靴に、形や流行が似ている)が、外の道の悪さをありありと物語っていた。しかし泥にまみれてはいるものの、彼の服装は立派で裕福そう、そのうえごてごて着飾らなくても、お洒落な紳士らしく見かけられた。
 彼のそばのテーブルの上には、さっき彼が無造作に投げ出した重い乗馬鞭と、縁のたれ下がった帽子が置いてあり、帽子は天気が悪いのでそれに備えてかぶって来たものであろう。それから革袋に入った二挺のピストルと、短い乗馬用マントが置いてあった。伏せた目を隠している長い黒い睫毛のほか、顔はほとんど見えないが、全身にただよっているのは、のんきで構わず屋という態度と、生れながら身についた上品さで、それがちょっとした装身具にまで及んでいるらしく、それらはみな洒落ていて、手入れもよく行き届いていた。
 この青年紳士の方にウィレット氏の目が向いたのは、たった一度だけで、その時ですら、あの無口の見知らぬ客に気がつきましたか、と無言で問いかけているようであった。ジョンと青年紳士が前からの知合いであることは明白だった。こちらが目を向けても、相手が視線を返すどころか、気がついてもいないことがわかったので、ジョンは次第に自分の視線を一点に集中し、あのつば広帽子の男に向けた。しばらくするうちに彼の注意力があまりにも強いために、炉端の親友にまでそれが感染し、みんなはまるで申し合わせたように口からパイプをはなし、口をぽかんと開けたまま見知らぬ客を見つめていた。
 大男の亭主は大きな、どろんとした魚のような目をしていたが、先刻月に関して大胆な意見を洩らした小男(彼はすぐ近くのチグウェル村の教会の書記兼鐘つきであった)は、ビーズ玉のように小さくて丸い黒い目をしていた。さらにその小男は膝まである色のあせた黒の半ズボンをはき、色のあせた黒の上着と、長い折り返しのついたチョッキには、どう見ても彼の目以外に似るもののない、小さな奇妙なボタンが並んでいたが、それが実によく似ていて、炉の火を受けて、ボタンがチカチカ輝くばかりか、磨かれた靴の留金までが火を反射するので、頭から足の先まで全身これ目になってしまい、それが全部見知らぬ客を見つめているようだった。こんなに見つめられては、その男がそわそわし出したのも当然だ。そのうえ雑貨屋と郵便局長を兼ねている小男のトム・コッブと、のっぽの森番フィル・パークスの目までが、お仲間の先例にならって、これに負けじとばかり、つば広帽子の男を見つめたのである。
 見知らぬ客はそわそわし出した。おそらく焼きつくような視線の砲火にさらされたからかもしれないし、これまで物思いにふけっていたことの内容によるのかもしれぬ----たぶん後の方が強いのだろうが、彼は姿勢を変えると急いであたりを見回し、自分がそんなにもじろじろ見つめられているのを知ると、ぎくりとして、炉端の一団の方を怒ったように、またうさん臭そうにじろっと見た。その結果ジョン・ウィレットを除いた一同の目は、すぐに炉の方に向きを変えたのであるが、ウィレットだけはいわば現行犯として捕えられたようなもので、そのうえ(すでに述べたとおり)とっさに行動に移れない性分の男であるから、相変らず特にばつの悪そうな、うろたえた様子で客を見つめ続けていた。
 「何だね」と、見知らぬ客が言った。
 何だね。これだけなら大したことじゃない。それほど長い弁舌ではないから。だから亭主は二、三分ほど黙考してから答えた。
 「ご汪文かと思いまして」
 見知らぬ男が帽子を脱ぐと、あらわれ出たのは六十くらいの男のきつい顔たった。長いこと雨風に打たれ、寄る年波がはっきり示されている顔で、生れつききつい造作だが、鬘の代りの頭のまわりにきつく巻いた黒い布が、額を隠し、眉まで隠さんばかりなので、男前は少しも上がっていなかった。深い切り傷があって、加えられた当初は頬骨をあらわに見せるほどだったに違いないが、いまでは醜い縫目を見せている。もしもこの傷痕を隠そうとか、注意をそらそうとしているのだったら、その意図はあまり達していないことになる。なにしろ顔をひと目見ただけで気づかずにはおれないような傷痕だったから。顔色は死人のような土気色で、三週間も伸び放題と思われる、ごま塩まじりの顎鬚をもしゃもしゃ生やしていた。こうした風体の男(服装は見すぼらしく貧乏たらしい)が、いまや席から立ち上がり、酒場を横切って、小男の教会書記が礼儀上か、恐怖にかられてか、譲り渡した炉端の椅子に腰を下ろしたのである。
 「追剥だ!」トム・コッブが森番のパークスにささやいた。
 「追剥があんな見すぼらしいなりをしてると思うかい」と、パークスが答える。「トム、追剥ってのは、君が思ってるよりもいい稼ぎなんだから、貧乏たらしいなりをする必要もないし、習慣もないのさ。本当だぜ」
 その間、二人が噂し合っていた当の男は、酒場に対する然るべき敬意のしるしとして、酒を注文し、亭主の息子ジョーがすぐそれを持って来た。この息子は肩幅の広い背の高い若者で、年は二十歳だが、父親はまだ彼を子供だと考え、子供扱いしたがっていた。見知らぬ客は手をさしのべて炉の火であぶりながら、一同の方に顔を向け、鋭い目つきで眺め回してから、その顔にふさわしい声音で言った。
 「ここから一マイルかそこらのところに立っているのは何かね」
 「居酒屋のことかね」と、亭主は、例によってしばらく考え込んだ後に言った。
 「父さん、居酒屋ってことないだろ!」ジョーが叫んだ。
 「メイポールから一マイルかそこら以内の、どこに居酒屋があるんだい。この人の言うのはお屋敷のこと----ウォレン屋敷----さ。もちろん、きまってるじゃないか。お客さん、古い赤煉瓦のお屋敷でしょう、自分の持ち地所に立っている----?」
 「ああ」と、見知らぬ客が言う。
 「十五年か二十年前には、いまの五倍も広い地所だったんですがね。他のもっと金持のお屋敷でもそうですが、少しずつ売られて減っちまったんでさ----気の毒なことに!」若者が続けた。



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